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 僕の言った通りに佐賀さんは、会が終了後、すぐ立村評議委員長に

「それでは梨南ちゃんをよろしくお願いします」

 と挨拶して教室を出た。僕もおとひっちゃんに、

「じゃあ、俺もちょっと借りた部屋、片付けてくるね」

 と一声かけておいた。総田には目配せしたけど、全くおとひっちゃんはおかしいと思っていないみたいだった。内川を始め、生徒会連中はみな図書準備室のことを理解してくれているみたいだ。ちゃんと、おとひっちゃんには内緒にしてくれているみたいだ。ありがたい。参謀たる僕への、ささやかなお礼ってとこなんだろうか。

 結局、杉本さんともうひとりの青大附中女子評議委員は帰ってこなかった。さっきたんが、あの妖しい「忠臣蔵」テープを聞いている間に荷物を持って行ったところみると、あの人たちも先に帰ったに違いない。気分悪そうだったし、やっぱり顔を出すのも恥ずかしかったんだろう。 立村評議委員長がおとひっちゃんに近づき、なにやら話している。生徒会室を出て行きがけに耳にしたのは、

「迷惑かけてすまなかった。あのさ、そっちの顧問の先生に挨拶してっていいか?」

 だった。


 佐賀さんは階段を一段降りたところで待っていてくれた。

「ごめん、じゃあ上に行こうか」

「本当にいいんですか。私、他の中学なのに」

「いいっていいって」

 ──佐賀さんのためなんだからさ。  

  生徒会連中が帰る前に一度、様子を見にきてほしいと頼んである。閉じ込められる心配はない。

「けど、大変だったね」

「はい、でも平気です」

 小さい声でしゃべっているつもりなのに、廊下にはびんびん響いた。外からは女子のジャージとおんなじ色の、茶色っぽい赤のつぼみが見え隠れしていた。何となく咲きそうだった。生徒会室ががんがんと熱すぎたから、廊下の冷え具合がちょうどいい。図書準備室には小さい電気ストーブを用意してある。佐賀さんも僕も風邪ひかないで済みそうだ。

 南京錠をポケットにつっこみ、まずは引き戸を開けた。誰もいない。あたりまえか。

「これでも片付けたんだ」

「ええと、私」

 すぐに窓辺の席へ連れていきたかった。窓を使わない本棚でかばうようにしてあるので、戸口からは見えない。ちょっとだけ部屋が狭かった。でも大丈夫。どうせ総田が迎えにくるまでは誰も来ないんだから。

「ほら、こっち」

 ジャンバーを着たまま僕は、テーブルの隙間を横になって通った。一緒に佐賀さんが、コートを羽織りながらついてきた。急いで椅子の足下にセットしておいた電気ストーブに電源を入れた。

「まだ寒いけど、がまんしてくれるよね」

「私、大丈夫です」

 窓辺には、夕暮れ色が漂っていた。三月に入ってからだいぶ日の降りるのも遅くなった。まだまだ夜になるには早かった。佐賀さんがどこに住んでいるのかはわからないけれど、青大附中の近くだったら十分だろう。今日、何で来たんだろうか。

「自転車です。梨南ちゃんは清坂先輩の自転車に乗せてもらってきたはずです」

「わあい、二人乗り、やっちゃいけないんだ。俺もやってるけど」

 からかい調子で答えてみると、

「だって、梨南ちゃん、お母さんから自転車に乗ってはいけないって言われてるんです。学校も歩いて通っているんです」

 ──なんて家庭なんだ。

 もう過去の人、扱いにしたい。いいかげん軽蔑も面倒になった。

「もう二度と会うこともないだろうから、きっと杉本さんの話は今日で最後になるよ」

 僕は言い切り、佐賀さんから詳しい事情を聞き出すことに専念した。

 話の合間に何度か、耳に手を当てて、束ねた髪のほつれを直すしぐさに、何度か僕は目をそらした。変なこと考えたらまずい。今ここにいるのは、鈴蘭優のポスターじゃない、佐賀さんなんだ。

「私、最初に言ったんです。梨南ちゃんに」

 唇を一本に結び、窓辺の橙色を見つめるようにして佐賀さんは話し始めた。

「小学校の頃、本当は梨南ちゃん、みんなから馬鹿にされてたのよってことから。今まで私が気付いていたけど、話したら傷つくかもしれないと思って言わなかったことを全部言いました」

「たとえばどんな?」

「男子には、いえないことばかりです」

 言葉を濁した。男子と違って女子がエッチな話をするとも思えない。いろいろあるんだろう。

「あ、でもこの前お話ししたことがほとんどです。ほんとは、梨南ちゃんピアノ習いたかったんでしょとか、ほんとは新井林くんのことが好きだったんでしょとか、最近男子に無視されているのがつまらなくて、一生懸命ちょっかい出しているんでしょとか、あと」

 僕の方を見た。

「佐川さん、私のこと軽蔑しないでくれますか」

「約束するよ」

「本当は、私みたいになりたかったんでしょって」

 のどのところでうっと何度もこみ上げるのをこらえていた。相当、言うのが辛かったんだなって僕は思った。

 ずっと言いたくてもいえなかったことが多すぎたんだ。きっと佐賀さんは。

「私、梨南ちゃんみたいに成績よくないし、泣き虫だし、可愛くないけど、でも友だちはたくさんいたんです。男子も女子もたくさんいたんです。先生も私のことみんな好きだって言ってくれました。けど、梨南ちゃんはそうじゃなかったんです。一番物知りで、可愛くて、お姫様みたいだったけど、男子からも女子からも、先生たちからも笑われてたんです。うちの母が良く言ってました。梨南ちゃんはふつうの子じゃないから、親切にしてあげるのよって」

