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「なあんだ、やっぱりそうだったっすかあ」

 最初はずいぶん眉間に皺を寄せていた健吾くんだったけど、僕の顔と、さっきたんの方を順繰りに見た後、めいっぱいの笑顔を繰り出してくれた。隣りで一歩下がったところに、佐賀さんがこくりとお辞儀をした。さっきたんを挟んで、おとひっちゃんが腕組みをして僕をにらむ。にらまれるようなことを一応しているので、言い訳できなかった。

「そういうわけだ。新井林くん」

 おとひっちゃんは顎で僕をしゃくった。合間にきつく牽制するまなざしが飛んできた。さっきたんをわざと見ないようにしている様子だった。どことなく、一歩離れるよう意識しているようだった。

「やっぱなあ。佐川さん、本当に疑っちまってすみませんでした。俺もまっさかなあとは思っていたんだけど。やっぱ、馬鹿な先輩持っちまうと、誤解曲解雨あられってんですか」

 何をこんなに軽いこと言い合っているんだろうか。僕が口を開こうとするたびに、おとひっちゃんはぎろりとにらむ。ああそうだ。日曜に電話が来た時言ってたもんな。

「お前は何も言うな」

って。さっきたんとも指きりして約束しちゃったんだから仕方ない。僕は曖昧にへらへら笑いながら、佐賀さんと視線を合わせようとした。

 健吾くんの側に密着している、かみ終わったガムみたいだ。

「まあ、誤解されるのも無理ないよなあって思いますよ。おい、佐賀。お前なんで紛らわしい髪の毛で行きやがったんだ! お前が悪いんだぞ! 佐川さんに対して失礼だぞ」

 僕にはずいぶん低姿勢な健吾くんだが、いつものことながら佐賀さんには失礼極まりない。おとひっちゃんとさっきたんさえいなければ、僕が割って入りたいところなんだけど、そうもいかない。とにかく状況を把握しようと努めた。


 駅の前でたむろうと、補導員に捕まる可能性もあるので、とりあえずはバス待合室に入り、席を分捕った。たぶん今年中に路線が廃止になるんじゃないかと言われている市営バスの待合室には誰もいなかった。僕とさっきたん、あとおとひっちゃんと。健吾くんと佐賀さん。お互い向かい合い、ベンチに座った。ガラス張りだった。あったかかった。なぜかおとひっちゃんは、間に挟まっているさっきたんから離れようとしているようだった。必然、僕とさっきたんがカップルっぽく見える。

「雅弘も、今は混乱しちまって、うまく説明できねえみたいだから、俺が話すな」

 ──分かりづらいなあ。

 僕に口を利くな、という牽制球、ふたたびだ。

「わかりました。けど、もう俺、いいっすよ」

「いいって、けじめをつけないでいいのか」

「ああ、かまわないっす。だって、要するにうちの立村さんが勘違いしやがっただけなんでしょうが。ばっかじゃねえのって思いますよ。あいつがなんで評議委員長なんだかって思いますが、人間だし間違いもあるってことで。悪いけどほんっと、佐川さん、申しわけありませんでした。俺が青大附中評議委員会に成り代わって謝ります」

「あの、さあ」

 口に出しかけたらまた、おとひっちゃんがにらみかけた。

「とにかくだ、雅弘が無実だってことは判明したわけだ。俺も、そういう関係のないこととは別に、青大附中評議委員会とは付き合いたいと思っているんだ。だから、これでみな、水に流そう。立村にもそう言っておいてくれ」

 ──立村にもそう言っておいてくれって、おとひっちゃん!

 だんだん状況が飲み込めてきた。僕が本当だったら仕組みたかったアリバイ工作。佐賀さんのために、命がけでやろうと決めていた。お株を奪ったってわけだろうか。おとひっちゃん。

 さっきたんの髪の毛先がまた僕のほおに刺さる。はにかむような表情でうつむいている。誰も見ていない隙に、僕は佐賀さんがどこ見ているのかを確認しようとした。ずっと、健吾くんの肩に寄り添うようにして、時たまさっきたんの方を窺っているのがわかった。

 ──ちゃんと言い張ったんだな。あの場所にはいなかったって。

 健吾くんは僕に笑顔で、前の日のバスケ部練習試合についてとくとく語りだした。ひっぱられるように僕も聞き入っていた。けど気になるのは佐賀さんの目だった。あどけなく甘えているようだけど、さっきたんばっかり見つめているように見えるのは、気のせいだろうか。おとひっちゃんだけが腕を組んだまま、応援団の人みたいに天井を見上げていた。

 おとひっちゃんは、立村と一緒に、佐賀さんが遅く帰ったことを確認したはずだと、さっきたんは言っていた。詳しいことを聞いてないのであとは憶測になる。

 ──現場を押えてはいないって、言い訳をするつもりだったんだ。けどさ、どうしておとひっちゃん、手のひら返したように俺をかばうんだ?

