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図書準備室は総田の言うとおり、ほとんど廃墟だった。なんでこういう部屋が残っているのか不思議だ。一応、掃除当番は割り振られているらしいけれども、見えるところだけ適当にほうきではく程度らしい。テーブルの上に本棚が積み重なっている。身体をかがめれば十分姿を隠すことができる。もちろん食べ物も持ち込んで平気だ。唯一心配なのは、間違って南京錠を下ろされてしまうことくらいだけど、万が一のために総田にも帰りに一声かけてもらうよう頼んである。まあ、そんな心配はないと思う。佐賀さんと話をした後はすぐに学校から出て、また郷土資料館あたりに行けばいい。
──汚いよなあ。こんなとこ。 まあ僕も、こんなことやっていること、ばれたら違反カード切られるだろう。
今まで一枚しか出されてないんだから、ちょっとくらい多くなったって平気だ。
佐賀さんが来るんだからリスクは覚悟の上だ。
掃除をして、パイプ椅子を二脚用意し、本を全部重ね合わせた。もう誰も読まないような本ばっかりだった。さっさと片付けた後はすぐに玄関で、青大附中評議委員ご一同様をお迎えしなくてはならない。顧問の萩野先生には、僕が自主的に参加したいと申し出たということで、おとひっちゃんが話を通してくれた。去年の国語担当だったこともあって、すぐに萩野先生はOKを出してくれたらしい。その代わり、プリントを全部手書きでこしらえるという面倒な仕事を押し付けられた。なんでも、先生たちの都合でコピー機が使えないらしい。しかたないからガリ版を使うことになった。こういうことこそ、会計の川上さんとかを使えばいいのに、おとひっちゃんは僕にしっかり原稿を押し付けた。
「悪いな、雅弘。俺も一応は目を通しておいたんだけどな、総田の原稿だ」
──総田の奴、全部俺の内容を丸写ししたんだな。
「すっげえ真面目な台本見つけたみたいでなあ、あいつも珍しいよなあ。俺、驚いたよ。古い時代の学園ドラマみたいなんだけど、総田と川上がふたりでいろいろ考えたらしく、現代っぽくアレンジしたんだとな。萩野先生にはまだ見せていないんだが、たぶんあれだったら大丈夫だ。青大附中の連中もきっと驚くぜ」
おとひっちゃんが何も考えていないのは明白だ。あらすじもキャストも、ラストに「いじめっ子を救いにくる王子さま」が出てくるとこも、みんな僕の指定通り。もう少し、総田も考えたっていいのになって僕は思った。でもまあ、本気で演じるつもりのない台本だから、これでいいだろう。
総田にはあと、内川たちへ、若干の情報提供をしておくよう頼んでおいた。
この中のネタが、青潟市内の中学で実際起きた……青大附中とは言わないが……出来事であること。こういう人間をどう思うかを、道徳の授業みたいに真剣に考えるふりをすることとかを。
要は、杉本さんの前で、杉本さんらしいキャラクターのことを、おとひっちゃんおよび水鳥中学生徒会の人間は大嫌いなんだってことを、断言しちゃえばいいのだ。おとひっちゃんの正義感はたぶん、台本中のいじめっ子に当てられるだろう。かわいそうなのはいじめられっ子だと言うだろう。何も考えていない可能性はあるけれども、杉本さんだってそのくらいあてつけられたことは気付くはずだ。
問題は、逆恨みの恐ろしさってところだ。けど、大人じゃあるまいし、殺し屋を頼んだりするようなことはないだろう。
杉本さんがこれっきり、水鳥中学に顔を出さない、かかわりをもたないようになってくれれば、あとは八つ当たりだろうが逆恨みだろうが勝手にしてもらってかまわない。僕たちは全く手を汚していない。ただ単に、「演じるための台本をこしらえてみた」だけのことだ。
あとは総田と内川会長が頭を並べて、くさすぎる台本を一切合切やらないことに決めるかだ。総田のことだ、
「冗談じゃねーよ、さむいぼ立つぜ」
とばかりに、あっさり却下してくれるだろう。まあ悪いけど、一年の時に演じた「彦一とんち話」をそのまんまやってもらったってかまわない。どうせ僕たち、次期三年には関わりないことだ。
──佐賀さんが来る。佐賀さんが来る。生の佐賀さんに会えるんだ。
毎朝拝む真上のポスター。寝ぼけ眼だと、鈴蘭優の顔がぼんやり映って、佐賀さんのふわふわした感じに見える。
見つめていると、また変な気持ちになる。
貼ってからずっと、変な気持ちになるのを夜までがまんしてばかりいる。クラスの野郎連中がみんな、していることをしたくなるってこう言う時なんだろう。こっそり、雑誌を引っ張り出してきて社会勉強をしてみたり、試してみたりする。おとひっちゃんにはあまり話したことのない感覚だった。