 ──親切にしてあげる、か。

 言葉の奥に苦いものを感じてしまった。風邪をひいた時に飲ませられた、オブラートに来るんだ漢方薬みたいなものだった。

「だから、女子たちは梨南ちゃんに『親切』にしてあげただけなんだってこと、教えてあげたんです。私の思い込みじゃないと思います。だって、この前の同窓会の時も、クラスだった女子がみんな言ってたし。先生も言ってたし」

 大きく深呼吸して、今度はガラスを真っ正面から見据えて、

「私、いろいろ考えました。梨南ちゃんは私を無視しているけど、本当は私みたいに男子たちと仲良くしたかったこと、わかってました。六年間、梨南ちゃんの周りには『親切』にしてあげたいという人ばっかりで、本当のことを言ってくれる人が、今でもいないんです。梨南ちゃんのことを大切にしてくれるのは立村先輩しかいないのに無視しちゃって、関崎さんとか新井林くんとか、手の届かない人ばかり追いかけてるんです。小学校三年の時、クラスで特殊学級の教室を一緒に掃除する決まりになっていたんですけど、梨南ちゃん、そこの子にはものすごく人気があったんです。ずっと壁に頭突きしていた子には、黙ってくっついてあげたり、同じことばかり話してうっとおしい子にも付き合ってあげたり。いつも梨南ちゃん、そういう子たちには好かれてたんです」

 ──いるんだ、ああいう人が好きな奴が。物好きだよなあ。

「だからみんな言ったんです。梨南ちゃん、本当はそのクラスにずっといたほうが楽しいんじゃないかって。うちのお母さんも言ってました」

 なんだか意外だった。実は杉本さん、人によってはいい人だと思われるのかもしれない。佐賀さんや健吾くんには迷惑なことでも、特殊な好みの奴にはには親切に感じられることもあるらしい。

「でも、梨南ちゃんそれ聞いてものすごく怒ってました。せっかくそういう子たちが懐いてくれているのに、逃げたりするんですから。逃げても逃げても、その子たち、梨南ちゃんのことが大好きだから離れなくって、結局、あきらめて一緒に遊んであげてたみたいです」

「まるで、立村みたいにか」

 大きく頷いた。

「梨南ちゃんにはあの子たちと同じような立村先輩の方が向いてるんです。どんなに逃げても嫌っても、立村先輩だけは必死に守ってくれてます。ほんとは梨南ちゃん、そういう人たちと一緒にいる方が幸せになれるんだと思います。新井林くんや関崎さんのような人は、向いていないんだと思うんです」

 ──おとひっちゃんかあ。

 学校祭三日目の座談会挨拶の、おとひっちゃん爆弾発言を思い出した。

 自分の立場を犠牲にしても、すべてをかけて勝負するところ。僕ならもっと要領よくやるけどあえて玉砕勝負するおとひっちゃんが、僕は好きだった。

 そんなおとひっちゃんと、バスケ部の花形・健吾くんと重ねてくれているのが、僕はたまらなく嬉しい。杉本さんにはもったいない相手だって、言ってくれている。

「おとひちゃん、ほんと、いい奴なんだ。ちょっとばかだけど、でも本当にいい奴だよ」

 僕は繰り返した。言葉の裏には隠しておいた。

 ──杉本さんなんかには、やれないよ。あいつを。


「立村先輩がなんで梨南ちゃんのことをあそこまで好きなんだろうって不思議に思っていたんです。去年の十二月くらいにその理由がわかりました」

 さらに佐賀さんは話してくれた。

「立村先輩はふつうの人よりも、数学の能力が劣っているんだそうです。健吾が言ってましたし、先生たちもみな知っているみたいなんです。うちのお母さんに聞いたら、生まれつきの障害ってのがあって、一生直らないそうなんです」

 ──そういえば、指使って計算していたって言ってたよな。

 総田が確か、話していた。

「たぶんですけど、梨南ちゃんのことを本当に理解できるのは、そういう風に梨南ちゃんと同じ思いをした人でないとわからないのかもしれないって思いました。立村先輩、学校では女子に物笑いにされてる人だし、梨南ちゃんと同じようにいじめられていたらしいって聞いてます。だからなおさらなんじゃないかって、思うんです。だから梨南ちゃんを守ってあげたいって思うんじゃないでしょうか。さっきも私と梨南ちゃんが話をしていた時、立村先輩が割り込んできて私に帰るように言ったんです。その時、梨南ちゃんは立村先輩に『同じ病気じゃない』って言ってました。私、それが梨南ちゃんの気付いていないとこなんだって思ったから言ったんです。立村先輩しか、梨南ちゃんを本当にわかってくれる人はいないし、好きになってくれる人なんていないって。梨南ちゃんとおんなじ経験して、同じこと考えている人はあの人しかいないのよって。関崎さんみたいな人は梨南ちゃんの手には届かないのよって。健吾……新井林くんと同じことになるわよって」  

  また、名前を呼び捨てにした。気を遣っているんだろうけれど、何かの拍子でぽろっとこぼれる。僕が顔をしかめたのを読み取られたのは情けない。

「ごめんなさい。けど私、関崎さんのように成績が良くて、運動神経抜群でって人、梨南ちゃんには向いていないと思うんです。梨南ちゃんが憧れている人はきっと健吾……新井林くんみたいな人かもしれません。でも、そういう人にはどんなに努力しても、嫌われることしかできないんです。私、それ、七年間見ていていやってほどわかったから、だからはっきり」