 もちろん、このまま流れに乗っていけば、僕と佐賀さんの無実は証明される。

 けど、どうして健吾くんは僕の顔を見るなりいきなり納得してしまったんだろう。

 一言も話さないうちにだ。駅前でだ。


 さっきたんは急に僕の側に近づくように足を寄せた。ブレザーのカフスボタンと、僕の学生服の金ボタンが触れ合った。かちりとなった。そして佐賀さんの方を静かに見つめ返していた。柔らかい視線が絡み合っていた。

「どうしたの」

「ごめんなさい、佐川くん」

 すうっと僕の眼を見つめてきた。また、血走ったような兎のまなざしだった。

「だからどうしたんだよ」

 健吾くんの会話が途切れたところで、さっきたんは軽く小首を傾げ、健吾くんの方に合図を送った。珍しい。さっきたんから男子に合図を送るなんて、めったにないことだった。

「あのう」

 中途半端につぶやきうつむいた。

「あ、なんっすか」

 大股開いて両手を組み、前かがみのまま健吾くんはさっきたんに答えた。

「本当にごめんなさい。私が紛らわしいことしちゃったから、お隣りの人に迷惑をかけてしまったんですよね」

「いや、あの、その、こっちも人のこと言えないし」

 いきなりへどもどするのはどうしたことか。僕も、隣りのおとひっちゃんも、ぎゅうっと絞りこむように見下ろしている。けどさっきたんは全然気にしないようで、ただ健吾くんにだけ話し掛けていた。ちょっとむかっときた。

「あの、私、土曜日の午後に、佐川くんを呼び出そうと思って、図書準備室にいたんです」

 ──ちょっと待てよ、さっきたん、何言ってるんだ?



 声が出そうになったのをこらえた。慣れているそのくらい。ごまかすのは平気だ。けど、さっきたんは、確かに前置きどおり、びっくり仰天することを言い出した。指きりしたから顔には出さないけど、もう心臓の音が響き渡り発狂寸前だ。 

「いや、そのことはもういいっすよ」

「いいえ、私、やっぱりはっきりさせておかないとだめだと思うんです。でないと、お隣りの人にも失礼だから。ごめんなさい」

 誰にごめんなさいなのかよくわからない。佐賀さんは同じく、こっくり頷いた。健吾くんとぴったりくっついたままだった。

「だから佐賀、お前があんまり泣き叫ぶから俺だってこうしなくちゃいけなかったんだぜ。誤解されるお前にも責任あるんだぞ!」

 また怒る。僕は隣りのさっきたんと向かいの佐賀さん、両方を交互に観察していた。

「ごめんなさい」

 やっぱり謝る佐賀さんだった。けど、よけいなことは言わない。僕との約束通り、誰が作ったかわからない流れに沿って様子を見ようとしているらしい。

 さっきたんの言葉が、さやさやと続いた。揺れない芯のある言葉ばかりだった。

「私、途中で生徒会室を抜け出して、用務員室に杉本さんたちの荷物を持って行った後、佐川くんと待ち合わせていたんです」

「いやあ、それはよくあることじゃあねえかなあって」

 健吾くん、戸惑っている様子だ。さっきたんに飲まれている。

「いえ、本当はあの日、佐川くんに話すつもりだったんです。委員長さんが来なければ」

 また僕に視線を送った。目と目が合った。

「私、佐川くんと、お付きあいしたいんだって」


 ──さっきたん、どうしたんだよ! 俺と、俺と付き合いたいって。

 もちろん知らないわけじゃない。前から僕のことを気に入ってくれていて、うれしいなとは思っていた。けど、まさかそんないきなり言われても、僕は困る。第一、僕はさっきたんと待ち合わせてなんていなかった。さっきたんはとっくの昔に帰ったもんだと思っていたから。まさか、用務員室でおとひっちゃんたちと顔を合わせていたなんて想像すらしていなかった。

 指と指が絡まりあった記憶が蘇り、鈴蘭優のポスターを眺めている時と同じ精神状態に引き戻されそうだ。

「けど、言おうと思った時、委員長さんが入ってきて、けんかになってしまったので、私、出られなかったんです。私、生活委員のくせに、校則破っているところ見られたくなかったし、それに、お隣りの人がしてきた髪型がとってもかわいくって、つい真似してしまったんです」

「こいつの、がか?」

 健吾くんのなんともいえないねめっちいまなざしが、佐賀さんに注がれた。見たことないんだろうか。そんなことはないだろうと思うけど、確かにふたっつに結い上げた髪型は似合っていた。

「だから、もしかしたら、佐川くん、わかってくれるかなって思ったんです。けど、人に迷惑かけることになるなんて、思っても見ませんでした。だから、出られなかったんです。関崎くんもいたし、変なこと誤解されたら恥ずかしくって、つい、窓辺に隠れてしまったんです」

 ──さっきたん、俺の計画を先取りしてるのか?

 必死に表情を隠した。照れている振りしてうつむき、指の関節をぽきぽき折った。

「だから、お隣りの人はいなかったんです。あの場所にはいなかったんです。信じてあげてください。もちろんこんな髪型していたから、おとなりの人に間違われたのはしかたないかなって思うので、委員長さんは悪くないと思います。けど、でも、佐川くんは私と会っていたんであって、お隣りの人とではないんです」

 急に頬を両手で覆い、うつむいたさっきたん。ガラス張りに春っぽい陽射しがさしてきて、だんだん熱くなってきた。ビニールハウスの野菜みたいな感じだった。

「いいって。もういいっす。俺、こいつのことを疑ったこと自体、最低な奴だって反省してるんだからさあ。もうほんと、謝らなくたっていいんだって」

 丁寧語とため口と混ぜ合わせた妙なバランスでもって、健吾くんがさっきたんをなだめている。でも動かないのはさっきたんがずっと、顔をさすっているから。背中を丸める格好でいたさっきたん。ちょうど僕とおとひっちゃんと、真剣に目が合った。

