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 おとひっちゃんは見事、期末試験をトップで乗り切った。

 葉牡丹事件という衝撃的な出来事を乗り越えて見事、というのは、いかにおとひっちゃんの精神力がすごいものかってことをあらわしている。頭いいんだ。そういうとこだ けは。

 結局万年二番手の総田とため息を吐く。どうせ僕なんて、上位に食い込むことなんてない。こんな奴が「天才参謀」と呼ばれているんだから学校の定期試験ってあてにならないものだと思う。青大附中の期末試験ってどんな感じなのだろう。うちの電話が鳴るたびにどきっとしている。

  時期的に重なっているからだろうけれど、佐賀さんからの連絡はまだなかった。


  「じゃあそろそろ、準備に取り掛からないとだなあ」

 独り言を言うおとひっちゃんに、僕は知らん顔で尋ねた。

「なんの?」

「決まってるだろ。青大附中との交流会だ」

 ──おとひっちゃん、やる気あったんだ。

 やはり「葉牡丹事件」を別のものとして割り切り進める決意をしているらしい。あとで総田にそこんところ、確認しておかなくては。くちばしをはさむと、おとひっちゃん、すぐすねてしまう。黙って話を促すことにした。

「期末が終わってからにしようと話はしてたんだ。青大附中の期末試験は来週いっぱいで終わりだということだしな。雅弘、お前も手伝ってくれるよな」

 いかにも当然、と言った顔している。まったくおとひっちゃんには迷いがない。

「けど交流会の主催って、生徒会でやるんだろ? 俺、関係ないのにかまわないのかなあ」

「そうだなあ」

 ──気づいてないのかよ。

 僕はため息をつきたいのをこらえた。こういうところが抜けている。世話がない。

 第一僕は水鳥中学二年三組の学習委員。「長」もなにもついていない。ただおとひっちゃんの友だちってだけだ。それだけの理由で参加できるわけがない。

「じゃあしょうがないな。総田たちと組むしかないか」

 おとひっちゃんは肩を落としてうなだれた。

「それがいいよ。俺、あまりその辺わかんないし。けど、青大附中についていくとかだったらいくらでも付き合うよ」

 下心ありすぎるほどある。

「やっぱりお前、いい奴だよ。俺の親友だ」

 ──素直に喜びを表すとこが、おとひっちゃんだよな。

 話をそらすために試験結果を持ってかえるのが苦痛だってことを、ひたすらぐちった。本音でもある。この調子だと公立高校入試に必要な内申点がかなり低くなってしまう。おとひっちゃんは思ってもみないだろうけれど僕はずっと下のランクの学校を狙う定めなんだから、大変なのだ。

「雅弘、お前どこ受験するつもりなんだよ」

「一応、青潟工業か商業」

 最初から職業科を考えているってのは本当だ。おとひっちゃんが公立で本命にしている青潟東よりは内申ランク低い。専門がはっきりしている学校に行きたかった。手先もどちらかいうと器用なほうだと思う。自分なりに適正チェックは怠ってないつもりだ。  おとひっちゃんはよくわけのわかんない顔をして僕を見た。

「普通科にしないのかよ」

「将来就職する時、すぐに手に職がついたほうがいいだろ。俺、おとひっちゃんみたいに頭はよくないけど、できるだけ早く独立して仕事したいんだ。だから」

「あ、お前、大学行かないのか?」

 ほらきた。高校進学したらみんながみんな大学に通おうなんて決め付けているとこ。おとひっちゃんの単細胞。

「高校卒業してすぐに就職しないかもしれないけど、その時は専門学校行くつもりなんだ。できるだけ就職に役立つ能力身に付けたいからさ」

 言葉を発せずとまどっているおとひっちゃん。

 たぶんおとひっちゃんにとって、「青潟大学附属高校〜大学進学〜一流企業就職」というのは万人向けの道だと思っているのだろう。特別に目的がなかったら、僕だって普通科を目標にしていたかもしれない。僕としてはできるだけ早く就職して、お金を稼ぎ、独り立ちしたいと思っていた。家から早く出て一人暮らししたいそんな気持ちでいっぱいだった。もっというなら、自分の頭と腕で働くことのできる仕事をしたいと思っていた。