「いいよ、もう、そんなこと忘れたほういいよ。佐賀さん」

 女子トイレか、廊下か、その辺はわからない。佐賀さんの持っている力をすべて尽くして、杉本さんに懸命に訴えたんだろう。

「評議委員を来年私がやるってことも話しました。担任の先生にはみんな話してあるし、了解ももらってるって。そうしたら梨南ちゃん言いました。『私の後ろずっとくっついてきたくせに、なにができるっていうの』って」

「それはひどいよな!」

「いいえ、私、言われてもしかたないんです。でも、梨南ちゃんがもし評議委員になっても、男子にまたいやなことされて、女子たちからは物笑いにされるのが私にはわかるんです。そんな思いさせたくなかったんです。もし私が評議委員になったら、きっと男子たちはわかってくれて、梨南ちゃんをそっとしてくれると思うんです。新井林くんも協力してくれると思うんです。先生もこれ以上、梨南ちゃんに厳しいこと言わないでくれると思うんです。そして私が梨南ちゃんに、みんなが本当にどう思っているかをわかりやすく、わかるように説明してあげるようにすれば、もっと変わると思うんです。私、自信ないけど、でも」

「そんなに杉本さんにこだわるのってどうしてさ。俺、これ以上佐賀さんが傷つくのは損だと思うよ。無視すればいいんだよ」

 きっと言い返す表情に、僕は見とれてしまった。頬に橙色がふわあと差した。

「気に入らないからって無視することって、梨南ちゃんと同じことだと思うんです。私、おんなじこと、したくない」


 目の前にゆっくりと下りてきた、丸い太陽のかたまり。

 ガラスに跳ね返っている。佐賀さんは再びそれに目を映した。僕も追って見つめた。まぶしくなるのをこらえて見据えた。

「佐賀さん、俺のやったことって、それじゃ許せないかな」

「え? 佐川さんの?」

 おなかの中からどす黒い煙が立ち昇りそうで、ごろごろしてきた。

「あの、台本のこと。俺はもしかしたら、杉本さんと同じことしてたのかなってさ」

「でもそんな」

 うまく言えない。佐賀さんがどうして杉本さんをあそこまでかばおうとするのかわからなかった。せっかく習いたかったピアノを、嫉妬に巻き込まれたくないからという理由でエレクトーンにした惨めさ。自分が気に入っているピンクのノートを、いやみ言われてしまったから使えなかった寂しさ。いろんなことがいっぱいあったんだと思う。そんなことされても、きっと佐賀さんはがまんしてたんだろう。杉本さんはいい子なんだと言い聞かせてきたんだろう。でも、本当は大嫌いだったって言っていたじゃないか。だから復讐させたかった。言いたいこと言って傷つけて、ざまあみろと笑ってほしかった。でも佐賀さんは結局、杉本さんを「かわいそう」という理由でかろうじてとどめを差さずに帰ってきた。

 ──気に入らないからって無視することって、梨南ちゃんと同じことだと思うんです。

 ──私、おんなじこと、したくない。

 僕のしたことって、杉本さんと同じことだったんだろうか。

 佐賀さんがしたくなかったことを、無理やりやってしまったんだろうか。

 言わずにはいられなかった。

「あれは、杉本さんに読ませるつもりだったんだ。あそこまで自分のしたことをつぶさに書いてあれば、きっとあの人も反省して、佐賀さんに泣きながらあやまるんじゃないかって思ったんだ。けどさ、俺、そんなことする必要なかったんだね。佐賀さん、いつか俺みたいに強くなりたいって言ってくれたよね。そんなことないよ。佐賀さんの方が俺なんかより、ずっとずっと強いよ。あんな時代錯誤のお涙頂戴劇なんて読ませなくたって、佐賀さんは杉本さんをこてんぱんにやっつけちゃったんだ。思いやり持って、吐いてしまうくらい具合悪くさせてしまってさ」

「いえ、たぶん梨南ちゃんもともと具合悪かったんじゃないかなあって」

「かもしれない。けど、佐賀さんがまっすぐ立っていて、正しいことをきちんと話していたから、あんなふうに杉本さん取り乱して泣きそうになったんだと思うんだ。どんなにヒステリーを起こしても、佐賀さんは全然動じなかったよね。俺、それがすごいと思うよ。あんな台本のいじめられっ子がわざとらしい感動的台詞連ねているけど、そんなのとは全く関係ない。今ここにいる、佐賀さんの方が誰よりも強いんだ。だから俺」

 咽から出てくる言葉は止められなかった。太陽に向けていた目がお互いぶつかり合い、痛くなった。

「佐賀さんにこれからも、交流会に関わってほしいんだ。杉本さんのことなんか抜きで、おとひっちゃんのことなんかどうでもいい。それだけの力、持ってるんだ。自信もって、評議委員になって、また水鳥中学に来いよ」

 ぼろぼろに崩れた目のふちと口元で、また泣いてしまうんじゃないかって気付いた。こんなこともあろうかと、ちゃんとティッシュを渡した。手に取らないで顔を覆った。目だけ出していた。