「おとひっちゃん、俺」

「黙ってろ。水野さんに失礼だろ!」

 かなりきつい怒鳴り口調だった。

 ──おとひっちゃんの前で、言っちゃったんだ、さっきたん。

 もともと分かっていることだった。けど、おとひっちゃんの前では決して口にしないでほしかった。いや、おとひっちゃんがそう言うよう言いくるめたんだろうか。僕の中ではそういう答えがもう出ている。おとひっちゃんのたくらみだってことが、浮かび上がっている。どうすればいいんだろう。僕は健吾くんにこくっと頷いてみせた。ついでに佐賀さんを眺めた。同じようにうつむいている佐賀さん。女子がふたり動揺している様は、居心地悪かった。嘘がまんべんなく盛り込まれているからなおさらだった。

 ──さっきたん、どうして、ありもしなかったこと、いきなり言うんだよ。

 

  気まずい雰囲気になったのを救ったのは、やっぱり健吾くんだった。咳払いをしたのち、おとひっちゃんと僕に親指を立ててぐいぐいと押した。

「もう、俺のことは気にしないで大丈夫っすよ。あとは青大附中で片付けることですから。ただ、これだけ人を傷つけてしまった以上、俺としては決着を立村さんとつけます。あ、大丈夫です、ちゃんと冷静な第三者の先輩に見てもらって、弾劾裁判してもらいますから」

「さ、裁判?」

 健吾くんは佐賀さんの腕をひっぱりあげるようにして、ポケットに手を突っ込んだ。僕よりはるかに背が高いのが目立つ。

「ただ俺と佐川さんが一緒にしゃべっているところ見かけたからっていって、こそこそ泥棒猫みたいなことしやがって、さらに佐賀が佐川さんとくっついているんでないかってありもしねえことを吹き込みやがって。しかも、あんな馬鹿女に現抜かして、自分より頭がいい佐川さんを殴りやがって。やっぱ、最低っすよ。まあ、四月からはあの人の元でしっかり働かねばなんないってわかってますんで、これできっちりけりをつけて、水に流します。どうもすみませんでした!」

 最後に握手を求める手を出してくれた。先におとひっちゃん、次に僕に。こわごわ触ると、実に堅かった。皮が分厚かった。やっぱりバスケ部だから、手の皮が鍛えられているんだろうか。

「もう変な誤解がないんで、俺も安心して、困った時に佐賀を使って佐川さんへ連絡できますよ。立村さん通してだとやっぱりいろいろ、問題あることも多いと思うんで、俺、何か変わったことがあったらすぐ、佐川さんちの本屋に佐賀を向かわせます。またあんにゃろうが誤解しやがったら、そんときは俺が黙っちゃあいません。安心してください。ほんと、申しわけなかったっす」

 これからバスケ部の自主練習があるから、ってことで、佐賀さんとふたり、健吾くんは待合室から出て行った。佐賀さんももう一度こっくり、僕たちに頭を下げた。最後にさっきたんとまた、視線を絡めていった。


 とうとう僕とおとひっちゃん、そしてさっきたんと三人だけになった。何時くらいなんだろうか。腕時計を見た。同時におとひっちゃんが立ち上がった。

「雅弘、これでけりはついた。水に流したからな」

「え、おとひっちゃん、どういうことだよ。俺、理由聞いてないって」

「だから理由を追求する権利、お前にはない!」

 最後にさっきたんへおとひっちゃんはじいっと視線を送った。すぐにきびすを返して、出て行った。追おうとした。立ち上がりかけた。

「佐川くん、いいの、私、関崎くんが今どこに行こうとしてるかわかってるの」

「さっきたん、あの、約束通り、聞かせてくれるよね」  

  言葉がかすかにどもってしまった。立ったまま見下ろすと、さっきたんは泣きそうな顔で僕を見上げた。

「いったいどうして、あんなこと、言ったんだよ。俺、約束したから何も言わなかったけど、さっきたん図書準備室なんかにいなかったじゃないか。どうしてだよ!」  

 助けられたってことは分かっている。さっきたんとおとひっちゃんが口裏合わせてくれなかったら、たぶん今ごろ健吾くんに決闘を申し込まれていたに違いない。今までの流れからして、ふたりが僕を助けようとして、話を合わせていたことくらい見当はついていた。さっきたんが、僕に告白しようとして、図書準備室へ向かい、たまたま立村に勘違いされたってことを。しかも勘違いされた理由が、髪型だったからということ。

 無理のある説明だ。だってさっきたんはずっと、用務員室で待機していたのだ。

 さっきたんの言い分を信じればの話だがおとひっちゃんだって、杉本さんとおかっぱの女子だって、立村だってそれは知っているはずだ。

 けどおとひっちゃんはあえて、嘘をついてくれた。

 さっきたんと一緒に、嘘つきになってくれた。

 正々堂々とした性格の、嘘が大っ嫌いな、おとひっちゃんがだ。

「俺、嘘をついてまでかばわれたくないよ! さっきたんもおとひっちゃんも何考えてんだよ。そうだよ、俺、ずっとあの佐賀さんって子と一緒にいたよ。俺が呼び出したんだ。そうだよ、健吾くんが騙されてるんだよ」

