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天井が果てしなく高い青潟大学附属中学の体育館。しかも広い。水鳥中学の体育館とは大違いだ。床もてかっているし、しかもつるつるだ。
スポットライトが天井全開の中、おとひっちゃんはひたすら体育館内を全力疾走していた。
ひとりではない。
もちろん僕でもない。
僕は入り口付近でもたれながら眺めていただけだった。
──おとひっちゃん、息、切れないよなあ。
元陸上部でしかも長距離ランナーだったのだから。今はだいぶ身体もなまったと言っているけれど、高校に入ったら陸上に復帰したいようなことを話していた。
一緒に背中にくっついて白い息を吐いているのは、伸びかけのスポーツ刈り頭をきりりと整えた、青大附中の男子だった。制服のブレザーではない。濃い青に白い線の入ったジャージ姿だった。
──しかし、挨拶もそこそこに、
「じゃあ、少し一緒に走りませんか」
はないよな。
おとひっちゃんも即座にOKした。僕には理解不能だ。
何が楽しくて、「体育館三十周持久走」やろうって言うんだろう。
ふたりとも顔は険しい。がはがはと白い息を吐きながら、それでもフォームを崩さないところが、やはり運動部。あと五周回ればゴールだ。疲れてるんならいいかげんやめろよ、誰も誉めるわけでもないんだから、と僕は思う。でもおとひっちゃん、無駄な努力が大好きなんだからしかたない。
──けど、日曜だってのになんでこんなことしてるんだろ。
後ろの方でまたひとり、入ってくる気配がした。髪の毛をお下げ編みにして、耳のところでくるくる巻いてカンフー映画の女の子みたいな感じにしている女子だった。この人はちゃんと制服できたらしい。軽く頭を下げてくれたので、僕も帽子を脱いで挨拶した。
「水鳥中学の人ですか?」
おっとりした口調で聞かれて、僕もつい笑顔で答えた。
「あと、向こうのひとりと一緒に」
女の子はこっくり頷くと、黙ったまま持久走を観戦し始めた。青潟大学附属中学の評議委員かなんかだろう。唇が少し光っている。瞳もきょとんとしているけど大人みたいだった。なんとなくだけど、さっきたんに似てると思った。
持久走は大詰めだ。マッチレース、と思わず実況をしてみたくなった。僕の前を走り抜けたふたりの顔を見るとまだまだ余裕が感じられる。ただちょっとだけ相手の男子、分が悪そうだ。歯を食いしばり、あごが出ている。おとひっちゃんはもくもくとフォームを変えていない。あと二周。
──ちょっと相手が悪かったよな。
勝利はまず、おとひっちゃんの手にありってとこだ。
青大附中の彼も相当馬力あると思うけど、やはり陸上部上がりの長距離走者と勝負するというのは、かなり無謀だそんなこと知るわけないだろうから持ちかけたんだとは思うけど。おとひっちゃんの性格上、遊びでも手は抜かない。どんな時も全力投球。
たとえこれから、青大附中評議委員会主催で、お茶を注がれつつ交流準備会が行われるとしてもだ。
また後ろから人の入る気配がした。横目でちらっと伺うと、ブレザー姿の男子がひとりと、一緒に連れられてもうひとり女子が姿をあらわしていた。僕の隣りにいる女の子も同じく視線を向けた。男子の方は僕とその子へ礼をしてくれたけれど、もうひとりのポニーテール女子はつんと向こうを向いたままだった。態度悪い。
──もしかして、例の彼女だろうかな。
いよいよラスト一周。ここで声をかけなくちゃ。
「おとひっちゃん、勝負だ!」
はっと、隣りの女の子が僕の方を見た。
おとひっちゃんはまったく無視。しかし踏み出す足が心持速くなったように見えた。たぶんラストスパートだ。
「健吾、がんばって!」
僕の隣りでちろっとえくぼをこしらえてみせ、女の子もかすかな声をかけた。もちろん体育館内には聞こえる。そいつ……たぶん健吾という名なんだろう……はその子に向かい、何かを言いたげな視線を送ってきた。
──もしかして、おつきあいの人なのかな。
帰ったら総田にこの話どう伝えようか、ちょこっとだけ考えた。
ラストスパートの直線でおとひっちゃんは形相変えて二メートルくらい引き離した。勝負をあきらめたのか、健吾くんは距離を無理に縮めず、立ったままゴールした。僕の立ち位置がゴールだ。
僕の目の前で、見事全力疾走。水鳥中学元陸上部の血は、見事に青大附中の覇者を倒したってわけだった。
後ろで数人、まばらな拍手あり。立ったまま両膝に手を当てて、かがみこんではあはあ言っている青大附中の彼に、僕の隣りの女の子は近づいていった。
「おとひっちゃん、こんな本気出してどうするんだよ。これからだよ」
答えはない。とにかく、心臓が相当苦しいらしい。学生服を脱いで、ワイシャツ一枚汗ぐっしょりかいたままで倒れている。こういう時はタオルを渡すのがベストなんだろう。僕はおとひっちゃんの学ランを上からかけてやった。ついでにポケットティッシュを袋ごと渡した。