「佐川さん、私もわかんない」  

  小さくささやいた。

「どうして私、佐川さんの前だとこんなになっちゃうんですか。私わかんない。どうしてそんなに私のこと、わかるんですか」

「どうしてって言われても」

「どうして佐川さん、青大附中に来てくれなかったんですか」  

──成績追いつかないって言えないよ。

 太陽の沈むのを眺めていた。烏の影が目の前の教室に映っていた。

 泣き止むまで物思いにふけろうと思った、その時だった。


「頼む、会わせてくれ」

「立村、落ち着け、とにかく俺の話を聞いてくれ」

「直接話をしないといけないことだってあるはずだ。悪い、入らせてくれ」

 問答しているのが聞こえる。ひとりはおとひっちゃんだってすぐわかる。あせっているから。言い方はきついのに冷静なしゃべりなのが立村だろう。

 部屋を借りたこと自体はおとひっちゃんも知っている。でも佐賀さんと一緒にいるところを見られたらしゃれになんない。

「立村先輩がいるんですか」

 ふうっと顔を上げ、両目をこする佐賀さん。あどけなかった。

「うん、おとひっちゃんと一緒みたいだ。俺に用があるみたいだ」

 さっさと僕が出て、立村の用事を聞いてやるのがいいのかもしれない。おとひっちゃんの慌てぶりが気に掛かる。そんなにやばいことを僕はしていないはずだ。それとも、杉本さんともうひとりの女子がいなくなったから探しているのだろうか。僕が悪いこと、何かしたっていうんだろうか。

「とにかく出てみる。大丈夫だよ。俺、佐賀さんがここにいること、言わないからさ」

 背筋がぴくぴくするのを隠して、僕はテーブルの横をまた、すり抜けた。

「どうしたの、おとひっちゃん。あ、さっきはどうも」

 中に入れるわけにはいかない。佐賀さんが物静かとはいえ、気付かれないとも限らない。立村の表情はそれほど荒れていなかったので僕も少し気を楽にした。おとひっちゃんだけがひとりで焦っている。

「雅弘、お前何かたくらんだのか!」

 立村よりもエキサイトしているおとひっちゃん。

 思いっきりとぼけることにした。

「何をって、何をさ」

「な、そうだろ、お前何もしてないよな。何も後ろめたいことしてないよな。そういう奴じゃないよな!」

 力をこめておとひっちゃんは僕に吸い付く。隣りの立村はやはり、蝋人形の静かな佇まいのままだった。

「当たり前だよ。あの、で、俺に何か用? 今、片付けていて忙しいんだよ。おとひっちゃん、あとで連絡するよ。総田たちも片付け大変なんだろ。早く戻りなよ」

 そらぞらしく続けた。背中のドアはしっかりと閉まっていた。

「ああ、な、わかっただろ、立村。お前の気のせいだと思う。だから」

 どもりつつおとひっちゃんは立村を階段の方へひっぱり出そうとしている。背丈からするとおとひっちゃんの方がずっと高いし、体格だってがっちりしている。腕をひっぱったら蝋人形、一発で折れるだろうに。折れなかった。動かなかった。ただ黙って僕を見つめていた。コートは着ていない。抱えている。

「中で話をしたいんだ。少しだけでいい。入っていいか」

「困るよ。ここは水鳥中学なんだよ。青大附中じゃないんだよ」

 よけいなことを言い出したおとひっちゃん。本当にたまったもんじゃない。

「雅弘、話だけ聞いてやれ。立村も一度聞けばわかるだろ」

 しかたない。手っ取り早く済ませるか。佐賀さんは窓辺だから、戸口付近だったら気付かれないだろう。

「いいよ、けど椅子ないから、入るだけだよ。水鳥中生しか見せちゃいけない本だってあるんだよ」

 立村は頷くと、黙って戸をひいた。よかった。薄暗いから佐賀さんの気配は感じられない。


 僕が背を向けたまま、立村に向き直った。おとひっちゃんが後ろでむっすりとにらみつけている。僕と、立村の背中と両方をだ。

 まず見抜かれているとは思わないけれども用心に越したことはない。ふんと鼻で笑うようにして見上げた。

「早くしてほしいんだ。暗くなっちゃうから」

 立村は黙って、かばんから何かを取り出した。一度おとひっちゃんの方を見て、戸が閉まっているかどうかを確かめるように手を伸ばした。ページを扇状にぱららと広げ閉じた。

「この台本に手を入れたのは、佐川くん、君だって聞いたんだけどさ、本当なのか」

 やはり腰砕けの蝋人形。言い方は静かだった。かんたんに言いくるめることができる。

「うん、今日も話に出てただろ? 青大附中のビデオ演劇みたいなことを、うちの学校でもできないかなっておとひっちゃんと総田が話し合ってて、俺も手伝えたらなってことで用意したんだ。けど、青大附中みたいに『奇岩城』とか『忠臣蔵』とかやったら大騒ぎになって、結局先生たちからやめろって言われるだろ。だから、ちょっと臭いかなあと思ったんだけど、先生受けしやすくて、話もギャグにできるような内容にしたんだ。だよね、おとひっちゃん」

 おとひっちゃんの言うことは信じそうだ。この男。

「それはさっき聞いた」

 立村の表情は変わらない。静かにページをめくった。

「聞きたいのは、誰から元ネタを手に入れたのかってことなんだ」

「いや、噂だよ、噂。青潟でこういうことがあったんだよってこと、先生たちが話していたからね」

 徹底的にしらを切る。冗談じゃない。僕を信じてくれるおとひっちゃんには悪いけど、今はうそつきになるしかない。

 僕の背中にいる、あの子のために。

「似た話を別の奴から聞かせてもらったことがあるんだが、それは青大附中からの情報なんてことはないか」

 ──なるほど、別の奴なあ。

 全く動じるようすもなく、淡々と尋ねつづけるのはどうしてだろう。焦るようすもなく、ただページをめくったまま立ち尽くし、僕を見つめるだけだ。見据えるのではなく、自然に、なんも考えてないって顔をした。