「雅弘、工業だったら、青潟工専もあるんだからな」

 ──そんなレベルの高い学校行けるわけないだろ。

 工業専門高等学校、通称、工専。  自分の学力はとっくにつかんでいるつもりだ。

「今からそんなレベルの低いところ狙うなんてもったいねえよ」

 ──そう簡単に決め付けるおとひっちゃんの方がもったいないと思うけどな。

 それ以上文句を言うと、向きになったおとひっちゃんに噛み付かれるのが目に見えている。僕はすぐに、別の話を用意した。


「おとひっちゃん、交流会やるのはいいんだけど、青大附中から誰が来るんか」

 まさか、あの葉牡丹の彼女がやってくるなんてことはないだろうか。

 体育器具室で健吾くんは四月以降、杉本さんが評議委員から降ろされると断言していた。信じるならば、四月以降に開いたほうがいいんじゃないだろうか。

「たぶん二年が中心だと、立村……ほら、委員長、あいつが言ってた」

 ──へえ、あいつと連絡取ってるんだ。

 もちろん副会長なんだから、代表として連絡を取るのは普通だろ うけれど、かなり意外だった。

「俺たちは三年の前半までだけど、青大附中は三年まるまる活動できるからだって言ってたぞ」

 となると、立村評議委員長が指揮をとることになるのだろうか。

「主だったメンバーは現二年と、一部の一年とになりそうだということだ」

 ──一部の一年に杉本さんが入っていたらどうするんだよ。

「だから俺たちも、内川を中心として、一年連中を集めておけばいいと思うんだ、雅弘。俺と総田は手伝いのつもりでいればいいだろう。その辺も立村と話してある」  

  ──なるほどな。青大附中は二年中心、水鳥中学は一年中心。これだったら見事にず れるな。

 おとひっちゃんもそれなりに、考えることはあるんだ。僕は素直にえらいと思った。

「じゃあおとひっちゃん、交流会には出るの?」

 返事は意外だった。

「いや、俺はたぶん裏に回る。総田が関心持ち出して、やたらと参加したがってるんだ。あいつもやはり、外部との交流に命かけたい気、してきたんだろうなあ。いい意味で内川が刺激になったみたいだ。内川の奴も言ってたんだ。『関崎先輩みたいに僕もぜひ、交流関係やってみたいなって思っていたんです。総田先輩もどうですか』ってな」

 ──なあんだ、そういうことか。

 要は総田教授の計画がはまったというそれだけのことだ。おとひっちゃんひとりでそんなこと思いつくわけがない。


 総田には後でこっそり電話連絡することにした。急いで帰り、たまたま家の中にいた母さんに、

「今日、電話かかってこなかった?」

 と確認した。もちろん店にではなく、僕あてにだ。

「そんな昼間にかかってくるわけないじゃない。雅弘、あんた何電話に最近ご執心なの?」

 母さんはまだ、佐賀さんという女子が僕に会いにきたということを知らない。

 父さんもその辺、わかってくれているらしい。後で恩を売りつけないでほしい。

「なんでもない。勉強する」

「雅弘、期末試験の成績、あとでちゃんと見せなさいよ」

 決していいとはいえない結果だったから、できるだけ引き伸ばしたかったのだが。厳しい現実だ。さて今夜は思いっきり説教されるぞ。


 部屋に駆け上がり、天井の木目をにらんで、僕はカモフラージュ用の教科書を広げた。苦手な英語の教科書。思いっきりカタカナで発音を書き込んである奴だった。

 ──電話番号、忘れたのかなあ。

 下に聞こえるように、英語の教科書を音読したが、頭には入らない。

 電話の音も聞こえない。ここんところ、やたらと家の電話が気に掛かる。

 ──レシートの電話番号、下一桁、プラス一ってあれだけ教えたのになあ。

 やはり、紙に直接書いた方がよかったのかもしれない。手帳を佐賀さんから貸してもらって、空いているところに僕が書いておいた方が。あの時は頭が回らなかった。後悔したってしょうがない。そういうことだったんだ。