「雅弘、ありがと」
僕はしゃがみこみ、まじまじとおとひっちゃんの横顔を眺めた。マラソン大会後に精魂尽き果ててぶったおれているおとひっちゃんと同じだった。髪の毛は汗で濡れていた。息も大きい塊が白く浮かんで消えていた。
──まったく、おとひっちゃん、手抜きできないからなあ。
「関崎さん、すげえ、あんたやっぱり、すげえよ」
おとひっちゃんよりもダメージが低そうな彼が近づいてきて、側にしゃがみこんだ。今度はおとひっちゃんをはさむ形でさっきの女の子が、僕の前に立っていた。ちょうど足首の細いところに目が行った。すぐに逸らしたので気付かれてないはずだ。
「やっぱしなあ、生徒会でもこういうすげえ奴がいるから、水鳥中学のバスケ部ってすごいんだよなあ。ほんと、負けました。俺、尊敬します!」
──うちの学校では絶対に言ってもらえない台詞だよな。 おとひっちゃんが腕立て伏せの要領で起き上がった。そのまま座り込み、いつのまにか円陣をこしらえている集団ひとりひとりに目を向けた。
「いや、俺もひさびさ、真剣勝負できて、すげえ楽しかった。ありがとう」
だいぶ息も落ち着いたらしい、座ったまま、おとひっちゃんは手を差し伸べた。勝負相手の彼も、唇をぎゅっとかみ締めたまま、それでも笑みは隠し持ったまま、手を握り合った。また、周りから拍手が沸いた。いつのまにか青大附中評議委員会の連中がみな集まっていたらしい。
あと、ぽんぽんと二回、タイミングのずれた手招き。
「時間です、立村先輩、早くしてください」
──盛り上がってるのになあ。
握手中のふたりが、その声に思いっきり顔をしかめていた。おとひっちゃんはすぐ無表情にもどったがもうひとりの彼はにくにくしげに一点を見つめていた。例の声が聞こえるところに。
「そうだな、では、場所を変えましょう。とりあえずみな二年D組へ集合」
別の声……男子だった……が後をひきとる格好で指示を出した。
円陣を構成していた連中がひとり、ふたりと固まって入り口に流れていく。最後に残った僕とおとひっちゃんと、勝負相手の健吾くんと彼女らしく女の子、そしてポニーテールの女子がひとり。
「一緒にきてくれないか。二年の女子たちと一緒に準備手伝ってほしいんだ」
「わかりました」
廊下から聞こえるのは、やはり指示を出していた男子の言葉。
ポニーテールの女子は僕たちをじっとにらみ据えた後、ひとつのところを見つめるような形で、入り口から出て行った。
──なんか、変だなあの人。
僕だけじゃない。残っていた他の連中も同じことを考えていたらしい。姿が見えなくなったとたん、ほおっと息をついたのがその健吾くんだった。
「うざってえなあ。気持ちいいことやってるとこだってのに」
意味ありげに、隣りの女の子へ視線を投げ、すぐに唇を一本に結んだ。
「健吾、じゃあ私、部室で待ってるね」
「ああ、すぐ連絡するからな」
女の子は僕とおとひっちゃんにまたこくっと礼をした。手を口元に当てて僕の方をじっと見つめ、また笑った。
「ほら、早く行っちまえ」
──照れ隠しってやつだな。これ。
浅黒い肌が少しほてっているみたいだ。これは僕がよく、総田を恋愛ネタでからかう時、よく見る肌の色だった。
見送った後、彼は膝をまたぽんぽんと叩いた。
「じゃあ、二年D組まで案内します」
おとひっちゃんも急いで学生服をまとい、ボタンをかけないままジャンバーを羽織った。おまぬけな格好だ。おとひっちゃんの名誉のために、この姿が総田一同に見られなくて本当によかった。つくづくそう思った。
生徒玄関ロビーに赤いじゅうたんが敷かれているとことか、廊下を歩いてもそれほど寒くないこととか、壁が白く明るいところとか、目が奪われっぱなしだった。僕もほとんど、他の学校に足を踏み入れたことがない。どこの学校もみな、木目の焦げ茶壁、風が吹き抜ける窓、冬場に廊下出る時は、防寒を完璧にしないとひどい目に合う。学校ってそういうもんだと思い込んでいたんだけど、やはり青大附中は別世界だ。
──やっぱし、私立は違うよな。
「さっきの人、評議委員じゃないの」
「違うっす」
またまた、照れた風に答える健吾くん。後ろで小さく、
「雅弘、黙れ」
とささやくのはおとひっちゃん。はしゃぎ過ぎと思われているようだ。おとひっちゃんは自分で仕切りたい性格だ。その辺は忘れないようにしておかなくては。
「あ、今日は最初だけ顧問の駒方先生がいますけど、すぐにいなくなってあとは、俺たちが好きにやっていいってことなんで、気楽にお願いします。あと、それとですね」
敬語を使ったり妙にフレンドリーになったり、変わった男子だ。 、
「もし、無理に飲みたくないとか食べたくないとかだったら、一切無視していいです。まじで俺もいらんもの飲めっていわれたら、相手にぶっかけるし」