「さあ、そうかもしれないけど、俺も学校名まで聞いた記憶ないしさ」

 あらためて立村の顔を見上げた。僕よりは背が高いんだと初めて気付いた。きちんとネクタイ締めているし、崩した着こなしをしていない。きわめて優等生って顔をしている。手も顔も、おとひっちゃんと比較して露骨に白さが冴える。

「いや、間違いだったら申しわけない。この前うちの学校に来てくれた時、会えなかったから代わりに誰かへ伝言してくれたのかなと思ったんだ。俺の知っている話を、きっと青大附中の別の誰かから聴いたんだろうなと思っていたから」

「え? 俺行ってないよ」

 僕が立村と顔を合わせたのは、「交流準備会」一度だけだ。おとひっちゃんとセットになって並んでいた時だけだ。

 今日を含めて、二回目だ。そんなため口で質問されるような付き合いじゃないはずだ。

「ほら、校門で待っていてくれたことあっただろ? うちの学校の友だちが気付いて教えてくれたからさ、すぐに行ったんだけど、一足早く、うちの新井林たちと出て行ったからさ。ちょうど後ろ姿だけ拝ませてもらったんだ」

 立村の唇がほころんだ。薄く、かすかに。おとひっちゃんには気付かれない程度に。続けた。

「あとで新井林呼び出していろいろ聞いたんだけどさ、あいつも口が堅くて、なかなか教えてくれないんだ。プライベートのことはあまり聞く気もなかったからまあいいかとは思ったんだけど、今日少しあいつに頼まれていたことがあったしついでにさ」

 ──健吾くんに頼まれた?

 猛烈に速く頭の中が回転を始めた。ねじが巻かれていく。何か、見落としていたものがあったのだろうか。わかんない。僕は慌てておとひっちゃんに合図を送った。早く、こいつを連れ出してほしい。けどおとひっちゃんはどまじめ顔で突っ立っているだけだ。立村だってきっと、わからないはずだ。まさか、あの日のことか。三人で『リーズン』の階段椅子でひたすら語った時のことだろうか。思い当たる節がある。隠したい。言えない。だけど、目の前の蝋人形は手を緩めない。


「俺もあまり恋愛沙汰とかわかんないけどさ。新井林、かなり心配していたらしいんだ。いきなり同級生の女子を代行にするなんて勇気いることだしな。一応さっき、報告するために電話かけてみたんだけど、やはり案の定なんだ。俺も誤解を招くようなことをあいつに伝えたくないから、きちんと確認だけ取っておこうかなと思ってきてみたんだけどさ」

 言葉が乱れず、さやさやと。静かに続いた。

「もしかしたら、もしかするかもな、とは思っていたんだが、やっぱりそういうことなんだな」

 ここには佐賀さんの荷物なんて見えないはずだ。影も形もないはずだ。あの棚の影に黙って座っているはずなんだから。

 ──振り向いちゃいけない。

 僕は気を張って首を振った。きわめて自然に振舞おうとした。蝋人形の目にどういう風に映ったかはわからないけれど、僕がおとひっちゃんや総田にしていることと一緒だった。

「なんだよ、もしかしたらもしかするかもって」

「エレクトーンの話、よくここまで本当のこと聞き出せたなって思ってさ」

 立村の目がゆっくりと僕の肩を透かしていった。棚から洩れる夕陽がかすかに洩れている。影なんて映っていないだろうか。でも佐賀さんはちゃんと帰った振りをしていたはずだった。

「エレクトーンのことってなんだよ。ピアノよりも今時っぽくしたかっただけなのに、なんでだよ」

 入れちゃいけない。どんなに攻められても僕が倒れるわけにはいかない。堤防にならなくちゃいけない。

「立村、どういうことだ? エレクトーンって」

 相変わらず緊張感のない発言のおとひっちゃんがいる。この時だけは助けてほしかった。

「あのさ、もうこのくらいでいいかな、俺ほんとに急いで帰らないと家の配達があるからね」

 僕が一歩おとひっちゃんの方へ踏み出した瞬間。奴も僕に一歩近づいた。



 思わずえびぞった。左の頬がばしんと響いた。鼻がひんまがりそうになり、一度わおん、と鳴った。

 目の前には、すっかり雨漏りのにじみ出た天井。かろうじて背中のテーブルに腰を打ちつけて倒れずにすんだ。しっかと後ろのテーブル端を握り締め痛みをこらえた。腰と頬と耳と目。腰がぬけたみたいだった。立っていられない。とうとう一発ストレートをかました蝋人形の前にへたり込んでしまった。二発目は来なかった。

「立村、やめろ、やめてくれ!」  

  おとひっちゃんが渾身の力を振り絞り、立村の両手首を押えていた。

 何度か利き腕の方を動かし、振り放そうとしたけれど、おとひっちゃんに腕力はかなわなかったらしい。あきらめ、なるがままに振り上げた手を下ろした。後ろのおとひっちゃんときたら血相変えてるじゃないか。ぺたんと座ったまま、僕は半ば冷静にふたりのもつれ合うのを眺めていた。耳鳴りと鼻血がうっとおしいと思いながら。佐賀さんのことはなぜか考えなかった。ただ、痛みに酔っていた。

  ──あれ、おとひっちゃん、どうしたんだよ。なんで俺の前に立ってるんだよ。なにするんだよ。

 もう反抗するのをやめた立村がうつむき加減で僕の顔を射た。 さっき僕の頬を拳骨で殴り飛ばした時とおんなじこぶしが、ゆっくりと緩んでいった。殴ったばかりでまだ、あいつも余韻を覚えているんじゃないかって感じだった。手を離しておとひっちゃんはするっと僕の前に立った。学生服が擦れててかてかだった。立村の姿が隠れて見えない。こんな風にしておとひっちゃんは、小さい頃僕をかばってくれたっけ。だんだん緩やかにひいていく耳鳴り。耳の穴をかっぽじった。ゆっくりおとひっちゃんが腰を曲げ、僕の前に座り込んだ。正座した。

