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──さっきたん、俺とカモフラージュで付き合ってくれないかなあ?
しばらくさっきたんと顔を合わせることを避けていた。そりゃそうだろう。あんな救いのない振り方をしてしまったんだから、できれば無制限に会わないですめばいいって思うのも当然だろう。僕だって言い過ぎたって思っている。
でも、さっきたんってよくわからない子だ。
何度もうちの店に来て、母さんに、 「チューリップのつぼみがそろそろ咲きそうなんです。うちの母がおすそ分けしましょうか、って言ってます」 とかなんとか声をかけているんだそうだ。そのうち数回は僕も二階の部屋にいて呼び出されたけれども、風邪引いて寝込んでいるとか言ってごまかしてしまった。それでもめげずに通ってくるところ見ると、そろそろ一度は顔を合わせないとまずいかもしれない。そんな覚悟はしていた。
佐賀さんの手紙をもらってから、僕はもう一度さっきたんが来てくれるのを今か今かと待ち構えていた。だって、これからの計画は、僕が直接さっきたんと話をして了解を得ないと、意味がないんだから。おとひっちゃんも誰も間に挟まないで、きちんと説得しなくちゃいけないんだ。
OKしてくれるだろうか? してくれるわけないだろ? いや、さっきたんの方から最初に提案してくれたんじゃないか、だったら。
何度も天秤にかけて見比べてみたけれど、やっぱりさっきたんがOKしてくれる方に傾いているように思えてならなかった。僕の直感が正しければ。
朝、部屋から降りてみると、店はけっこうばたついていた。僕くらいかそのちょっと上くらいの中学生高校生がうじゃうじゃしている。あと二日でうちの学校を含め公立中学の新学期もあいまって、学習参考書がやたらと売れているときいた。万引きする奴もかなりいるらしい。入荷した本からビニールを引き剥がしながら目配りする母さんは、普段以上にぴりぴりしていた。手伝いたくないのだけど、人手が足りない以上無視するわけにもいかない。すっかり寝癖がついた頭のまま、レジに入った。
「ああら、ちょうどよかった。雅弘、五月ちゃんよ」
母さんが僕の顔を見るなり、にこやかに手招きした。
いつもだったら愛想悪く逃げるけれども、今日は違う。一度目で合図しておいた。目が合うとさっきたんは僕に向かってにっこりと笑った。相変わらずはつかねずみのようなきょとんとした表情だけど、怒っていないってことだけはちゃんと伝わってきた。がくん、と心の中が重たくなった。レジでひとり前のお客さんに、文庫のカバーをかけている振りをして目をそらしていた。
「ほら、いいわよ、雅弘、行きなさいよ。五月ちゃんごめんね。今、ぼんくら息子を花の運び人に出しますからね、どんどん使ってやってね」
母さんとは花のことで話が盛り上がってしまうらしく、結構お気に入りにしているみたいだ。女子同士だからか。僕の方を見てさっきたんは、いつものように優しい笑顔を見せた。目が合って僕もちゃんと「おはよう」と呟いた。
「佐川くん、たくさんチューリップ、咲いたのよ。大きな花ばかりなの」
なんで女子ってみんな、花をくれたがるんだろう。
「チューリップって、そんなにあるんだ」
「うん、佐川くんが抱えるくらいよ」
どうせ俺は身体小さいよ。
そんなひがみっぽいこと、思いたくないのに。
むっとしたまま、僕はさっきたんと一緒に店から出た。別にさっきたんに対してむかついたわけじゃない。あとであやまっとこう。
母さんがさっきたんに手作りのお菓子を持たせていた。
「ありがとうございます。うちのみんなでいただきます」
「五月ちゃんはほんと、礼儀正しくていい子ねえ。雅弘、あんたも見習いなさい!」
きちんとお礼を言った後、はつかねずみのような瞳で見つめるとこが、女の人には好感度大らしい。
外は制服姿の女の人たちがたくさんうろついていた。十一時くらいだと、ちょっと早い昼ごはんを食べる時間帯なのかもしれない。
「おなか空いたね」
「うん、佐川くんのお母さんからもらったお菓子、あとでいただくわ」
どうせあぶらっこいドーナツなんだろう。母さんの作るおやつはまずい。好きじゃない。けどさっきたんの口には合うようだった。やっぱりさっきたん、見た目より好みがきわものだなって思った。
「あと一年なのね。受験まで」
さっきたんが空の白い月を眺めながら小さな声で呟いた。少しはにかんでいた。
「さっきたんはどこ受けるの」
「青潟商業なんだけど、私頭よくないから先生にランク落としなさいって言われているの」
「僕も同じだよ。青潟工業。怒られっぱなしだよなあ」
さっきたんの志望校が青潟商業高校だと聞かされて妙に納得していたりした。同じ職業科志望同士、気持ちが少しまぎれた。互いに仕入れた志望校情報と内申点計算について、なごみながら話していた。