──ははん、例の「お茶五杯わんこそば事件」を知ってるんだな。
隣りで学ランの金ボタンを必死にかけつつ、おとひっちゃんは無言だった。
答えられるわけ、ないだろう。
一応僕の提案で、おとひっちゃんと僕の分、缶コーヒーを二本用意してきた。ちゃんと領収書ももらって。緑色濃いお茶なんて、怖くて飲めないし。
階段を上がって一番奥の教室へ向かった。扉式の教室に健吾くんとおとひっちゃん、それからきんぎょのふんみたく僕が入って行った。すでに青大附中の評議委員が八人くらい、机をコの字型にならべて席についていた。各一席ごとに、全員の分、お菓子が紙皿にセットされていた。なんとなくお誕生会の延長って感じだった。椅子もみな、白っぽい。いろいろと名前の彫りこみとか、カンニング用の英語の落書きも残っていたけれども、雰囲気がさっぱりしているのだけは強く感じた。
まずは、教壇のパイプ椅子に腰掛けている、おじいさんっぽい先生に、おとひっちゃんが挨拶した。
「水鳥中学生徒会、副会長の関崎乙彦です。本日はお招きいただきありがとうございました。よろしくお願いします」
元陸上部。腹から出した声。僕の方をちらっと見て続けた。
「今日は生徒会外なんですが、渉外を担当してもらってる佐川雅弘も連れてきました。どうかこいつもよろしくお願いします」
ちゃんと僕だって挨拶するつもりだったけど、無理やり肩を小突くようにするのはどうかと思う。ま、そういうとこがおとひっちゃんだけど。
先生は口を結んだまま、にこやかに僕らを眺めていた。ふんふん頷きつつ、
「こちらこそ、よく来たね。青大附中は委員会活動の方が活発だから、今回評議委員会とのお付きあいをお願いすることになったけれども、堅苦しいことはいいからな。ゆっくりと、まずは友だちになって帰ってもらえれば大成功だよ。さ、どうぞ」
右の一番端っこにいる、色のやたらと白い人形みたいな男子生徒に頷いてみせた。
「委員会の交流会とはいうが、今日は日曜日だ。無理に堅い話をする必要はないよ。私は職員室で待っているから、ゆっくりとおしゃべりをしていきなさい」
立ち上がった男子生徒は、きちんと一礼して、先生を見送った。他の連中もつられて起立。もちろんおとひっちゃんも、僕も。
──ずいぶん、いいかげんな学校だよなあ。 気楽なことは確かなんで、僕としてはちょっぴりほっとしたんだけど。
扉が閉まり、足音が消えるまで青大附中の連中は立ちっぱなしだった。だいぶかすかに聞こえる程度のところで、僕ら水鳥中学ふたりに向き直った。
「今日は本当に、わざわざいらしてくださってありがとうございます」
おとひっちゃん、そして僕にまた一礼した。先生もいないのに、ずいぶん形式ばったことする奴だ。
僕たちふたりの席は、窓際だった。首すじが冷える以外はあったかかった。
青大附中の制服は少し茶の入った灰色のブレザーにネクタイだった。遠めで見ると、会社に向かうおじさんたちに似ている。おとひっちゃんがああいう格好をしていたら、本当に歳がわかんなくなっちゃうんじゃないだろうか。思いつつ、僕はお菓子をつまみ始めた。チョコレート、ポテトチップス、クッキー、家でお客さんに出すようなお菓子ばかりだった。
隣りのおとひっちゃんはというと、手をつけずにノートとカンペンを取り出して、じっと例の蝋人形男子生徒に合図を送っていた。どうやらそいつが、総田の言う「うすらぼけ評議委員長」らしい。胸に貼り付けている金の名札を読むと「立村」とかかれている。「たちむら」だろうか、それとも「りつむら」だろうか。僕の視線に気付いて、一瞬目を合わせた。でもすぐに逸らし、隣りの男子連中と二言三言話をしていた。紙コップにジュースを注いでくれたのは男子だった。お茶ではなかったみたいでほっとした。かばんの缶コーヒーも無事なようだ。 僕が座っている席は、蝋人形の彼の斜め左だった。真っ正面にいるのがおとひっちゃん。今日の話し合いはたぶん、おとひっちゃんと、蝋人形との語り合いになるんだろうな。
──真面目なんだろうけど、やっぱり、すこしぼーっとしている感じするなあ。
僕は少し考えつつも、注がれた炭酸のグレープジュースをなめた。
青大附中の評議委員……いわゆる学級委員……がなぜ、そんなに交流を求めるのか、僕にはよくわからなかった。おとひっちゃんに前もって聞かせてもらってはいたけれども、そんなんだったら生徒会同士で友だちになればいいじゃないか。けど、青大附中の評議委員会は顧問の先生も、その形でいいと思っているみたいだし、あまり深いことは考えない方がいいんだろう。
なによりもおとひっちゃんの顔ときたら、すっかり溶けている。
水鳥中学生徒会室ではいつ爆発してもおかしくない地雷状態の顔してるくせにだ。
──もしかして、おとひっちゃん、青大附中でものすごくリラックスしてる?