──おとひっちゃんも、さっきたんのこと考えてこういうことしてるのかな。
なんか想像つかないけど、ありえないことじゃないような気もする。総田も川上さんのことを考えて、きっとこういう気持ちになったりしているんだろうし。口に出すことじゃないけれども、みんなが女子のことでひそひそ話している理由がわかるようになってきた。
──だって気持ちいいんだ。しょうがないよ。
もう一度拝み直した後大急ぎで服を着換えた。今日は授業が二時間あって、あとは二時間学校内のワックスかけだけだ 。
学生服もだいぶてかてかになってしまった。くさかったらいやだ。何度か外で両肩の縫い目のところを持って振った。
めったにいじらない頭も、少しだけ前髪をあげてみた。顔がべとべとしているのが気になる。
別におしゃれしているわけじゃない。やはり、今日は礼儀かな。健吾くんと話をするなら何にも気遣いしなくたっていいけど、やっぱり佐賀さんが来るんだから、しかたない。
──けど、ほんとに今日佐賀さんが来ること、内緒にしてていいのかなあ。
もちろん杉本さんを逃がさずに話し合いをすることが必要なら、それがベストだろう。でも、佐賀さんと杉本さんは同じクラスだ。健吾くんだってそうだ。うまく隠し切ることができるんだろうか。青大附中の事情はよくわからない。
僕はしばらくあれこれ想像してみた。天井の鈴蘭優ポスターを見上げて、うんと頷いた。
──佐賀さんだから、たぶん大丈夫だろうな。
おとひっちゃんとは声だけかけて教室に入った。二時間だけにせよ、授業があるのはかったるかった。三時間目からいよいよワックスかけに入った。いわゆる「うんち」と呼ばれる黄土色の練りワックスを、先生たちがぽつん、ぽつんと落としていった。それこそ、馬とか牛のふんみたいにだった。雑巾を片手に、少しずつなじませて拭いていく。のどにつんとくる匂い。おなかの中に何にも入っていないせいか、むかむかした。口を覆っても、わっくすの匂いでまた吐きそうになった。どうしたんだろう。いつもだったら平気なんだけどな。
「佐川くん、どうしたの。具合悪いの?」
さっきたんが近づいてきてくれた。
「ちょっとおえっときただけだよ」
「無理しないで保健室に行った方がいいんじゃないかしら。保健委員がいないなら、私がついていってもいいのに」
──そんな大げさじゃないよ。
いつもだったら、さっきたんってやさしいなって思えるんだけど、今の僕は意地でも倒れるわけいかない。邪魔だった。
「いいよ、なんでもないよ」
ワックスが膝について、たぶん匂ってしまうだろう。それもむかっときた原因のひとつだ。
よりによってなんでこんな、ワックス大掃除の日に、交流準備会なんてやるんだろう。だんだん考えてきていやになった。
──要するに、さっきたんとおとひっちゃんがくっついてしまえば一番いいんだよな。そうすれば、俺がこんなよけいなこと、考えなくたっていいのにな。全く、なんで俺にばっかりくっついてくるんだろ。さっきたんはおとひっちゃんで十分じゃないかよ。
なんでかわからない。ずっといい人だって思っていたさっきたんのことがうざったくなった。
あっちに行ってほしくなった。
「悪いけど、俺、ほんと具合悪いから放っておいてもらえないかなあ。ほんとに吐いちゃうかもしれないからさ」
「佐川くん、ごめんなさい、けど私」
まだしつこく寄って来るつもりなんだろうか。いいかげん僕も頭に来た。
「俺以外にもおとひっちゃんがいるだろ。おとひっちゃんだったらさっきたんにいろいろ相談したいことあるみたいだよ」
──まずい、言い過ぎた。
自分でも何を言い出したかわからなかった。僕はただ、さっきたんにあっち行ってほしかっただけだった嫌いになったわけじゃなくて。、ただ今は話をしたくなかったってだけだった。なんでおとひっちゃんのことなんか口走ってしまったんだろう。むしょうにいらいらしていた。
「今日もほら、おとひっちゃん困っててさ、しつこい青大附中の女子が来るからさ、逃げたくってなんないみたいなんだよ。もしさっきたんが一緒にいてくれたらさ、きっとおとひっちゃん助かると思うんだけどさ。俺、悪いんだけどそのことで今、頭一杯なんだ。具合悪いとかなんとか言ってる暇ないんだ。じゃあ」
──俺、やなこと言ってるよな。
おなかの中に寄生虫の大きいのが一匹いるみたいだ。言っても言っても言い足りない。
「佐川くん、ごめんなさい」
さっきたんは、とろりとしたワックスを雑巾の隅ですくった。背中を向けた。
──だから、おとひっちゃんとさっきたんはくっついてしまえばいいんだよ!