さっきたん家の塀の裾には、びっしりと背の高いたんぽぽが生え揃っていた。学校近くのたんぽぽにくらべてこの生きのよさはなんだ、と驚くくらいだった。茎をちぎって、首チョンパしたら、きっと遠くに飛びそうな厚みのある、しっかりした黄色い花だった。
黄色の延長線上に、鉢植えのやはり茎が長い花。十字の親指大の大きさ。葉牡丹の花が満開だった。
僕は立ち止まって見下ろした。あの時見た、毒々しい紫っぽい葉とキャベツに似た縮れた葉っぱは、すでに下のところでまあるく広がっていた。もう「葉牡丹」って花の雰囲気じゃない。ただの葉っぱだった。なあんだって感じだった。
さっきたんは柄の変わった縦楕円形のはさみを持ってきた。花を切る時はいつもそれを使うんだという。花壇いっぱいに咲き誇ったチューリップの花、その周りを囲むようにやさしく花を広げているのはパンジー、その他紫色、白、もちろん桜の細い枝、僕の知らない種類の花が溢れていて、一面花のじゅうたんそのものだった。そのまんま座り込んで、お花見気分でござ広げてお弁当を食べたくなった。
びっくりするくらい大胆に、ざくざくチューリップの茎を切っていくさっきたん。
「いいよ、そんなに包まなくたって」
かかえきれないくらいの花束って、初めて見た。気障っぽく「君の瞳に乾杯!」とかいって、渡したら笑えるだろうなあ。ただでもらってくなんてなんだか申しわけない。
「球根を大きくするためには、早めに花を切っておいたほうがいいのよ。そうするとね、花に行くはずの栄養が球根に集まって、来年もっと大きな花が咲くんだって、お父さんが言ってたの」
しかし、やっぱり、なんか悪い。
鉄バケツに水を張り、チューリップのの茎をつけて、中でまたちょきちょきやっていた。緑色のちょん切られた茎が浮いていた。
「こうするとね、お花が長持ちするのよ」
丁寧に新聞紙でくるみ、僕にそのまま渡した。
「さっきたん、お花の先生になれるよ」
意味のないことを口走ってしまったような気がする。いつもと変わんないさっきたんの優しい瞳と、はつかねずみに似た表情。今日はお下げにしている。やっぱり普段着にもお下げ髪が一番似合う。
口に出したらすべてがぶっ壊れる。わかっていた。僕がこれから何をしようかと思っているかを、さっきたんは知らない。知ってたら二十本も赤と黄色のきれいなチュ―リップを包んでくれるわけがない。さっきたんの素直な想いを僕はためらうことなく切り捨てた。さっきたんと、おとひっちゃんに対して、僕は最低だ。
そのくせに僕は真剣に考えているわけだ。佐賀さんを守るためにはどんな汚いやり方もするって。おとひっちゃんにはばれないようにこっそり佐賀さんと連絡を取り合い、健吾くんたちには「俺には彼女がいるから付き合う気ないよ」ってアピールして、立村の攻撃をなんとしても食い止めようって思っている。佐賀さんを傷つける奴を、僕なりの手で追い払ってやりたい、それだけのために。
さっきたんは構わないって言ってくれたけど、あの日からだいぶたったんだ。心変わりしている可能性だってあるのに、どうしても僕は言わずにいられないのだろうか。
僕のために、こんなに尽くしてくれているさっきたんを、どうして。
どうしてさっきたんを好きになってあげられなかったんだろう。
しばらく僕は受け取ったチューリップの花束を覗き込んでいた。チューリップの香りはそれほどきつくない。中の花粉が少し花びらの裏にくっついているのが見えた。もう一度抱え直し、さっきたんの髪をもう一度見つめた。
やっぱりお下げでなくっちゃ、嘘だ。 ふたっつに分けても似合わない。
──さっきたん、この前提案してくれたことなんだけど、今からでも、だめかな。
まず、花束に話し掛けた。むせてこほんと咳をした。
──ちゃんと、俺なりに、大切にするから。
──ほんと、さっきたんのしてほしいこと、俺なりにするから。
──だから、さっきたん、僕とカモフラージュで付き合ってくれないかな。
「さっきたん、あのさ」
そのまま発しようとした。
まんまるな瞳で、さっきたんは僕を見つめた。
びっくりするとこんな顔をする。花壇の中でまた一輪、花を摘もうとしていたらしい。立ち上がろうとして中腰になった。ちゃんとするっと出てくるはずだった。なのに、さっきたんの顔を見つめたとたん、喉がこわばってしまった。胸が詰まって、それしか出てこなかった。なんかちょっといがいがした声だって、僕にもわかった。首を小さく振ってごまかそうとしたけどやっぱりだめだった。
言えるわけ、ないよ、絶対。
さっきたんの顔見てたら、絶対にできるわけない。絶対僕を受け入れてくれるって顔してるから。どんなにやなことだって、きっと「いいわ」って言ってくれるってわかってるから。僕が佐賀さんのことを考えているように、さっきたんも僕のことを同じように思ってくれてるってこと、今いやってほどわかっているから。
──佐賀さんにそうされたくないのは俺だってわかってるのにさ!