口を尖らせながら、おとひっちゃんはさらさらと何かを書いていた。ページが左側、ぼわっとふくらんでいた。
「あの、水鳥中学生徒会からの、まず挨拶をしていいですか」
おとひっちゃん、やっぱり仕切り屋の本能発揮だ。大抵水鳥中学だと、総田や川上さんが「けっ」っとばかりに冷たい相槌を打つのだろうが、やはり青大附中、その点大人だ。全員、きちんと机の上に手を組んで、身を乗り出してきた。
「すみません。この前の続きですね」
みな敬語を遣っている。蝋人形がかすかに笑みを浮かべている。細くて人形みたいだった。委員長らしくない。
「そうです。まず、この会は水鳥中学生徒会と青大附中評議委員会の交流準備会、だと思ってます。それでいいですか」
──当たり前だろ、そう言ってたくせにさ。
ばかみたいなこというおとひっちゃんだ。僕はチョコレートを口に放り込み、がりりとかんだ。
「そうです。まだ、しばらくは、『交流準備会』扱いでやりたいと思っています」
「それはいいんですが、うちの学校は」
おとひっちゃんは言葉を切り、紙コップのジュースを一気に飲んだ。おとひっちゃん分はどうも炭酸入っていなかったらしい。オレンジジュースだった。「やっぱり、公立なので、公立高校入試があります。僕の学校では、生徒会の改選が十月にありますが、その後は三年生が一切参加できない形になります。受験勉強があるからです」
──そうだよ。おとひっちゃんの言うとおりだ。
「たぶん、合同で何か集まりができるとしたら、一学期だけじゃないかと思います」
──そうだな。けど、誰がこれ提案したのかな。
たぶん、総田あたりからの案だろう。おとひっちゃんは総田に吹き込まれたことを、自分が考えたんだと思い込んで話すくせがある。
「また、六月の最初に中間試験、七月の頭に期末試験があるので、できれば五月か六月の半ばにやってもらいたいと思ってます」
──思います思いますって、おとひっちゃん、見てみろよ。他の連中よくわからない顔しているよ。こういう時はちゃんと相手の学校に説明させてからの方がいいってのにな。
つっこみはしなかった。だって、おとひっちゃんの顔、見事に真っ赤だ。さっき走った後だとは分かっているけれども、なんかかんかあるとすぐ頬を火照らせるのはみっともない。こういう場所ではむしろ、総田の方がずっと分かりやすく説明できるだろうになあ。 けど、意外にも、目の前の蝋人形委員長は笑みを絶やさなかった。遅れてきた女子ふたりに席に着くよう、指先で合図し、その後はずっとおとひっちゃんを見つめていた。総田も言っていたけれど、前回、前々会の集まりでは、妙にこいつとおとひっちゃんが盛り上がっていたらしい。なんか、わかるような気がした。
──おとひっちゃんのせられやすいからな。
おとひっちゃんのわかりづらい説明に見切りをつけたのかどうかわからない。でも蝋人形委員長はもう一度大きく頷いて、隣りの男子にまたささやいた。「あらよっと」とつぶやいた相手方は、コピーした紙かなにかを渡している。
「ありがとうございます。実は今日、青大附中評議委員会でもあまり話が通じていない人がたくさんいるので、あらためて説明します。関崎くん、繰り返しになりますけれど、よろしくお願いいたします」
──やっぱりわけわかんなかったんだ。なるほどな。蝋人形委員長さんもおとひっちゃんに手を焼いてるんだ。
僕は立村評議委員長の顔を見上げた。いわゆる男子たちがしている普通の髪型に前髪といった感じだった。ただ色が白すぎて、一瞬女子っぽく見える時がある。女子の好きな漫画だったらきっと人気ものになりそうなんだけど、男子からすると、すぐに骨折しそうでめんどくさそうな奴に見えた。僕もそう思われているとこ、あるのかもしれないけれど、幸い学習委員のみの担当だから目立たないですむ。青大附中評議委員長というのはいやおうなしに目立たなくてはならない地位だから、大変だろう。ちょっとだけ同情した。
「それでは、説明します。始まりは去年の十月に、学校祭を通じて水鳥中学生徒会のみなさんが青大附中生徒会を訪問してくださったことです。その時に、水鳥中学生徒会顧問の萩野先生と、評議委員会顧問の駒方先生がぜひ一度交流みたいなことを行いたいという話合いを持ったそうです。この段階ではまだ、評議委員会の出番はありません」
──そうなんだ。最初は生徒会きっかけだって言ってたもんな。
立村評議委員長はちらっと僕に目を向けた。すると僕のひとつ置き隣りに座っていた女子がチョコレートをふたつみっつ、僕の紙皿にのっけてくれた。包み紙が机に山積みとなっていたのをチェックしたんだろうか。神経質な奴らだ。
「ただ、青大附中の場合、生徒会よりもむしろ、委員会活動の方に力を入れているところがあります。通称『委員会最優先主義』と言われています。先日関崎くんにはお話しましたが、部活動が低迷している理由として、運動部に入りたい人がみな委員会活動に吸い取られてしまうという問題が挙げられています」
ちっと、舌打ちする音。発信源はどこだと覗くと、僕の斜め左の席でふんぞりかえっている健吾くんの姿。ジャージ姿。浮いている。
──仲、悪そうだなあ。 気付いたのか、ちらっと視線を健吾くんに向ける評議委員長。
「そこで、今年からは他の中学と交流を持つ時にお互い部活動のレベルアップも図れるような仕組みをつくりたい、と僕は考えています」
──核心だ。
おとひっちゃんと話していて今ひとつわからなかったことが、やっと解けた。
「生徒会同士での交流もいいとは思ったのですが、ただできれば、他の部活動や委員会活動、それと個人個人の生徒たちとのいい付き合いもできればベストではないか、というのが僕なりの考えです。もちろん僕の任期中にすべてできるとは思ってませんが、せめて踏み出すためのきっかけくらいはこしらえておきたいというのが本音です」
──なんていうか、無駄なこと考えてるよなあ。おとひっちゃんとおんなじだ。
僕はもらったばかりのチョコレートをさらに口へ放り込んだ。
「そこで、今回あえて評議委員会の集まりにお招きしたのは、その交流準備会をこれから九月までの間、少しずつ進めていきたいからです。今、関崎副会長もおっしゃられましたが、公立と私立との学校事情はみな異なりますし、決して無理にということは言えません。でも、何度か顔を合わせて互いの学校の違いや問題点について話し合う機会を持つことができれば、もっといい方法が見つかるはずだと信じています。ここでうまくいい方法が見つかったら、あらためて生徒会同士の改まった交流会を行ってもいいと思いますし、六月中旬くらいに一般生徒たちを含めた集会を行っても面白いでしょう。でも、急がないでゆっくりと、先を見据えて話し合うことが、今の両校には必要なことではないかと思っています。だいたいこんなところでどうでしょうか」
最後の一言に力をこめ、立村評議委員長は席についた。こういう時拍手するもんなんだろうけれど、他の連中は黙って聞いているだけで何も言わなかった。悪意がなさそうなのは丸見えで、立村評議委員長の両隣にいる男子たちが軽く背中を叩いたり小突いたりしているのは見える。おとひっちゃんも真剣にノートを取っていた。別に取る必要もないことなのに妙な奴だ。唯一、椅子にふんぞりかえっている健吾くんが、僕たちの方をみて、肩をすくめて見せているのが笑えた。
暖房効きすぎで暑い。
「もう一つ付け加えておくと」
今度は意味ありげに、立村評議委員長は黒板の上にくっついているスピーカーを指差した。
「今日話している内容なんですが、全部、職員室の駒方先生のところに筒抜けです。別に聞かれてまずいことしゃべるわけではないのですが、その点、心に留めておいてください」」
──だれか驚けよ!