「知っているわ」

「知ってるならなんで、そんなわけのわかんないことするんだよ! 俺はこういう風に騙されるのが一番嫌いなんだよ!」

「ごめんなさい。でも、私も言いたかったの」

 さっきたんは僕のむちゃくちゃな怒鳴り声を黙って受け止めていた。善意でやってくれたことはわかってる。僕もこうしたかった。けど、ほんとは僕が全部けりをつけるつもりでいたことを、を勝手に演じられると腹が立ってしまう。理屈じゃない。わけがわからない。

「私、もし佐賀さんって人がいなかったら、同じことしていたと思うから」

 今度はうつむかなかった。唇をかみ締めた。目をそらさなかった。まっすぐすぎて、目が痛かった。蛇口をつけられたあたり、鼻筋一番上あたりがきんと冷えた。

「ごめん。俺、やっぱり変だよな」

「今からみんな話します。話したら、一緒に関崎くんのところに行くから。私」

 僕は全身脱力状態で思いっきり浅く座った。さっきたんの顔を見ないようにして、さっきの健吾くんと同じポーズを取った。少しは男っぽく見えるだろうか。

 さっきたんはしばらくためらっていた。片方の髪に手を置いて、しゅるっとゴムを外した。もう片方の束にも同じことをした。見ると、杉本さんと同じくらいの長さがある髪の毛がばさっと肩に落ちていた。耳の上だけゴムのあとで膨らんでいた。


「関崎くんが委員長さんと一緒に来た時、びっくりしたの。関崎くんはずっとうつむいていて、委員長さんは今にも倒れそうな顔をしてたの。ずっと身体の震えが止まらなかったみたいで、用務員室に来た時、ふたりとも何も言わなかったの。そうしたら、窓からふたつ結びにした青大附中のあの人が、自転車漕いでいくのが見えて、みんな呆然って感じで眺めていたの」

 ──わかってる。わかってるさ。俺が悪いんだ。

「関崎くんがそれ見て、最後にがっくり頭下げて、『すまなかった、俺が悪い』って言い出して、委員長さんもそんなことないって首振っていたわ。その時は何が起こったかわからなくて、ただ私も眺めているだけだったけど。おかっぱの女の子、委員長さんと仲良しで、何度か腕さすってたわ。何か一生懸命話しかけてて、それでも何も言わなくて」

 ──ああそうか。あいつにも彼女いるって言ってたよな。

 さっきたんの話によると、おとひっちゃんはもちろん、立村も相当、精神的打撃を受けたみたいだ。少しだけ、ざまみろと言いたくなった。人を殴ると大抵そうなるもんなんだ。

「しばらくそうしてたら、委員長さんがストーブの方に関崎くんを呼んで、話をしていたの。聞かないほうがいいかな、と思っていたんだけど、聞こえてしまったの」

「何、それは」

「それは……」

 さっきたんは口篭もった。大抵のことだけど、口篭もったことにたいていほんとのことが隠れてるんだ。話してくれるのを僕は待つしかない。ずっと黙っていたら、やっぱり痺れをきらしてさっきたんが動いた。かすかに、頷いた程度だった。

「一年のあの女の子に、ふつうの女子と同じ風にして、きちんと話をしてくれって」

「ふつうの女子?」

「あの子は今まで男子に人間らしく扱われたことがない子だから、他の女子たちを相手にする時と同じく、きちんとお断りしてあげてほしいって、一生懸命言ってたの」

 ──まじかよ!

 ガラス張りの光が一瞬真っ白く染まった風に見え、僕は窓越しに空を見上げた。

「早い話、杉本さんって子を振ってくれってことなのかなあ」

 こっくり、さっきたんは頷いた。

「私、関崎くんたちがいない間、あの子たちと一緒にいたでしょう。ずっと一年の女の子、関崎くんのことばかり話してたの。どんなに私ともうひとりの子が別の話をしようとしてもだめだったの。関崎さん関崎さんって、うわごとのように同じことばかり繰り返してたの。眠るまでそうだったの」

 相当、おとひっちゃんに思い入れていたのだろう。葉牡丹の彼女は。

「だからたぶん、関崎くんのこと好きなんだなって思ったわ。どうして好きになったのか聞いたら、『ちゃんと私の入れたお茶を、お礼言って全部飲んでくれたから』って。ありがとうって言ってくれたからって。そういう人、関崎くんのようなタイプの人にはいなかったから、きっと自分のことを好きになってくれたんだって、思い込んでいたみたいなの」

「ああ、お茶わんこそば事件だ」

 総田から聞かされた、五杯のお茶わんこそば。だからあっさり断っちまえって思ったんだ。まったく、ああいうとおがおとひっちゃんの人のよいところで、罪作りなとこなんだ。

「話を聞いていて、ああ、きっと関崎くん、ふつうの女子にするような態度で話をしただけだったんだなあって、思ったわ。一年の子が寝てしまった後、一緒にいた子も言ったのよ。ずっと周りが盛り上げつづけてきたけれど、かわいそうなことしてしまったのかもしれないって。だから、委員長さんもこれ以上傷つけたくないからって言って、今日関崎くんに会わせて、きちんと結果を出してもらおうと話していたらしいの。最後にお互い納得づくで終りにしようねって。もちろん、その子には話さなかったらしいけれども、二年生ふたりがついてきたのは、そのことがあったみたいなの」