 ──おとひっちゃん、何するんだよ。

 言葉になって出てこない。立村と正面向かい合い、お白州でご沙汰を待つ悪役たちみたいに両手をついた。

 ──なんでだよ、おとひっちゃん、なんで土下座してるんだよ。

 左肩越しに僕は立村の視線先を追った。さっきまで静かだったのに、いきなり丸い目できょときょとしている。

「立村、勘弁してくれ。俺の一生の頼みだ。どうかこいつを許してやってくれ」

「別に関崎、お前を責めているわけじゃないよ。俺はただ」  口篭もり、それでも突っ立ったままの立村は、僕の方にまた冷たい視線を浴びせた。奥の窓辺をまたちらっと眺め、

「そんなにあの子が目障りか」

 凍りつきそうだった。今まで僕の前にいる立村は、蝋人形で火にあぶったらすぐに解けてしまいそうな男だった。ぽきんと折れてごみ箱に捨ててはいさようなら、そんなタイプだった。健吾くんのように強烈な力もなく、なんとなくぼんやりしている昼行灯にしか見えなかった。なのに、どうしてか今はあいつの視線で動けなかった。言葉も出ない。耳鳴りが消えていったのに、 「あ」という言葉すら発することができなかった。

「雅弘は、決して悪い奴じゃない。なんか理由があったはずだ。俺はそう信じてる。けど、お前の後輩を傷つけてしまったことは否定しねえよ。本当に、悪かった。俺が悪かった」

「だから関崎、お前は悪くないと言っているだろう」

「なんでもする。こいつをこれ以上責めないでやってくれ。雅弘には後で俺がきちんと話をつける。俺も、できることはする。お前の言う通りにする。条件は飲む。だから、頼むこいつをこれ以上、たのむ」

 おとひっちゃんが土下座していた。両手を突いて、尻を高く突き出すようにして、立村の足下に這いつくばり、何度も同じ言葉を繰り返した。

「頼む、こいつを許してやってくれ。条件は飲む」

と、そればかり。呪文のように。

「おとひっちゃん、いいよ、俺が悪いんだ」

「黙ってろ!」

 振り向いたおとひっちゃんの目を見た瞬間、僕は悟った。

 ──おとひっちゃん、本気だ。

 学校祭三日目座談会の演説でいきなり見せた、ぶっちぎりの表情。

 僕が、ことの及ぶまでの間、読み取ることのできなかった感情。  おとひっちゃんの怒りは、本物だった。

 ──やばいよ、まずいよ、どうしよう。

 目の前で冷たく跳ね返す立村よりも、僕にはおとひっちゃんの瞳の方が怖かった。


 夕暮れ色が床に四角く刺さっていた。窓辺の影は本棚と散らばった本くらいか。 歯に麻酔かけられたみたいに頬を抑え、横目で床を見下ろした時だった。

 窓ガラスの薄い斜線と一緒に、かすかに映る人影らしきもの。覗き込んでいる。

 ──まさか!  

 立村のちらちら眺めている本棚の陰には、束ねた髪の毛の一番高く立ったところがちらついていた。


 とぼけたい、とぼけられない。僕の負けだ。

 本棚の陰から覗いていたのだろう。 光の加減でそのまま姿が影になって浮かんでしまうなんて、気付いてないのだろう。

 立村と、おとひっちゃんがそれを見つけてしまったってことだろうか。少なくとも立村の視線は、ふにゅふにゅっとしたふたつに束ねた髪の影を捉えていた。

 ──ちくしょう! なんでだよ。どうしてだよ!


「わかった、関崎。それなら条件をひとつ飲んでくれるか」

 立村はおとひっちゃんを見下ろし、それからしゃがんだ。僕の方を見はしなかった。

「今から、用務員室に連れて行ってほしいんだ。一緒に来てほしい」

 ──用務員室?

「他にはないのか?」

 うつむいたまま、おとひっちゃんはくぐもった声で尋ねた。

「ないよ。何度も言っているだろ。関崎は悪くない。手を先に出した俺が悪いだけだ」

 そして僕の方に向き直り、立ち上がった。見下ろした。おとひっちゃんに話し掛けていた時とは声音も変わっていた。

「後ろにいる人に伝えてくれ。今度こそ、きちんと帰ってくれとな」

 唇をかみ締め、数秒置いて、言葉を選んでいた。

「手を先に出した俺が悪かった。申しわけない。あんたたちのことは、誰にも言うつもりはない。あの子のことで、水鳥中学には迷惑をかけないようにするからその点は安心してくれ。ただ、これだけは覚えていてくれ」

 おとひっちゃんに立村は手を伸ばした。手を取って立ち上がった。僕の方を振り向いたおとひっちゃんの顔はなんだか泣きそうだった。先に引き戸を開けて立村は、吐き捨てるようにつぶやいた。僕にもう一度、ストレートの言葉を投げつけた。

「目障りだってわかっているさ。けど消えるわけにいかないんだ」

 

 立村が先に出た後、おとひっちゃんも続こうとした。僕に振り返った。

「雅弘、俺が戻ってくるまで、ここにいろ。いいな」

 僕にはわかる。おとひっちゃんが口先で脅しているだけなのか、それともただ今頭の中が完全にはちきれているのか。親友として十年以上付き合ってきた仲なのだ。わからないほど、僕はばかじゃない。ここにもうひとり、誰かがいるから、あえて何も言わないだけなんだってことも。