知らないのは僕だけらしい。おとひっちゃんもちらっと視線を向けただけだ。当然青大附中の評議委員連中も落ち着いたものだった。僕ははっとして、立村評議委員長の顔をまじまじと見詰めた。
──俺だけのために、今の長ったらしい演説聞かせてくれたってわけか。
蝋人形には脳みそが入っていたってことだ。人を見かけで判断してはいけない。僕は深く反省し、炭酸の抜けたジュースをちびちびなめた。
ちゃんと先生に盗み聞きされているとわかっていても、青大附中の評議委員連中の発言は遠慮がなかった。敬語を遣ったり僕たちに「関崎くん」「佐川くん」と呼んだりするところは、いろいろ考えるところあるのかなと思う。話し合いそのものは面白かった。おとひっちゃんも打ち解けて言いたい放題しゃべっていた。水鳥中学生徒会室にいる時よりも楽しそうだった。向かい側の立村評議委員長に何度も発言を求めたり、いきなり話を脱線させて運動部部活動関連の話に燃えたりしている。
「うちの学校は、バスケ部だけが誉められてますけど、他の運動部もそれなりにがんばってます。僕も、前は陸上やってましたけれども……」
ひとり、浮き上がっている奴。健吾くんがこのあたりの話題だけは目を輝かせておとひっちゃんを見つめている。机から身を乗り出さんばかりというのが笑えてならない。
「だから、運動部の練習試合などを通しての交流会を行うってのもいいんではないでしょうか」
「賛成賛成!」
立村評議委員長は静かに発言源の健吾くんに視線を送った。
「そうっすね。やっぱり、水鳥中学バスケ部の人たちと一度、まともに話をしてみたいっていうか、練習の方法とかそういうことについての話を聞かせてほしいってか。うちの先輩連中だとほとんど、話が盛り上がらないし、レベルも上がらない。やはり外部の風がほしいんですよね」
わざわざ立ち上がり、おとひっちゃんにだけ話し掛けている。心なしか、他の男子評議委員連中は冷めた顔で頬杖ついていたりしている。仲、よくないんだろうな。きっと。
「そうだな、新井林。まずは三月あたりに部活動同士の交流から開始した方がいいかもしれない。そのあたり、運動部の顧問の先生に頼まないと難しいですか、関崎くん」
──新井林か、あいつの苗字って。
健吾くんもとい、新井林くんは鼻をごしごしと指でこすり、席についた。
おとひっちゃんの方を見る。
シャープを何度もぐるぐると回している。
「難しくないと、思います」
──どこがだよ!
おとひっちゃんは言葉を切って、立ち上がった。また演説だ。
「公立受験関係が絡まなければ部活動関係での交流は問題ないと思います。水鳥中学の場合、一般生徒はあまり活動に関心がないので、もっと情熱のある人たちを中心に動いた方が、最初はいいと思います」
──要するに、部員同士で友だちになってもらえば十分って奴だな。
──けど、どうやって顧問のみなさまを説得するんだよ。また総田に尻拭い頼むのか?