「俺は、さっきたんが思ってるような、いい奴なんかじゃないよ」
自爆するしかなかった。もう逃げ道、ふさぐしかない。
さっきたんがふたつに髪の毛分けたところを、僕は一瞬想像し、すぐにさっと頭の中から消した。
「俺、最低な奴だってこの前、わかっただろ。だからもう俺のことなんか、考えるなよ」
はさみを両手で抱え、小首をかしげた。
「佐川くん、私そんなこと、思わせるようなことしてたらごめんなさい、私頭悪いから」
「悪くないよ、ちっとも悪くないんだ。さっきたんはいい人なんだよ」
かぶりを振った。なんだかガキっぽいことしそうだった。片手でチューリップの花束をぶら下げた。折れそうな程、茎を握った。
「俺、違うんだよ、今なんでさっきたんとくっついて来たか、知りたいだろ? 母さんに頼まれて花をもらいにきただけだと思ってるんだろ。違うんだよ、俺、さっきたんにまた変なこと言おうとしてたんだよ、最低なんだよ」
桜の木に雀が留まっている。鶯だったら春っぽく聞こえるのに。さっきたんは僕の剣幕にびびったのか、すっかり固まっていた。
「さっきたん、終業式のあと、青大附中の連中と会った時のこと、覚えてる?」
僕はゆっくりと尋ねた。首を振ってさっきたんが何かを言おうとした。
「あの時の子から手紙を昨日、もらったんだ。俺と会いたいんだって」
ぴくんと咽元が動いた。また僕はさっきたんの気持ちをはさみでちょん切っている。
「けど、条件があるんだってさ。俺が、さっきたんと付き合っていることなんだってさ」
「どうして?」
きょとんとして、さっきたんが手元のはさみをぶら下げた。濃いブルーのジャンバースカートが風で揺れた。
「俺が、さっきたんと付き合っていれば、あの子と付き合っている男子がやきもち妬かないから、安心して会えるんだ。この前会った、バスケ部のことばかり話していた、一年だよ。俺、あいつと話してて楽しかったし友だちでいたかったからあきらめようとしてたんだ。笑っていいよ、さっきたん。さっきたんが花摘んでくれてた時、俺はずっとあの子のことばっかり考えてたんだよ」
ゆっくり、かみ締めるように言い聞かせた。納得するしかないみたいに。
「今日、さっきたんにもう一度、俺の方からつきあいかけて、あの子に会うための条件を整えようって思ったんだ。最低だよな。俺、本当に、よくしてもらう価値のない人間だってこと、よくわかったよ。だから、もう俺のことなんて、無視したっていいんだ。ごめん。さっきたん」
風が強く吹きはじめた。さっきたんが砂埃を目に入れたらしく痒そうに目をこすっていた。泣いているように見えた。
「ちゃんと好きになってあげられなくて、ごめん」
不意に僕の眼にも涙が溜まってきた。砂埃が入ったせいだった。目の玉がごろごろして、また目をこすった。こう言う時、上まぶたを引き上げて、無理やり涙を流すとごみが取れるはずだ。空を仰いで、まぶしい白い太陽を見ながら、まぶたをひっぱった。
「佐川くん、あのね」
呼び止めるさっきたんを振り切り、僕は家の門から出ようとした。
「聞いてほしいの」
さっきたんも両目を激しくこすっていた。同じくらい、涙目だった。
「関崎くんが交流会の帰りに話していたの聞いたの。内緒にしなくちゃいけないことだってわかっているけど、ちゃんと話すわ」
おとひっちゃん、まただ。あいつ、さっきたんに声かけるだけでも顔が真っ赤になる奴だったのにやたらと行動的だ。信じられなくって、僕は思わずぽかんと口をあけてしまった。
さっきたんはまぶたを片目だけ押えて、こくんと頷いた。
「関崎くんは、佐川くんのことを心配していたの。青大附中の人たちと会わせると、またごたごたするから、これからは交流関係に出さないって決めたって言ったの。青大附中の委員長さんも、それがいいって言ってたわ」
なんでさっきたんに先に打ち明けるんだ? 絶対、おとひっちゃんらしくない。
さっきたんは少し咳き込んだ。
「だから、クラスが別になっても、佐川くんのことを力づけてやってくれって頼まれたの」
そんな器用な真似、誰が教えたんだよ。信じられない。さっきたんの言葉もそうだけど、何よりもおとひっちゃんの行動が、おかしすぎる。行動が!