 ──ここで殴らないのがおとひっちゃんの情けなんだってことも。  


 戸が閉まり、僕は立ち上がった。まだ左の頬がはれ上がったようでひりひりした。立村の奴、本気を出しやがった。手加減なしだった。それでもまだ動けるってことは、もともと腕力ない奴だったんだろう。おとひっちゃんだったら、今ごろ腰抜かしてへろへろな状態だろう。

 右側にふたつ結んだ髪型の影が映った。

「佐川さん、ごめんなさい、私」 

「俺の方こそ、ごめん。俺、守り切れなかった」

 涙目で僕の前に立つ佐賀さん。唇を震わせている。きっと僕以上に怖かったんだろう。まさか、立村に存在を勘付かれているなんて、思わなかったんだろう。ほんとだったら佐賀さんがもっと奥に隠れて物音ひとつたてさえしなければ、と思わなくもなかったけど、言ってはいけない。  

  それよりなにより、しなくちゃいけないことを、やらなくちゃいけない。

 おとひっちゃんが戻ってくるまえに。へたしたら、立村もついてくるかもしれない。

 それまでに、佐賀さんを学校から出さなくちゃいけない。まだ僕は逃げ道を探さなくてはならなかった。佐賀さん本人を見られたわけじゃない。あれは目の錯覚なんだと言い逃れることだってできるはずだ。立村はともかく、おとひっちゃんにはごまかしがきくはずだ。  

  僕は佐賀さんの手を取った。かばんごと廊下に引きずり出した。

「いいか、佐賀さん、今から俺の言う通りにするんだ。たぶん今、あいつらは用務員室に向かってる。なんでそんなところに行くのかわかんないけど、とにかく行ってるんだ」

 震えている。おびえている。おなかからむくむくと気合が立ち上ってきそうだった。

「俺が今から、職員玄関まで連れて行く。用務員室とは反対側だから、今ならまだ顔合わせないですむよ。そこでダッシュで靴を履き替えて、さっさと帰っちゃえ」

「でも、気付かれちゃったのに」

 またまた弱気になる佐賀さん。僕は声を張り上げた。打ち消したい。

「姿をそのまんま見られたわけじゃないだろ。立村が勝手に思い込んでいるだけかもしれないだろ。おとひっちゃんの方は俺がうまくやっておく。ここに佐賀さんはいなくて、もうとっくの昔に帰ったことにしちゃうんだ。いいか、青大附中に戻ってからも、それを貫き通せよ。ほら、エレクトーンのお稽古があるからさっさと帰っちゃったってことにでもしとくんだ」

「でも見られたのに」

 僕の方がそれは重々承知している。でも、ひっくり返すことくらいお茶の子さいさいだ。水鳥中学生徒会・影の天才参謀と呼ばれる僕が、せめてもの意地でやり遂げたい、たったひとつのことだ。

「とにかく、俺の言う通りにしろよ。時間がないんだ」

 腕をコートの上からつかんだ。服の厚みよりも腕の細さが指先からびりりと響く。

 廊下には誰もいないことを確認して、僕は階段を駆け下りた。佐賀さんを引っ張りすぎて、転びそうになってしまった。何度も顔をゆがめていやいやをする佐賀さんに、僕はめっとにらみ付け、職員玄関まで走った。

 用務員室は一階の生徒玄関脇だ。反対側だ。何の用があるのかは僕の知ったことじゃない。杉本さんとおかっぱの女子はとっくに帰ったはずだ。立村の目の錯覚だと信じ込ませてなんとか乗り切りたかった。でないと、佐賀さんが追い詰められる。

 いない。一階職員室前には、もう人気がない。

「何も言うな、とにかく行け!」

 すのこの上で靴を履き替え、またなにかを訴えたそうにして見つめる佐賀さんに僕は小さく怒鳴った。よけいなことしている暇あったら走ってほしい。わかっていたのかいないのか、佐賀さんはしっかり腰を折って礼をし、駆け出していった。自転車を引っ張り出しているところまでは見届けた。


 ──さて、どう言い訳するか。

 同じくらいのスピードで三階へ駆け上がった。図書準備室にまだおとひっちゃんは戻ってきていなかった。電気ストーブの電源を切り、椅子を一脚片付けた。僕ひとりがくつろいでいるだけ、といった風に演出した。もう窓辺には夕陽のかけらだけが差しているだけだった。カモフラージュ用の台本を置いて、空を眺めた。いつもここで、総田と川上さんはいちゃついていたんだろう。さっきまでいた佐賀さんと僕のように。いや、僕はいちゃついていたという認識ないけど、おとひっちゃんたちからしたらそう思われてもしょうがないだろう。

 ──ここに女子がいたってことがわかっただけだよな。けど佐賀さんだって保証はない。

 ──佐賀さんがここにいないんだってことを、なんとか証明しなくちゃ。

 いくつか方法はある。佐賀さんにあとで連絡を入れ、口裏を合わせておく。エレクトーンのお稽古でとっくの昔に学校から出ていた。だからここにいた女子は佐賀さんではない。立村評議委員長の勘違い。それによって一発張り倒されるなんて、なんかおかしい。被害者は僕だ。

 ということをおとひっちゃんに信じ込ませるのはどうだろう?