 もう、天才参謀だなんて言葉は返上しなければなんない。

 さっきたんの門前で咲いていたあの葉牡丹の花。僕は貧弱だ、みっともないと思っていた。葉っぱの毒々しさに負けて、なんてわびしい花なんだろうと思っていた。とんでもない。葉牡丹の花は僕だ。周りからさんざん「天才参謀」だと囃し立てられ、舞い上がって勝手に解釈して、結果、黙っていればうまくいくはずだったことを泥沼化してしまったってことだ。

「まじかよ」

「ほんとよ。けど、まさか佐賀さんという人がくるとは思わなかったらしくて、相当ショックを受けてしまったらしいの。それに加えて、辛いことがあったらしくて気分が悪くなってしまって、本当の赤ちゃんみたいにずっと同じことばかり繰り返してたわ。きっと傷ついたんだと思うの」

 ──そのことは反省しないよ。佐賀さんはその倍傷ついている。

 僕はただ、自分の読みが甘かったことが許せなかった。黙っていれば佐賀さんの思うがままに進んだだろうに。健吾くんからもらった情報をきっちりと吟味しないで、立村側の情報を集めようとしなかったことこそ手抜きの証拠だ。どうしておとひっちゃんにもっと近づかなかったんだろう。佐賀さんのことしか考えていなかった僕のミスだ。

「それで、委員長さんはあの子を起こして、約束させたの」

「約束って、何をだよ」

「関崎くんに会わせる前に、ちゃんとこれだけ約束しろって。『関崎くんがどんな言葉を返そうとも、決して相手を恨んだらいけない。約束できるなら、これからふたりで会わせるけどどうする?』って。委員長さん、一年のあの子のことが可愛くてしかたないみたいだったの。一生懸命、何度も話し掛けて、最後は指きりしたの。私に、佐川くんがしてくれたみたいに」

 小指の先が充血してるみたいだった。僕は小指の先を耳に突っ込んだ。

「その後は、私もわかんない。ただ、関崎くんは一生懸命話をしていたけど、あの女の子は妙にテンションが上がっていって、結局違う風に受け取ったみたいなの。いくら言い返しても話が通じなくて、とうとう関崎くんはあきらめてしまったの。戻ってきて、その子、二年の子に一生懸命話してたからわかったわ。関崎くん、自分は公立高校に進学するつもりだからきっと合わないし、よくお互いを知らないから、お付き合いするのは難しいと思う、みたいなことを言ったみたいよ。でも、その子は『私は青大附属高校に進学させてもらえません。学校から追い出されることに決まっているから、かならず公立高校に追いかけていきます』って、力強く言い張ったようなの」

 ──公立高校へ追い出される? 青大附中ってエスカレーター式じゃなかったっけ。

 ──第一、おとひっちゃん、第一志望、青大附属高校だろ?

 あまり詳しいことを突っ込んでもしょうがないとはわかっていても僕は聞かずにいられなかった。

「それってどういうことだよ。だっておとひっちゃん公立すべりどめだろ!」

「だから、きっと、関崎くん、お付きあいを断る口実に、使っただけなのだと思うの。けど、その子はどうしてもその意味が理解できなかったみたいなの。どうしても、どうしても関崎くんを好きでいたいみたいだったの。そうしないと壊れてしまいそうだったの。その……杉本さんって人は」


 おとひっちゃんがなぜ、あきらめてしまったのか、だいたいおぼろげに見えてきた。

 ふつうに話せばきっとわかってもらえると、最初はおとひっちゃん、立村ふたりとも思っていたんだろう。きちんと話をつけて、失恋してもらえれば丸く収まると。けど、杉本さんはやはり尋常でない人だったんだろう。懸命に、どんなことがあっても、おとひっちゃんへ必死にしがみつきたかったんだろう。佐賀さんから聞いた理由を考えればそれも納得する。学校で無視され、嫌がらせを男子からされつづけ、先生からも嫌われる。自業自得なので僕は同情する気さらさらないけれど、そんな生活の中でたったひとり見つけた「自分にお礼を言ってくれる」男子。それがたまたま、おとひっちゃんだったんだろう。

 さっきたんも気付いている通り、「してくれたことに対してお礼をいう」のはごく普通の礼儀だ。僕もお茶を入れてくれたくらいで相手へのめり込んだりはしない。単なる儀礼だと思うだろう。ふつうは。けど、杉本さんはそうじゃなかった。

 今まで、お茶を入れてあげて、お礼を言ってくれる男子がほとんどいなかったんだ。きっと。総田も内川も、最初に青大附中へ出かけた時、お茶をすぐに断ったと話していた。おとひっちゃんだけは、そんなに嫌われている杉本さんのことを同情したのか、それとも何も感じなかったのかわからないけれど、きちんと礼儀を守った。ただそれだけのことだ。そういう相手がもし、杉本さんの周りにいたとしたら、ここまでおとひっちゃんにのめりこんだりはしなかったんじゃないだろうか。そうだ、

  唯一守ってくれている、あの立村評議委員長相手だったら、葉牡丹を差し出しても両手で受け取ってくれただろうに。

 繰り返すけど、おとひっちゃんは決して、杉本さんみたいな子を好きにはなれないだろう。どんな理由があるにせよ、佐賀さんをいじめて、嫌がらせをしたことだけは否定できない事実なのだ。僕の脚本を始め、健吾くんの言葉、その他いろいろな噂などを複数合わせてみてもそう思う。