「それで、関崎くん、言ってたの。私なら、佐川くんのことを一番わかってやってくれるから、これからも友だちでいてやってほしいんだって。あの、この前の交流準備会の時も話してたのよ」
親みたいなうざったいこと言うなって言いたい。さっきたんに八つ当たりできない代わり、僕は思いっきりチューリップを地面に叩きつけたくなった。さすがに思いとどまった。代わりに石を蹴飛ばした。側の葉牡丹の鉢にぶつかった。
「よけいなことするなよな! おとひっちゃんも」
「私もそう思うわ、だって」
いつも通りの大人しい口調からこぼれた。息継ぎして、もういちど「だって」を繰り返した。
「佐川くんは、青大附中の人に、会いたいのでしょう」
はっとして、さっきたんの顔をまじまじと見つめた。
「私より、ずっと、青大附中の人に。だから」
お下げ髪を両肩に垂らし、両手を胸に当てた。
「私、もう一度言うわ」
春風だろうか、また埃っぽい空気を吸いすぎ僕は咳こんだ。聞いたら、おなかのところがどうにかなっちゃいそうだった。足を踏ん張り花束を持ったまま僕はさっきたんの口もとをじっと見つめた。
「関崎くんと、青大附中の人たちの前では、私とお付きあいしたことにすればいいの。そうすれば佐川くんあの人に堂々と逢えるし、無理に交流会に出なくたっていいの」
またぐぐっとむせびそうになる。予定通りなのに、これでいいはずなのに。頭の中が真っ赤になった。首を振りながら僕は違うって言おうとした。さっきたんの真剣な眼差しに、阻まれた。
「私、それでかまわないの」
どんな気持ちで言ってくれたのか、どうして許せるのか、さっきたんの気持ちが僕には到底理解できそうにない。僕だったら絶対に許せない。 もし佐賀さんにそんなことされたら、と想像するだけでもむかっときそうだ。目の前で僕はじっとさっきたんを見つめなおした。
花壇の中で花の茎を切り刻んでいるさっきたんはきれいだった。目をこするしぐさも、花をそろえて包んでくれるしぐさも。僕がもし、さっきたんに告白されていたら。もし、佐賀さんと一度も会わないですんだとしたら。もし、僕がおとひっちゃんの親友でなかったとしたら。
──好きになってあげたい人を、好きになってあげられなかった。
さっきたんの横顔を見ながら、僕は佐賀さんの顔を思い浮かべていた。佐賀さんが僕に、ソフトクリーム型の手紙を渡してくれた時のはにかみを、重ねていた。さっきたんに心の中でごめんって言うことしか、今は思い浮かばなかった。やっぱり僕は最低な奴だった。敗者復活戦で手に入れたものを、もう手放すことはできなかった。
学校でさっきたんとふたりで話をしている時だけは、絶対さっきたんのことだけ考えようと決めた。佐賀さんにふたりきりで会っている時以外は、さっきたんを大切にするって決めた。
今、なによりも欲しいものを、さっきたんは花束と一緒にプレゼントしてくれたんだから。
僕は顔を上げた。唇を思いっきり堅く結んだ。じっとさっきたんを見据えた。そうしないとうまく言葉が出てこなかった。声が震えた。
「俺、絶対、水鳥中学の中ではさっきたんをないがしろになんかしない」
言葉が詰まった。
「もちろん外でだってさっきたんがそうしてほしいってこと、きちんとするよ」
僕はしばらく涙目でうつむいていた。風を避けるためだった。
「恥ずかしいって顔もしないで、さっきたんのこと、大切にする」
さっきたんがポケットからティッシュを取り出し、そっと差し出してくれた。
受取って目を拭い、僕は無理矢理笑った。