 相手は本当だったら、さっきたんあたりが一番いいんだけど、おとひっちゃんが動揺する可能性大だから、別の相手を考えてもいい。いや、おとひっちゃんの知らない女子、ってことにしたっていい。他のクラスの奴で、放課後、女子に呼び出されて告白されたってことを聞いたことがある。そのまんま、使わせてもらおう。 ふたつに束ねた髪型が佐賀さんのとだぶるかもしれない。そこをつっこまれるかもしれないけれど、ちょっと髪の長い女子だったら誰でもできる髪型だって言い逃れよう。見たのはおとひっちゃんと立村、そして佐賀さんだけだ。しかも立村は、水鳥中学に来たのが正真正銘、初めてだ。単に僕が、知り合いの女子とおしゃべりしていたところに因縁つけにきたという有様。加害者はあいつに入れ替わる。

 けど、別に僕は事件を大事にしたいわけじゃない。と言ってやろう。

 別に水鳥中学生徒会との交流を邪魔する気はないとも。

 その代わり、ストレートパンチ一発かませたことをネタに、ちょこちょことつついてやるっていうのはどうだろう?

 勘違いして、一年の女子の名誉を傷つけるなんて最低だとも。そうすれば佐賀さんも、青大附中で立村に言い返せるだろう。実質佐賀さんを守るため戦うのは健吾くんだろうけれども。この辺も後で詳しく、佐賀さんと打ち合わせすればいい。

  とにかく今は、おとひっちゃんに説明して、飲み込ませることだ。いつものことだ。難はない。

 背中で引き戸が静かに開いた。

 覚悟した。


 おとひっちゃんだということは、ばたばたした足音ですぐに聞き分けられた。

「雅弘」  

 低い声で、一言、呼ばれた。

 答えないで、おとひっちゃんの入る戸口まで出て行った。すっかり暗くて、立ちくらみした。ふらつきながら見上げた。

「あのさ、俺、さっきのことなんだけど、あれ誤解なんだ。立村の奴が間違えてるんだよ」

 おとひっちゃんは答えなかった。

「おとひっちゃんに言わなかったのはまずかったと思うよ。けど、名前は言えないけど、うちの中学の人で、ちょっと用事があって、ちょっとだけ、ほんとうにちょっとだけ話をしていただけなんだ」  

  返事が返ってこない。勤めてあどけなく、左のほっぺたをさすりながら僕は、目の前の黒いシルエットに話し掛けた。顔形が読み取れない状態だ。

「というか、名前、覚えていないんだ。三日前に、いきなり電話が来て、ふたりっきりで話をしたいから、場所用意してくれとか言われて。今日土曜だから、交流準備会のあとだったらいいかなって思って、ここに来てもらったんだ。やっぱり人前だとまずいってのがあったから。けど、あれは青大附中の評議委員長が言うような、人なんかじゃないんだよ。全くの別人だよ」

 どうして言い返さないんだろう。嘘つくなとか、黙れとか、いいかげんにしろとか、怒鳴らないのだろうか。おとひっちゃんはまだ、立村の言い分を信じきっているはずだ。どんな話を聞かされたのだろうか。そこんところを確認しないと次の手が打てない。はらはらしてきた。

「なのに、なんで殴られちゃうんだろうな。あいつ、手加減しなかったんだよ。俺のほっぺたすごい勢いで殴りつけたんだよ。誤解もいいとこだよ。たまたま、隣りに座ってた青大附中の人と話していたのが多かっただけでさ。ひどいよなあ。俺、本当だったらあの立村って奴にやり返したいよ。ひどいよ、きっと葉牡丹の子のことを身びいきして、俺がなにか悪いことたくらんだって思い込んでいるんだよなあ。俺、ちゃんと保健室に行くようにって勧めたしさ。ほんとはああいう子、俺大嫌いだけど、それでもちゃんと親切にしてやったつもりだよ。なのになんでだよ」

 突然おとひっちゃんが戸を開け放った。廊下の温度差ある空気で顔が冷たくなった。肩を掴まれて強引に引っ張り出された。廊下の三年用水飲み場まで連れて行かれた。手が冷たい。おとひっちゃんは真ん中の水道蛇口をひねり、目一杯流した。水がもったいないってくらい流れた。

「来い」

 短く、一言だけ。断れない雰囲気だった。しかたないので跳ね返る蛇口の前に立った。水流の音だけが廊下に響き渡っていた。隣りのおとひっちゃんはもういちど、蛇口をひねり直し、横に流れるよう水の方向を変えた。ぞうが水を吹き上げているのを横からみるような形だった。

 ──何するんだろう。

 疑問が途切れた。いきなり詰襟のあたりと脳天を両手で押さえつけられるようにして、蛇口に額をぴたりとくっつけられた。水が顔の中で空いているところ全てに飛び込み、僕は何度も首を振ろうとした。おとひっちゃんの腕力にはかなわないと分かっていても。痛い。冷たい。苦しい。

 息を止めるぎりぎりのところで、おとひっちゃんは襟を引き上げてくれた。口と耳に入った水を吐き出し、しばらく咳き込んだ。前髪横髪、見事にずぶぬれだ。制服の胸あたりも、おなからへんもすべて。

「何するんだよ! ぶっ殺す気かよ!」

 めったに出ない罵り文句が飛び出した。おとひっちゃんに使ったこと、一度もない。  

 おとひっちゃんは黙って水道の蛇口を締めた。濡れた手を数回振って、乾かすそぶりをした。

「雅弘、正気に戻れ。頭を冷やせ」

 それだけ言い残して、おとひっちゃんは背を向けた。  


 ──おとひっちゃん、俺の言うこと、全然信じなかった。

 ──いつもだったら一発で騙されたくせにさ。  

 僕は前髪だけもう一度雫を絞った。さっき立村に殴られた場所に冷たく染みた。

 腕で顔をこすりながら鏡を見た。青いあざが頬の上に少しだけ残っていた。


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