 けど、おとひっちゃんは、いい奴だった。

 運悪く、ものすごくいい奴だった。

 だから、杉本さんの想いをあっさりと切ってしまうことにより、すべての人から嫌われてしまわないように、逃げ道を残してやったんだ。そういう奴だ。僕だったらとことん立ち直れないくらい叩きのめして、ぷいっと捨ててやる。そうされて当然の女子にすら、情けをかけてやれるのが、関崎乙彦という男なのだ。

 僕の、一番の親友なんだ。


 さっきたんはちょっと黙り、こくんとつばを飲んだ。僕の表情を伺った。

「ふたりの女の子が車で帰って、私、関崎くんと、委員長さんと三人で話をしたの。関崎くんも困っていたし、委員長さんも何にも言わなかったわ。ずっと自転車を置いてあるところで、一生懸命話をしていたの。関崎くん、ひたすら同じこと言ってた」

 僕をまた、きつい視線で射た。受け止めた。

「『あのことだけは誰にも言わないでほしい』って」

「あのことって?」

「佐川くんがあの、佐賀さんと一緒にいたことを言わないでほしいって、何度も繰り返したの。委員長さんはずっと話を聞いて黙っていたけど、とうとう頷いたわ。さっき、話をしていた男子の人。あの人にずっと連絡をとって、佐川くんのことを報告していたらしいけれど、それをなかったことにするからって言ってくれたの」

「なかったことにするって?」  

  立村が僕と佐賀さんについて、健吾くんへ連絡を入れ、不安をあおっていたらしいとは聞いていた。健吾くんが佐賀さんを伴って駅前に現れた理由はそれだ。僕の顔を見て、もし間違いなどあったら僕を殴り飛ばす覚悟で。見ただけで気合の入り方が違っていた。

「委員長さんの勘違いだったことにするって、言ってくれたの。関崎くんは、あの杉本さんって人に、一生懸命、礼儀正しくしてくれたんだから、それくらい自分がして当然だって。いい人だと思ったわ。関崎くんも、委員長さんも」

 ──それでか。

 しばらく口篭もった後、僕は自分のたどり着いた答えをつぶやいた。

「だから、さっきたんは僕に付き合いをかけるため、嘘をついてくれたんだ」

「ごめんなさい。でも、関崎くんが電話で言ってたの。『きっと雅弘の奴は、嘘をついて助けようなんてしたら逃げる。決してその場でしゃべらせないようにしてやるしかない』って。私もそう思ったの。だから、言わなかったの。ごめんなさい」

「もういいよ。親切なつもりでやってくれたんだよね」

 本当は感謝の言葉を伝えたかったのに、出たのは冷たい言い草だった。

 おとひっちゃんも、僕の性格を理解しているんだ。あらためてそう思った。

 僕がひそかに佐賀さんを守るために計画していたことを、おとひっちゃんは無意識に奪い取って、さっきたんと協力してやってのけてしまった。いつだったか総田に、

「あいつ、人の言ったことをそのまんま鵜呑みにして、自分の手柄にしちまうんだぜ」

 とこぼされたことがある。まさに今回は僕がパクリをやられてしまったってわけだ。

 もちろん、おとひっちゃんとさっきたんが、僕のことを守りたくて、懸命にしてくれたことはわかっているつもりだ。さっきたんが必死に嘘をついてまで、僕のことを助けようとしてくれたと、頭の中で感謝しなくちゃ、とは思っている。けど、本能の方が頷いてくれなかった。

 ──なんで、よけいなこと、したんだよ!

 叫ぶ自分が残っていた。助けてもらいたいなんて、思わなかった。ただ、僕は佐賀さんを守りたかった。結果的におとひっちゃんのやり方で佐賀さんの立場もキープされたわけだけど、本当は、それを僕がやりたかった。僕ひとりのやり方で、佐賀さんを守りたかった。


「だから、佐川くん、私、もし必要なことがあったら、お付きあい相手のふりするから」

「いいよ、さっきたん、いやなこと無理にしなくたって。おとひっちゃんに頼まれた義理はもう果たしたんだろ」

 冷たい。いやな奴だ。けどそう返事するしかない。僕は目を向けず、態勢をそのままにしてつぶやいた。

「ううん、だからさっきも言ったわ。私、いつか、そう言いたいと思っていたから」

 ──俺は、守られたくない、守りたいんだ!

 僕はさっきたんの顔を、前かがみのまま振り仰いだ。

 芯のしっかりした、やわらかい、まっすぐなまなざし。

 はつかねずみのようなあどけない口元。

 そんなさっきたんがいい人だなって思っている。今でも変わらない。

 けど、今の僕はさっきたんの言葉を受け取れなかった。

 ──さっきたんは俺のことを守るつもりでいるんだろうけど、俺は、佐賀さんだけしか守りたくないんだ。

 気が付いた。やっぱり僕の前には、佐賀さんしか映っていなかったんだ。

「俺はさっきたんの気持ちには答えられない。ごめん」

 ゆっくり前かがみの姿勢をただし、背をしっかと伸ばし。 きっちりと答えた。杉本さん相手のおとひっちゃんの時みたいに、誤解されないように言った。

「俺は守ってくれる人よりも、守りたい人を好きになるタイプなんだ」  


 泣かれるかと思った。罵倒されるかと思った。けど違った。やっぱり僕の隣りにいたのは、さっきたんだった。

「うん、わかった。佐川くん。けどこれだけは覚えていてね」

 すっかり真っ赤になった頬を、さっきたんは隠さなかった。

「私とつきあっているってことに、交流会の中だけでもしておけば、あの佐賀さんという人には会いやすくなると思うの。そういう時だけ、私を呼んでくれればそれでいいの」

 ──さっきたん、それは、ひどいよ! そんな俺がひどい奴だと思っているのか!