 耳の上に黒い手まりのような編み上げ髪を、たまに部屋で思い出す。

 毎日、あの髪型を作るのは大変だろう。

 くせなんだろうか、耳もとに手を当てて小首をかしげるしぐさとかも。

 見ているだけで話がするっとできた女の子だった。

 ──まさか、俺と会ったことがばれたのかなあ。

 いろいろ考えていたけれども、やはり原因は一つ。「レシート紛失」しか考えられない。

 ──また相談しに来たいって言ってくれたけど、電話来なくちゃ、どうしようもないよなあ。でも、佐賀さん、番号分からなくなっちゃったんだったらしょうがないか。駅前の佐川書店って、電話帳で調べれば一発なんだけど。小さいけどうち、広告だしてるからすぐわかるよ。

 カタカナ読みで、文字面には一切目もくれずに、僕は「タイタニック号の最後」を読み終えた。少しは頭に単語、こびりついただろうか。おとひっちゃんみたいな頭になれるだろうか。


 なんで僕が佐賀さんのことばかり考えているかっていうと、いい案を思いついたから以外のなにものでもなかった。おとひっちゃんや総田のように女子のことで頭が一杯、顔を見るとゆでダコ状態だからでは決してない。うっかり誰かに言うと、「お前色気づきやがって!」と言い振らされるのが関の山なので内緒にしているだけのことだ。面倒なことには巻き込まれたくない。

 佐賀さんに話した「杉本さんと立村評議委員長をくっつけてみんなハッピーエンドにする」という案なのだけど、僕ひとりではどうしようもない。むしろ佐賀さんが青大附属の人たちに協力してもらうしかない。けど、佐賀さんの立場は難しいような気が、僕はする。杉本さんを頭に、他の女子たちが佐賀さんを無視している状況なんだからなおさらだろう。

  女子ってなんで、自分よりもいいと思った子に意地悪するんだろうか。変な集団だ。もし男子だったらすぐ友だちになりたいって思うだろう。

 僕が今できることは、水鳥中学生徒会の中を少し、風通しよくすることだろう。総田だって、おとひっちゃんを厄介払いするために、何気なく協力してくれているんだろう。おとひっちゃんも杉本さんさえいなければ、大喜びで調子に乗るだろう。ふたりで協力してもらい、学校側を口説き落としてほしい。

 まずは、バスケットボール部の顧問を先にだろう。僕もその辺は応援してやりたかった。健吾くんって、わかりやすくって、おなかのなかはなんもなくて、いい奴だ。  僕だったら立村よりも健吾くんの方を友だちにすると思う。

 おとひっちゃんももっと、健吾くんと友だちになればいいのに。

 案。あるのだ。とにかく成功させたい、案が。

 けど、青大附属側の状況がわからないと進められない。

 ──佐賀さん、レシートきっとなくしちゃったんだな。じゃあしょうがないか。

 しょうがないか、では済ませないのが僕の流儀だ。

 当たり前、電話がないならば、直接会いに行く。口で言う。これが一番簡単だ。


 店に下りて行った。よっぽど用でもないか、父さん母さんに呼び出されて店の手伝いをさせられるか、そのどちらかでなければ顔を出さないんだけどしょうがない。夕方のピーク時間帯にかかっていて、かなりお客さんが入っていた。買って行く人はひとりかふたりだった。あとはみな、書棚と雑誌棚の前でかばんを本の上にのっけて、立ち読みする連中ばかりだった。外は雪で、かばんが濡れているのに平気で置いてしまうお客さんに、うちの母さんはいつも怒っていた。紺の縦襟型コートを着ている女子高校生と、雑誌棚の間に無理やり割り込んでいき、「ちょっとごめんくださいよ」と言いながら下の引き出しを引っ張り出した。立ち読み客に対する嫌がらせだ。根性あるのはその女子高校生、一切無視して分厚い女性漫画雑誌を読みふけっていた。母さんがわざわざかばんを、本の上からどけて床に置いたっていうのに、何も感じていないようだ。この勝負、悪いけど母さんの負けだ。本屋は読んでもらわないと商売にならない。