いつも総田に
「また関崎のおぼっちゃんに押し付けられたぜ。関崎よりも俺の方が先生転がしできるからか? しかもあいつ、自分の手柄だと勘違いしてるんだぜ。ま、そういうとこがあいつだし、無理に俺も文句言う気ねえけどな」
と愚痴られている。
「最初はできれば、バスケ部でお願いできますか」
立村評議委員長はもう一度、新井林くんに細い目線を向け、おとひっちゃんに答えた。
「今、うちの新井林も発言していましたが、青大附中で今少しずつ、部活動のレベルアップが叫ばれてます。新井林は次期青大附中バスケ部を率いることが義務付けられてます。評議委員でかつバスケ部ということだと、ちょうど一石二鳥ということで、かなり活動に幅が出るのではないかと思います。いきなり繋がりのない部活動と交流活動するのはなんだと思うんですが、もしよければ、ぜひそちらからお願いしたのですが、どうでしょうか」
ふかぶかと一礼した。
「新井林」と立村評議委員長が口にするたび、他の連中が顔をしかめるのが目立つ。ここにいるのがほとんど、二年評議委員だと考えると、相当新井林くんは、青大附中評議委員会で立場のきつい思いをしているのだろう。相性が合わなさそうなのはわかる。きっと新井林くんも蝋人形立村委員長を馬鹿にしているに違いないし、そういう気持ちも僕にはわかる。当然だ。
──まあおとひっちゃんのことだから、大喜びで受けるんだろうな。
「わかりました。バスケ部交流が成功したら、今度は陸上部でお願いします」
おとひっちゃんもまた、頭を机につくぐらいい下げた。
総田のしかめっつらが思い浮かび、僕はふっとため息をついた。
なんとなく気になっていたのだが、ジュースやお菓子を注ぎ足してくれる連中……男子も女子もいるが……の中に、体育館で目にしたポニーテールの女子がいなかったのはなぜだろう。ねめっちいまなざしと納豆みたいな匂いのしそうな感触。
僕はあまり女子の悪口言うの好きじゃない。けど、さっきの持久走後、体育館の中で初めて、「いるだけでむかつく」という感情を経験した。
──お茶のわんこそば事件って、たぶん。
間違っていたら恥ずかしいので口には出さないでいた。
さっき立村評議委員長に「女子たちと準備を手伝ってくれないか」と指示されていたところみると、学校の中にはいるんだろう。
──待ち伏せしてるなんて言わないだろうな。
いないんだったらそれに越したことはない。おとひっちゃんも安心してジュースをがぶがぶ飲んでいるようだし、隣りの青大附中男子にもいろいろと語っている様子だし。僕だけがひたすらチョコレートを食べつづけているだけだ。
ふと、斜めに位置する立村評議委員長と目が合った。今日、何度目だろうか。
妙に僕の方を観察している。でもすぐに逸らす。
──何か言いたいんだったら言えばいいのにな。
生徒会と関係ない僕をうさんくさく思っているんだろうか。
それとも、やたらとチョコレートばっかりぱくついている僕がおかしく見えるんだろうか。
全くしゃべらないわけにもいかず、食い気をそこそこに、隣りの席の男子と互いの学校について話したりしていた。あまり生徒会関係のことに突っ込まれないでよかった。 なにせ僕は万年学習委員なんだから。
「今日は女子の参加者っていないのかなあ」
いきなり無言になるのが気になる。
「これからはどっさり参加すると思うけど、でもなあ。今日は特別な事情があってな」
意味ありげにむっつり顔でささやく隣りの男子。二年のバッチを胸につけていた。いろいろ、青大附中にも事情があるんだろう。
全部先生に筒抜けになっているにも関わらず、みんなそんなこと忘れてしゃべりまくっているうちに、一時間くらい経った。立村評議委員長が立ち上がり、心持スピーカーに向かう格好で締めのお言葉を述べた。
「では、第二回、青大附中評議委員会と水鳥中学生徒会の合同交流準備会を終了させていただきます。次回はお互いの期末試験が終わった頃を予定してます。できるだけ早く行いたいですね。関崎くん」
──俺の方ばっかり見てたくせに、なぜおとひっちゃんだけなんだろ。
でもとりあえずはこれにて終りだ。
「こちらこそ、どうもお招きいただきありがとうございました」
空の紙コップとペットボトル、食べ散らかしたお菓子包み、すべてを男子連中がみな、燃えるごみ、燃えないごみにより分けて片付けていた。女子のひとりがこっそり身をかがめて出て行ったのを僕は気になって目で追った。窓辺に近づいて見下ろすと、すうっと伸びた雲がくるくるうねっているのが見えた。晴れている。空はすっきりしている。今日来た時には、雪がゆるみかけていた。道が悪くなってないといいんだけどな。
立村評議委員長が例の蝋人形みたいな顔をほころばせるようにして、おとひっちゃんに近づいた。
「本当に今日はありがとう。また、来てくれるよな」
──いきなりこいつ、ため口たたいてるよ。
おとひっちゃんはそういうところ、礼儀を重んじる性格のはずなのだが、僕の気付かないところで立村とお友だち感覚を通じ合わせているらしい。
「ああ、もちろんだ。三月、絶対ここに来る」
「それまでには、できるだけ青大附中の方も公立にあわせられるようタイムスケジュール組んでおくから」
「どうも、助かる。じゃあまた」
ぶっきらぼうながらも、おとひっちゃんは機嫌よく答えた。僕の見る限り、生徒会関連でここまで顔をほころばせているところは見たことがなかった。情熱の炎だけが燃え盛りわめきちらしているところばかり覗いていたせいか、なんとなくおとひっちゃんが違う人みたく思えた。
「それでは、またあらためて」
他の二年男子たちに片手をあげて合図すると、立村評議委員長はすばやく扉を開けたまま教室を出て行った。
「ごみの片付け終わってないのに先に帰っちゃうんだ」
「ばあか、何考えてるんだ」
こつんと小突かれた。
「最初に言ってただろ。附中の委員長、顧問の先生に終わってから報告しに行くってな」
──ああそっか。スピーカーで丸聞こえなんだもんな。
スピーカーの電源切ってもらわないとしゃれにならない。
ひとりだけ、片付けに入らず僕たちをじっと見つめている視線に気付いた。しゃっきりした髪型の健吾くんだった。
「あの、すいません、いいっすか」
どまじめに、僕たちに近づいてきて、どすの利いた声でささやいた。
たぶん、ビニール袋を結んだりしている二年生たちには気付かれないだろう。
「これから、少しだけ時間もらえないっすか」