 声が出た。慌てた。

「俺、そんな汚いことしたくないよ!」

「ううん、いいの。そうすれば、あの人に堂々と会えるのでしょう」

 ──そりゃそうだけど……。

 僕の心に残酷な計算が一瞬働いたのを、さっきたんに読み取られちゃったんだろうか。

 確かにさっきたんの言う通りだ。ここでさっきたんと付き合ったことにしておけば、これから先、佐賀さんと会うのに好都合なのだから。健吾くんもすっかり信じ込んだだろうし、さっきたんに本当の事を隠しておけば、お互い傷つかないで済む。総田と同じようなことを、僕ならもっと要領よくやる自信がある。

「そうすれば、私も、ほんの少しだけ佐川くんの役に立っているんだと思えて、嬉しくなるの。だから、必要な時は言ってください」

 傷ついたんだろう。きっと、さっきたんは僕が想像している以上に傷ついたんだ。僕が付き合いをOKするんじゃないかと、希望をもっていたんじゃないかって気はしていた。たぶん、佐賀さんに出会っていなかったら、おとひっちゃんの顔色を伺いつつ、お付きあいまで持っていったかもしれない。嫌いじゃない、女子の中では二番目にいいなって思っている子なんだから。けど、それはもうできなかった。

 ──俺は、佐賀さんを守らなくちゃいけない。

 言葉に出さず、僕は立ち上がった。

「ごめん。あらためてきちんと話すけど、やっぱり僕は今、さっきたんとは友だちでしかいられない。悪いけど、おとひっちゃんのいるところに連れてっていってくれるかな」

 さっきたんの縋る目を、振り払いたかった。

 さっきたんはあきらめ加減に頷いて、ガラス戸を開けた。春だった。外の空気はもう、完全に和らいでいた。室内のこもった空気よりも、まだ冷たさの残る、鼻毛が震えそうな外気の方が、僕には気持ちよかった。


 駅の裏は海だった。少し裏を回ったところに小さな公園があって、しょっちゅう大道芸人や動物披露ショーなどが行われていた。僕も小さい頃はよく観にいった。おとひっちゃんも一緒だった。ロバとか七面鳥とかが臨時の柵の中でちんまり座っていたりした。けど今はそんなところ、めったに行きやしない。夜中には暴走族とか、ちょっと変わった感じの人たちが集まる集会とか、寄るとちょっと怖い場所に変わっている。当然のことだけど、子どもが遊ぶこともほとんどない。

 さっきたんが連れてきてくれたのは、ほとんど人のいない公園の中だった。

「ありがとう、ここだったんだ」

 口を利かないで、たださっきたんと五分くらい歩いていた。潮の匂いが気持ちよかった。だんだん歩いているうちに寒くなって、何度かさっきたんはくしゃみしていた。

「佐川くん、また、四月に学校でね」

「うん、さっきたん、同じクラスになれたらいいな」

 言ってしまってから後悔した。僕はたった今、さっきたんを振ったばっかりじゃないか。

 精一杯の譲歩をしてくれたさっきたんに対して、

「俺は守られるんじゃなくて、守りたい人を好きになるタイプなんだ」

 と、言い訳にならない理由でもって跳ねつけたばかりじゃないか。

 ──最低野郎だよな。俺は。

「うん、お祈りしていていい?」

 少し、にじみ出るような笑みがこぼれていた。本当だったら僕は、めいっぱいの笑顔でもってさっきたんと帰りたかった。けど、もうできなかった。

「また、春休み中に会うかもしれないしさ、じゃあね」

 僕は手を振った。公園の入り口でさっきたんは何度も僕を振り返りながら、もと来た道を戻っていった。


 さて、どうするか。

 おとひっちゃんがいるという公園。ろくに手入れされていない。雪がまだ隅っこの方に汚く残っている。足を踏み入れると靴がぐちょぐちょになった。せっかくいいスニーカー履いて来たのに。僕はベンチの方の人影を探した。

 すっかりさび付いた遊具の数々。ブランコも壊れる寸前で、木の座るところが割れていた。シーソーも動かないまま。僕はずっとおとひっちゃんを探していた。

「おとひっちゃん」

 小さい声で呼んでみた。

「おとひっちゃん、どこいるんだよ」  

  ちっちゃな頃と同じように、叫びたくなった。

「おとひっちゃーん」

 返事はなかった。僕は適当にベンチのあたりを回ってみることにした。

 靴を泥だらけにしながら……時たま、結果の悲惨な通知表をどう親に見せるか考え込みながら……一番端にいるふたりの影に近づいていった。途中のベンチからは後ろ側を歩くことにした。そちらの方が気付かれにくいかも、と思ったからだった。