 父さんがレジで本の間に挟むスリップ……しおりのような形をしている細長い紙のことだ。真ん中で折り返してあり、本の間に挟みこまれているものだ。これを半分に千切って、片方を店に保存し、もう片方を出版社へ送り返すことによってお金がもらえるんだと言っている……を二枚にちぎって分けている。僕はこっそりもぐりこんだ。

「雅弘、手伝うか?」

「うん」

 すでに父さんには、佐賀さんとの繋がりを知られている。まだ二回しか会ったことがないのに、

「雅弘、お前もやるなあ」

と頭を小突くのは勘違いもいいとこだ。面倒だったので言い訳はしてない。ありがたいことに父さんは、母さんに告げ口してないようだ。かえって好都合かもしれない。なんとなくそう思った。

 僕は父さんが色ごとに分け終わったスリップを、輪ゴムで止めて、五十枚ずつさらに束ね直した。

「明日、うちの配達するものってないのかなあ」

 目を合わせずに、お仕事に専念している顔をしたまま尋ねた。

「配達か? ああ、あるぞ」

 レジ後ろの棚にあるバインダーノートを取り出して、父さんはチェックを開始した。毎月、毎週到着する雑誌の定期購読予約というのがうちの店では結構ある。テレビやラジオの語学講座テキストとか、喫茶店や美容院に届けるファッション雑誌とか、飲食店などで使うらしい料理関連の雑誌などが中心だ。購読予約しない限り絶対に入荷してこない雑誌などもたくさんあるらしい。父さん母さんは、ノートに全部メモしておき、入荷するとすぐお客さんに電話して知らせている。学校が休みで僕が家にいる平日には、よくその手伝いもさせられる。お客さんの都合で来れない時は、配達することもある。自転車で小回りの利く僕がよくこき使われる。当然、お駄賃を弾んでもらう。これは別か。

 きっと父さんは、小遣いほしさに言い出したんだと思ってるんじゃないだろうか。

「あのさあ、俺、よかったら、明日配達手伝おうか? どうせ明日、五時間目で終わるからさ」

「どうしたんだ雅弘、手伝い自分から言い出すなんてなあ。さてはお前」

 ここだけなぜ小声で言うんだろう。

「デート代稼ぎたいのか」

 ──結局これかよ。

 誤解されてもしかたない。目的があるんだからしかたない。僕は黙って五十枚ずつスリップを数え続けた。コミックのスリップ枚数が半端じゃない。思いっきり誤解したままの父さんはにやにやしながらバインダーを閉じた。

「汗を流して賄おうっていうのはいい根性だ。よし、じゃあ明日、雅弘やれ。かなりあるからなあ、覚悟しろよ」

「大丈夫、自転車で行くから」

 さっきの雪でまた明日はぬかるみそうだけど、大丈夫だろう。大丈夫、絶対大丈夫。

 レジが込んできたので、「カバーいりますか?」とお客さんに尋ねながらカバーかけの手伝いに専念した。今日はお小遣いまだもらえない。別に小遣い稼ぎをしたかったわけじゃないのでその辺はどうでもよかった。部屋に戻ったとたん母さんに捕まえられて、期末試験の結果で思いっきり怒られたのも、これまたどうだっていいことだ。


 次の日、学校の終わるのが待ち遠しかった。

 こんなに手伝いしたくてなんないなんて日は、そうない。

「佐川くん、今日はお掃除当番よ」

 さっきたんに言われるまで忘れてしまったくらいだった。

「ごめん、さぼるつもりはなかったんだ。今日は俺水拭きだよね」

 机の前にぶら下げたぞうきんを引っ張り出した。なんだかまだしめっていて気持ち悪い。三月に入ったけれど、春なんてまだまだ先だ。寒い日に限って水拭き掃除の日だなんてついていない。さっきたんも今日は週番じゃなかったのだろう。僕の顔を黙って眺めていた。