時間はある。バスで帰るつもりだけども、たぶん本数はまだあるだろう。チェック済み。
あとはおとひっちゃんの気持ち次第だが今なら何でもOKだろう。
「別にかまわないけれど、何か」
「二年連中にはばれないように、少しお話したいことがあるんだけど」
敬語と友だち言葉、混ぜ合わせた感じの、微妙な言い方だ。
「バスケ部の交流会のことか」
さすが元陸上部。運動部に関する話題にはアンテナがはたらくおとひっちゃんだ。まだ頬が緩んでいる。ひきしめてない。
「それもありますが、しかし」
健吾くんは時計をちらっと眺めた。教壇側で、視線の塊がぶつかってくる気配を感じた。他の男子三人、じとっと健吾くんをにらみつけている。
「新井林、何しゃべってるんだ」
「あ、すんません、じゃあお先に」
ここだけ大声で。おとひっちゃんにはかすかな声で。
「じゃあ、ちょっと玄関ロビーのとこで待っててもらえますか。そこから案内します。今日は俺が水鳥中学の人たちの案内役です」
──じゃあ別に隠さなくたっていいのにな。
僕は、おとひっちゃんが頷くのを待って、大きくこっくりした。健吾くんがわざとらしくでかい声で、
「じゃあ、ごみ捨て場にごみ捨ててきます。それでいいっすか」
もごもご、曖昧な返事をする二年生男子。やはりどこの学校も、人間関係いろいろあるんだろう。隣りでおとひっちゃんは、机をきちんとならべ直しながらつぶやいた。 「やっぱり、やる気のない奴は連れてこれないってことだ。わかったか、雅弘」
──単に総田に邪魔されたくないんだろ。せっかく手に入れた天国みたいなとこ。
挨拶して廊下に出た。健吾くんに対してよりも、ずっと愛想よく、笑顔一杯の返事が返って来た。ってことは、また来てもかまわないってことかな。
言われた通り僕とおとひっちゃんは、生徒玄関のロビーで健吾くんを待っていた。でっかい柱の周りを囲むような椅子が備え付けられていた。二年たちが片付けをしている間に、健吾くんが帰り送ってくれる手はずになっているらしい。
「雅弘、今日の会、どう思った」
「おもしろかったよ、おとひっちゃんもそうだろ」
「まあな」
おとひっちゃんはそれ以上何も言わなかった。最近無口になりつつあるおとひっちゃんだけど、「青大附中交流準備会」に参加するに当たってはかなり熱心だったと聞く。もちろん総田からの情報もあるし、僕が観察したものもある。とにかく燃えている。
「やっぱり、学校全部暖房入ってるっていいよね。風邪ぶり返すかと思ったけど、大丈夫そうだ」
「雅弘、もう大丈夫なのか」
話がそれた。おとひっちゃんはかばんから、すっかり冷えた缶コーヒーを僕にくれた。
「とりあえず飲まずにすんだからな」
「よかったよ、ほんとにね」
深い意味はある。あえて言わないのがおとひっちゃんだ。
なにはともあれ、「お茶のわんこそば事件」が繰り返されないでよかった。
さっそく一気に飲もうとした。口をつけたとたんだった。
「関崎さん、待ってください!」
──関崎さん?
おとひっちゃんのことをそんな呼び方する奴は、僕の知っている限り全くいない。
女子の声だった。妙に棒読み調、端々に険しいものが響く。
隣りのおとひっちゃんと顔を合わせる。明らかにおとひっちゃん、顔色が鈍く変わっている。心持、顔が四角くなった風に見えた。
「呼んでるの、誰?」
「隠れられないか」
──隠れられるわけないよ、何言ってるんだよ!
呼ばれた以上は振り向かないと失礼だ。僕が先に顔を向けた。向かって右側に伸びている階段を降りたところで、紺色のワンピース姿の女子が何かを抱きかかえて立っていた。
「おとひちゃん、女子がいる」
「わかってる」
小さい声で答えるおとひっちゃん。まだ振り向こうとしない。しかたないので、僕が先に声をかけた。
「関崎はここだけど、何か用ですか」
「私は関崎さんに用があるのです」
──すごい失敬な女子だ。
一歩、また一歩と近づいてくる。僕は片手でおとひっちゃんの膝を叩いた。なんかわかんないけれど、僕の片手に握り締められている缶コーヒーが少しこぼれた。
──あの子だ。
納豆みたいなまなざしを向け、にこりともしないで、じっとにらみつけていた女子だった。一瞬誰かわからなかったのは、髪の毛を長く解いていたからだった。腰まで伸びる髪の毛。どろんとした瞳の色が怖い。幽霊が取り付きそうなおかっぱ髪の人形だ。夜中に髪の毛が伸びそうな市松人形だ。紺色の上下繋がったスカート姿で、とうとうおとひっちゃんの前に立ちはだかった。距離として五十センチくらいの接近。かわいそうにおとひっちゃん、腰を抜かしたみたいで立てないでいる。
「また、お会いできたのですね」
手元の物体が、妙に毒々しい薔薇みたいな花の鉢植えだったと気付いたのはこの時だった。
おとひっちゃんはその子の顔を見ないで、花ばかり見つめている。一言、
「ああ、この前はどうも」
「私は今日、男子たちに今までずっと閉じ込められてました。せっかくお会いできるのに、出るなと言われてました。でもやっと、関崎さんにお会いすることができました」
「ああ、こちらこそ」
完全におとひっちゃん、思考能力失っている。
鉢植えには白いビニールのカバーが半分かかっている。手提げみたいになっている。しかし顔を出しているのは、見たことのない平べったい花だった。一見、花なのだけれども、真っ二つに切ったキャベツに色づけしただけのようにも見える。ぐしゃぐしゃと薄い紙を折って、ティッシュの花を作って卒業式の準備をした、そんな感じの花だった。一輪だ。
「私はずっと、男子は救いようのない馬鹿か不細工しか存在しないと思っていました」
ゆっくりと手提げ部分をおとひっちゃんに差し出す。
「立村先輩だけはまともだと思っていましたが、結局新井林のような馬鹿男子だったことを知りました。そういうものです。男子はみな狂ってます」
──いや、狂っているのは……。
うっかり変なことを口走ったら何をされるかわからない。たぶん彼女は僕の方なんて一切眼中にないだろう。かすかに夢を見ているような、酔っ払ったような……酔っ払ったことなんてないけど、うちの父さんが酒飲んだ時の状態に似てるので……目をしている。学校で酒飲んだなんてことないだろうな。
おとひっちゃんも何かを言いたそうだったが、言わない。単におびえてるだけに決まってる。 「でも、関崎さんだけは、まともだって信じられます。人間として、男として、確かな私のローエングリン様として」
──ローエングリンってなに?