 さっきたんが話してくれたことは、僕の想像に近かったとも言えるし、かなりずれていたとも言えるだろう。立村がおとひっちゃんに要求したものが、思ったよりも低いレベルのものだったことに、最初はほっとした。てっきり、「杉本さんと交際しろ」みたいなことを言われたのではないかとはらはらしていたからだった。「きちんと人間らしく振ってやってくれ」ということだったら、簡単だったはずだ。もっともそういう注文が必要な相手だったので、まだ問題は山積みのようだけども。立村もその条件と引き換えに、僕と佐賀さんは全く繋がりがないということを証明すると約束してくれたという。

 僕からしたら水鳥中学丸儲けって気がする。

 健吾くんも話していた。これから立村を弾劾裁判にかけるらしい。青大附中って不思議な空間だと思うんだけど、この時代においてまだ「弾劾裁判」なんてもんがあるらしい。さんざん嘘を言って健吾くんを不安にさせた罪を、上の先輩によって裁いてもらうらしい。どんなことするんだろうか。「裁判」という以上は有罪か無罪かを決めるんだろう。立村が宣言した通り沈黙する覚悟を決めたのだったら、当然有罪扱いされるだろう。

 また、僕にも殴った後約束した通り、杉本さんをこれ以上水鳥中学に迷惑かけないようにする、という約束の件。正直なところそれさえしてもらえれば後はどうでもいいってのが本音だ。もちろんおとひっちゃんを追って公立高校を受験するのは勝手だけど、それは別の話。交流準備会には一切参加させないようにしてくれるはずだ。立村が一方的に非を請け負ってくれるならば、水鳥中学は万々歳だ。

 完全犯罪ってことで、片付けられていたら、僕ももっと気楽でいられただろう。

 いつもは僕も、上手に片をつけている。総田に頼み込んでうまく図書準備室を借りて、佐賀さんとふたりきりで相談し、杉本さんを再起不能なまでに叩き落し、おとひっちゃんからも引き離す。完璧な計画のはずだった。少なくとも、立てた段階ではそう思っていた。

 けど、僕は根本的に間違っていた。おとひっちゃんが僕の想像していたような、単細胞のいい奴なんじゃないってことと、蝋人形の立村が実は相当な兵だったこと。そして、さっきたんの行動力と想い。すべて僕が目をふさいでいたことばっかりが、今ごろになってやってきた。

 見つめていたのは、佐賀さんのことばかりだった。寝ても冷めても、鈴蘭優のポスターを通じて佐賀さんばかり追っていた。今なら分かる。佐賀さんをどんな卑怯な真似しても守りたかっただけだった。おとひっちゃんに嫌われることを覚悟で、佐賀さんに評価してもらいたかった、それだけだった。

 ──けど、結局守ったのは、おとひっちゃんたちの手でなんだ。 

 僕はただ、取り返しできない寸前まで問題をふくらませただけだった。


 ベンチ五つ分離れたところに、人影を見つけた。

 ふたりだった。おとひっちゃんだってことは、ひとりの背が異様に高いことからすぐにわかった。もうひとりは誰だろう?

 野郎だってことは見当がついた。しばらく様子を見ながら少しずつ近づいた。

「おとひっちゃん?」

 一つ分のところで声をかけた。ふたりの影がこっちを向いた。

「雅弘か」

 何か用か、とは言わなかった。隣りの奴だけが、冷たく僕を見据えている。何か言わないとまずいだろう。僕の方から先制攻撃をしてみた。

「貸し借り、これでゼロだな」

 蝋人形がかすかに微笑んだ。冷たそうだが、それでいて全く動じないって風に見えた。

 隣りのおとひっちゃんは、そいつに向かい、もう潮時だろって顔で顎でしゃくった。

「悪かった。そろそろ行くよ」

「弾劾裁判か?」

 僕もできるだけ冷たい響きを持たせるようにして尋ねた。同じトーンで話をしたかった。

「そうだ。覚悟はしている」

 濃い目のチェックが入ったグレーのブレザー制服姿野郎は、かばんのとってを持ち直すと、おとひっちゃんに軽く一礼した。後、僕に向かい、

「関崎に感謝するんだな」

 また捨て台詞を残して歩いていった。初めて会った時とは違う、堂々とした態度だった。最初からああいうところを見せていたら、僕も「腹下しの蝋人形」だなんて見くびらなかっただろう 。黙って見送り、後姿が角を曲がるまで待っていた。


 僕とおとひっちゃん、ふたりきりになった。ベンチの黒い背に片手を置き、僕はおとひっちゃんの脳天に向かって語りかけた。

「おとひっちゃん、みんな聞いたよ」

 返事はなかった。

「さっきたんにみんな話を聞いたんだ。俺が聞き出したんだからさっきたんは悪くないよ」

 さららと木々の擦れる音がした。

「ほんとにごめん」

 身動きしなかった。無視したいんだろうか。急に身体が冷えた。

「俺、いつになったらおとひっちゃんの弟分から脱皮できるのかな」

 何か言うべきことがもっとあったような気がした。くどくど説明したかったけれども、なんだか照れくさかった。いつもだったらおとひっちゃんに言われていることを、繰り返すことはしたくなかった。ただ、伝える言葉だけぽんと投げ出した。

 おとひっちゃんは少しうつむき加減になり、がくんと頷いた。そのまま態勢を崩さなかった。僕が離れていっても追ってこなかった。

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