「急いで帰らないといけないの?」

「ほんとはそうなんだけど、でもさぼるつもりじゃあなくって」

 さっきたんに気付いてもらえてよかった。掃除さぼりは違反カード一枚に加算されるんだから。またはつかねずみのようなきょとっとした顔で、さっきたんは首を振った。

「でも、急いでいるんだったら、佐川くん、窓枠だけ拭いて、それで終りにすればいいわ。そこだったらすぐに終わるし、ぞうきんをバケツで洗うだけでいいし」

 もちろん誰にも聞こえないような声でだった。僕にひたっとくっつく格好になる。後ろで誰かがひゅうひゅう言っている。僕は平気だけどさっきたんはいやじゃないんだろうか。

「さっきたん、いいよ、俺ちゃんとやっていくよ」

「困った時はおたがいさまだと思うの」

 少しうつむいた感じで、さっきたんはこくりと頷いた。

「あの、実は、これからうちの配達、手伝わなくちゃいけないんだ。だからなんだ」

 制服にさっきたんのお下げの先っぽがくっつくくらいでささやかれたら、言うしかない。僕はぞうきんをひねりながら、教壇上のバケツに向かった。机と椅子をすべて下げているので、前はすかすかだった。さっきたんも一緒に雑巾をつまんでいる。

「お家の手伝いしているのね、大変だわ」

「自転車で青大附属の方まで回らなくちゃいけないんだ。」

 ここまでは本当のことを言っているんだからやましいことではない。急いでバケツのとこにしゃがみこみ、水にぞうきんを浸した。一緒にさっきたんも同じことをした。ふたりでバケツを間にして向かい合った。

「そうなの、だったら急がなくちゃいけないのね」

「うん、でも当番は当番だから、きっちりやるよ」

 掃除の手を抜くのなんて簡単だ。僕は悔しいけど背が低い。だから高いところの拭き掃除なんて、台を使わないとできない。いつも机をさあっとなでるようにこすって、それで終りだ。雑巾もさっきたんの言った通り、一度ぐにゅぐにゅと絞れば終りだ。さっきたんが心配しなくても大丈夫だってわかっている。

「それなら佐川くん」

 また僕の隣りに回りこむようにしてしゃがみこむ。

「今日は私が机を全部拭くわ。そうすれば佐川くんは窓枠だけですむでしょ」

 指先がちくっと痛い。きっと昨日、本のスリップを数えているうちに指をすったからだ。冷たくて指がおかしくなりそうだ。

「あ、ありがとう。さっきたん、助かるよ」

 僕は素直にお礼を言った。さっきたんって、こういう時ものすごく気が利く人だと思った。早く帰りたくてなんない顔、していたんだろうな。

「ううん、いいの。あのね、佐川くん」

 かっちりと絞り、立ち上がる寸前にさっきたんはささやいた。

「佐川くんからもらった葉牡丹、ちゃんと肥料あげてるのよ。可愛いお花でよかったねって、お父さんもお母さんも喜んでいるの。ありがとう」

 ──葉牡丹、そんな大切にしなくったっていいのに。

 とりあえずさっきたんの心遣いはありがたく頂戴した。僕は絞りきっていない雑巾でべたべたに窓枠をぬらしておいた。葉牡丹もさっきたんには普通の花に見えるらしい。



「行ってきまーす!」

 店に声かけて出発するなんて、小学校以来だ。父さんは事情を知っているからいいけれど……厳密には知らないに等しいのだけど……母さんは返本用の雑誌をまとめながらびっくりした顔で見送ってくれた。あとでつっこまれるだろう。きっと。


 通りすがりの家はほとんど顔見知りだったから問題なかった。一冊単価もそれほどものすごい額じゃないので、強盗に襲われるんじゃないかとひやひやしないですんだ。使い込みなんてするわけない。ばれたら張り飛ばされる。