身体をひくひくさせているおとひっちゃん。片手で僕の膝をなんどかつついている。でも僕だって怖い。女子にここまで接近されるのも経験ないけれど、なぜかこの子がいると空気がゼリー状になりそうで苦しい。
「どうか、また、いらしてくださいませ。私、関崎さんのことをずっと、人間らしい人間のいない青大附中でお待ちしてます。それまでどうか、この花を私だと思って、お側に置いてくださいませ」
──完全にこの子、変だよ。おとひっちゃん。
相槌を求めたいけど、おとひっちゃんはただ、口をあけたままじっと花を一点凝視しているだけだった。きっとどうしていいのかわかんないんだ。僕だってそうだろう。これがいわゆる「恋の告白」だったら、僕だって気を利かせて椅子から立っただろう。せめて一言、
「すみません、関崎さんとふたりにしてもらえますか」
くらい言ってくれれば。でもこの女子はそういう手続きを一切、取っ払っている。単刀直入に、演劇の台本みたいなしゃべり方をしている。今時こんな白々しい台詞のラブストーリー、ないぞ。
僕はあらためて思い当たった。
なんで僕をおとひっちゃんが誘ったのか。
なんで、僕と一緒に来たかったのか。
──三度もこんな、おぞましい迫られ方、したくないよ。わかるよおとひっちゃん。
ドラマに取り込まれてしまったおとひっちゃん。
僕だけが現実の視聴者だった。
──早く逃げようよ、おとひっちゃん。
チャンネルを替えたい。僕は一気に缶コーヒーを飲みほした。
ずん、と花の手提げをひったくった。結構重たかった。
「おとひっちゃん、良かったよね。この花、さっきたんにあげなよ」
市松人形っぽい女子を背に、僕はあらためておとひっちゃんに手渡した。
「さっきたんって花、大好きだって話してたんだ。きっとプレゼントされたらすっごく喜ぶよ。ほら、せっかくだからもらっちゃおうよ。な」
肩越しにちらっと振り向き、僕お得意のガキっぽい笑顔を繰り出した。
「ごめん。おとひっちゃん、こういうの慣れてないからびっくりしてたけど、花が大好きな女子の友だちはいるから、きっと喜んでると思うよ。な、おとひっちゃん」
僕の顔を見つめつつ、数回、口を開け閉めするおとひっちゃん。かなり情けない。
「で、この花の名前、なんていうの?」
もう一度、今度もあどけない感じで尋ねた。すでに「さっきたん」という言葉を出した段階で、市松人形の彼女は微動だ似せず、ただ手を下ろしていた。僕の持っている手提げ花を覗き込み、ぽつりと答えた。
「そんなことも知らないのですか」
「うん、俺、あまり花の種類知らないし。おとひっちゃんもそうだろ」
頷くだけ。やっぱりおとひっちゃん場慣れしてない。
よくよく見ると、唇に赤いものがちらちらした。おとひっちゃんを撃墜するためにすべて勝負してきたんだろう。
けど、この女子はわかってない。おとひっちゃんには意味がない。
「葉牡丹です」
一言だけ、棒読みでつぶやいた。
「教えてくれてありがと。さっきたんに言おうよ、この花、葉牡丹だって」
僕はもういちど、「さっきたん」という言葉に力を込めて、おとひっちゃんに告げた。
「水鳥中学のみなさん、こっちです、急いできてください!」
──救いの声だ!
僕より先に、おとひっちゃんが飛び上がった。ジャンバーとかばんをひっつかみ、なにやら「あ、あ」と発音した後、
「ありがとう」
と無理やり絞り出した。
──そんなこと言うことないよ。押し付けられたんだから。
僕はからの缶コーヒーをポケットにつっこみ、一声高く返事した。
「わかりました、今すぐ行きます!」
一刻も早く、あのねめっちい視線から逃げ出したかった。もらった以上は持っていくしかない。返すのも変だ。おとひっちゃんの手をぎゅっと引き、僕は健吾くんの声がする職員玄関まで走った。重たい葉牡丹の鉢植えで腕がひっぱられた。いやな重力だ。
「やっぱり、間に合わなかったっすか。すんません」
健吾くんが玄関で、もうひとりの女子と一緒に待っていた。
僕と一緒に、体育館でおとひっちゃんと健吾くんとの持久走を眺めていた、あの子だった。