 売上金専用の財布に全部入れて、つり銭用のきんちゃく袋をしっかりジャンバーの下に首からぶら下げた。こうするとお金が見えないし落としてもすぐにわかる。

 最後の一軒は、青潟大学の近くだった。月刊の小説雑誌を三冊届けるだけだ。おばあちゃんでもう外に出られないので、めったにうちの店には来ない。電話で注文して届けてもらう、ことに決まっている。そこのうちには冬休みに何度か配達に行っているので、道はあらかたわかっている。

 時計を見ると、あと十分くらいで四時だ。間に合うだろうか。  雪が降りそうで降らない空に感謝しながら、僕は最後の一軒に向かった。

 だいたい十分くらいこげばたどり着く。青大附属中学の校門から、ほぼ近い家だった。


 配達そのものはいつも通り終わった。売上金を大切に首からかけなおし、気合を入れて僕は自転車の方向をかえた。自転車ですれ違う人の多くが、青大附属らしいブレザ−制服を着ていた。中学生かもしれないし、高校生かもしれない。大学生だったらわからない。制服着ていないと聞いている。ところどころに「下宿・青潟大学生男子募集」とか「家庭教師します・当方青大三年・青大附中・附高入試ならおまかせください」といった張り紙がやたら目立つ。マスクをしている人も多かった。くねくねした道を抜け出し、ようやく青大附属中学の校門にたどり着いた。青潟大学に直接向かうならすぐなのだけど、附中の玄関はかなり構内の中にある。中学生はぺえぺえだって証明みたいなものだった。

 うちの中学と違って、庭あたりの雪かきも完璧だ。

 まだまだ生徒がいっぱいうろついている。中には奥の方で雪球をこしらえている奴もいる。おとひっちゃんと同じ感性の持ち主だろうか。やたらと雪合戦をやりたがるというような。また後ろの方では、明らかに青大附属の制服ではないとわかるような格好の男子中学生が、派手な自転車にまたがって空をにらみつけている。目を合わせないようにしていた。金と銀のまだらな自転車って、恥ずかしいんじゃないだろうか。一緒には歩きたくないセンスだ。

 僕はしばらく校門でうろついていることにした。

 金と銀のまだら自転車中学生は、これまた栄養まんてん、といった感じの女子と片手を打ち合わせて、仲良く帰っていった。僕の方をちらりと見たけれど、ちっともいやな感じがしなかった。目が合ってお互いにっこりしてしまった。


 用事がないのに青大附中前でうろついていたらあやしまれるだろう。

 でも今日は、「うちの店手伝い」「配達でたまたまこっちにきた」「せっかく来たなら寄っていこうかな」「ということで待ってたんだ」と言い訳ができる。

 「小説雑誌三冊」のおばあちゃんの家が青大の近くだったことは前から知っていた。

 小説雑誌は毎月発売日が決まっている。

 ちゃんと理由がたくさんあるわけだから、僕が堂々と佐賀さんを待ち伏せしていたっておかしくはない。ただ、一年だと早く帰ってしまうなんてことないだろうか。健吾くんの付き合い相手だから、バスケ部の練習が終わるまで待っているなんてことないだろうか。いや、もしそうなら健吾くんを捕まえて、何か言いつくろって伝えてもらうこともできるだろう。健吾くんにはばれないように、と言っていたけれど、僕ならいくらでもごまかす自信がある。

 ──でも、帰ってたらしょうがないなあ。まあいいや。四時十五分くらいまで待ってようっと。

 無駄に時間を費やしはしない。僕はその点、シビアなのだ。

 意外と生徒たちが切れ目なく、少しずつ、校門から出てきている。自転車通学がかなり多いらしい。もしバス通学しているってことだったら反対方向のバス乗り場で待っていた方がよかったかもしれない。でも、この前帰りのバスの番号を聞いたら、青大附属近くへ行く路線のものだった。方向は間違っていないと思う。  思いつく限り、佐賀さんと健吾くんが話していた内容を繋ぎ合わせてみた。

 もし健吾くんと一緒に出てきたら、僕は知らん顔して健吾くんにだけ話かけることにしよう。おとひっちゃんには内緒で、バスケ部交流会の協力を申し出に来たとでもすればいい。佐賀さんとは会うのが二回目という顔をするのも簡単だ。そのくらいのこと、佐賀さんは得意だろう。僕ときっと、おんなじだ。


 自転車が二台連なって校門から流れ出た。と同時に小さい方の自転車がすぐに停まった。 うすい桃色の自転車がくきっとハンドルを曲げた。

 ──佐賀さんだ。

 僕はほっぺたのあたりで片手を振って合図した。

「佐川さん!」

 くるりんと巻き上げた髪の束。全く変わっていなかった。

 続いて先に進んだ自転車がゆっくりUターンして正面を向けた。

「なんだよ佐賀、どうしたんだ……?」

 立ち漕ぎして戻ってきたのは、スポーツ刈りがだいぶ伸びてきた健吾くんだった。佐賀さんに話し掛ける口調とはまるっきり違っていた。

「あ、あの、ええと、水鳥の」

「おひさしぶりです」  

  相手は一年生だけど、やはり僕としてはきちんと挨拶しておいた方がいいかなと思っただけだ。下級生だし、すぐにため口を叩くことにした。

「今日、たまたま用事があって来たんで、ちょうど通りかかったとこなんだ」

「あ、すげえ偶然ですね。関崎さんおげんきっすか」

 健吾くんもおとひっちゃんのことが好きらしい。いいことだ。

「元気だよ。どうなの。交流会の方は盛り上がっているのかなあ」

 隣りで物言いたげな顔で僕を見つめている佐賀さん。でも健吾くんの前だとだんまりだった。ほんとは佐賀さんと話をしたいのだけど、お付きあいの二人にいきなり話すなんてことはできない。

 ポケットの中には店で配るプレミアムのバッチが入っている。あまり物だ。ずっと前に父さんがくれたものだった。描かれているのは有名なアメリカのバスケ選手らしいけど僕は知らない。持っていけば話のネタになるかな、と思って持ってきた。  きりのいいところで取り出して健吾くんにあげるつもりだった。  


 佐賀さんがちょっと唇をつぼめ、僕を上目遣いで見やった。

「あの、佐川さん、この前はどうもありがとうございました」

「なんだよ佐賀、邪魔すんな。男同士の話なんだ」

 まだ当り障りのない話だったので、割り込まれても困らない。  

 僕はちょっととぼけてみることにした。

「え、いつの?」

 忘れていたふりをしておけば怪しまれないだろう。目ではわかるように合図したつもりだけど、伝わっただろうか。佐賀さんはひいたりしなかった。またかすかに口元をほころばせた。片手を耳に当てた。

「この前、佐川さんのおうちだなんて気付かなくて、お店に入ったの」

「店ってなんだよ店って」

 かなり機嫌悪そうな健吾くん。妬いているんじゃないだろうか。ふたりっきりの時がばれたら大変だ。佐賀さんのことだから考えがあるはずだ。僕は合わせることに決めた。

「俺のうち、駅前の本屋なんだ。電話帳にも載っているよ。『佐川書店』って」

「ああ、俺小学校の時、あそこで青大附中用の問題集買わされたことあるなあ」

 確かにうちの店は参考書・問題集関連が多い。

「でね、健吾」

 「健吾」と呼び捨てにするのはなぜだろう。ぼんやり考えていた。

「私、この前のエレクトーンのお稽古の時に、健吾が探していた外国のバスケットボールの人の本、探してみようと思って本屋さんに寄ったの。そうしたら、佐川さんがたまたまレジにいたの。びっくりしちゃったの。あの時は本当にありがとうございました」

 僕と健吾くんの顔を両方覗きこみながら、佐賀さんはお礼を言ってくれた。嘘ついていない。やましくない気持ちで僕は笑った。

「え、お前、そんなこと一度も言わなかったじゃないか!」

 険悪になりそうな空気だが、佐賀さんは全く沈着冷静だ。僕は様子をうかがいつつ、佐賀さんの本心を大急ぎで探った。エレクトーンのお稽古の帰りかどうかわからないけど、佐賀さんが僕とレジで顔を合わせたのは本当のことだ。健吾くんにばれても問題ないってことだろう。そう解釈しよう。

「うん、佐川さんにも内緒にしてもらったの。だって、健吾がほしがっているものを買ったんだって気付かれたら、いやだったの」

 ──なんでそこでそうのろけるんだよ!

 急におへそのあたりが痒くなった。

 一切本を買わずに店を出たなんて、ばらさない方がいいのだろう。

「だから、本を買えなくって、挨拶だけして出ちゃったの。でも他の本屋さんに行った時にはもう雑誌なくて、あの時買っておけばよかったって、今後悔していたの。佐川さんの顔見ていて、つい思い出してしまったんです。ごめんなさい。ごめんなさい、健吾」

 最初の「ごめんなさい」は僕あてだった。

「ったく、隠し事するなよな。佐川さん、すんません。こいつが邪魔したようで」

 最後の「ごめんなさい」で機嫌を少し直したのかもしれない。健吾くんは生真面目に頭を下げた。

 ──健吾くん、なんで、「こいつ」って呼び捨てするんだろう。

 急に一発、勝負したくなってきた。  

 ポケットを探り、外国のバスケットボール選手写真がくっついているバッチを取り出した。備えあれば憂いなし、ことわざは真面目に覚えておこう。


「これ、うちの店で配っていたものなんだ。佐賀さんが、一生懸命アメリカのバスケットボール関係の雑誌を探していたから、好きなのかなあって思ってたんだ。そうか、健吾くんにあげたかったんだね。ならこれ、あげるよ」

 佐賀さんに向かってはっきりと、わかりやすく伝えた。  しっかと見返してきた目は郷土資料館の時とと同じだった。 

 「私は梨南ちゃんのことが、大嫌いだったんです」とはっきりと断言した時と同じりりしい表情だった。女子でそんなきりっとした目を見たのは初めてだった。今も、どきどきしている。

「え、佐川さん、いいんですか」

「いいよ。ごめん。俺が声かけたから佐賀さん買うことできなかったんだから」  

  白々しい言い訳だけど、健吾くんに信じこませることはできそうだった。

 証拠に健吾くんは、僕が佐賀さんに渡したおまけのバッチを、ぐぐっと覗き込んでいる。早く渡せ、と言いたげだ。

「ありがとうございます。それなら健吾」

 照れもしない。少なくとも僕にはそう見えた。佐賀さんは両手で貝殻のように丸く受け取り、じいっと見つめながら健吾くんにバッチを差し出した。胸元から花が開くような柔らかい手つきだった。健吾くんも目をそのままずうっと合わせたままで、

「佐賀、お前」

 これだけつぶやき、指先でバッチを受け取った。お礼を言わなかった。

 僕の方に向かい、 「どうも、すげえうれしいです」  興奮を押し殺したような声で一礼した。本当は佐賀さんに言うのが筋だと思う。


「だから、健吾、もし青大附属と水鳥関係のことで、いろいろ問題あるようだったら、私、替わりにこっそり佐川さんにお手紙届けてあげるわ。私、毎週金曜がお稽古なの。駅前のバスに乗るの」

 僕はすっかり取り残されたまま、ふたりが自転車を押しながら前で語り合うのを聞いていた。佐賀さんの目的は想像つかないわけじゃないけれど。もちろんこれで堂々と会う口実ができたわけだけど。しかも健吾くんには言い訳できるないようだけど。

 でも。

 ──別に、お付きあいしててもいいけど。

 目の前で髪型をくるくる巻きにしている佐賀さんと、健吾くんの間に思いっきり自転車を突っ込んでやりたかった。

「ああ、そうだな。佐川さん。さっきの話なんだけど、あったかいとこでもう少し話、進めたいんですけど、『リーズン』の休憩所で少し、いいっすか」

 佐賀さんが振り向き、小首をかしげたところで、僕も頷いた。

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