まだ吐き気はおさまらなくって、僕はずっとしゃがんだまま廊下の板目をこすっていた。だんだんつるつるてかてか光ってくる。今日具合悪くなるなんて絶対にいやだ。
机をもとの形にもどして、四時間目授業が終わってから僕はすぐに教室を出た。総田とおとひっちゃんに頼まれていた脚本を持って行った。生徒会室には総田を始めほとんど生徒会役員全員が揃っていた。おとひっちゃんだけいなかった。
「あれ、おとひっちゃんは?」
いつもだったら時間厳守でやってくるはずなのに。珍しい。
「ま、少しくらい大目に見てやれよってことだぜ」
直前までむすっとした表情だったのに、いきなり総田が川上さんと顔を見合わせてにやついた。内川会長も相変わらずのほほんとした顔でもって、
「やっぱり関崎先輩は、人気あるんですねえ」
──おとひっちゃん、何があったんだ?
これからおとひっちゃんの晴れ舞台「水鳥中学生徒会主催・青潟大学評議委員会との交流準備会」が行われるっていうのに。学校祭の時だって、おとひっちゃんはやらなくてもいいことを自分からばりばりやっていた。ライバル総田の仕事まで、鼻歌歌いながら片付けていたって話だ。おとひっちゃんは、燃える奴なのだ。
「いったい、何か変わったことがあったのかなあ」
「佐川、お前、知らねえのかよ」
意外そうに言うのはやめてほしい。なんでもかでも、裏工作するのが僕だなんて決め付けないでほしい。
総田は満足げににんまり、鼻毛を抜いた。
「お前でも知らないことがあるとはな。いやなあ、さっき、三組の生活委員さんが来てな」
──さっきたんが? 男子にも生活委員がいるのに、瞬時にさっきたんを連想してしまう僕も僕だ。
「関崎を呼び出して、連れていっちゃったんだぜ。いやあ、舞い上がっちまったなあ。あいつも、いったい何を考えているんだかなあ、おい、ほんとにお前、知らないのかよ」
しつこく、僕の入れ知恵だと思っているみたいだ。そう思わせておいたほうがいい、と判断し、僕は脚本の原稿を一式、置いた。
「じゃああとは、俺がガリ版印刷してくればいいのな」
──さっきたんがなんでおとひっちゃんを呼び出した?
佐賀さんのことばかり考えていて、頭の中がぼおっとしていた。さっきたんにひどいこと言ったなって気持ちになってきた 。
──おとひっちゃんのことを言うのはまずかったよなあ。
──あれを気にしたのかなあ。
さっきたんも鋭い人だ。はつかねずみみたいな表情がやさしくて、今までだったらほおっと落ち着く感じだった。でもある日から他の女子と全然変わんなくみえた。優しいし、親切だし、いい人だ。そこんところは変わってないけれど、いてもいなくてもいいって感じに最近はなってきていた。さっきたん見るくらいなら、鈴蘭優のポスターを見ている方がいい。
けど、おとひっちゃんとのつながりになにか関係があるとしたら黙って見過ごすわけにはいかない。
「じゃあ総田、悪いけど、俺、別のとこで印刷を片付けておくね」
「ああ、わかった。例のとこな」
総田にしか通じない言葉でもって、僕は合図をした。
掃除と隠し場所を用意した、あの部屋へ向かう。
図書準備室に入った。通りがかりの先生に
「今日、交流準備会の準備でこの部屋借りてます。すみません」
と謝っておいた。
僕は一応、成績悪くても先生うけがいいのであっさりと通った。真面目にしておいて正解だった。
インクで手がべっとりしてしまった。まだつめの中にワックスが入り込んでいたみたいで、紙の上に少し油が浮いてしまった。
ひとまずは青大附中評議委員連中プラス、水鳥中学生生徒会、あと僕の分をステイプラーで留めた。
僕の案通りにまとめられている「友情は音色とともに」という、読むだけでこっぱずかしい題名がどどんと目立つ。
元の題は「友情は歌とともに」だった。歌ではなく、ピアノにしたので、題名もそれにあわせて書き換えたのだろう。
思いついて、僕は「ピアノ」のところを思い切って「エレクトーン」に直した。
もう一度印刷し直してこようと決めた。
青大附中の人たちが来るのは昼ご飯が済んでかららしい。僕たちも生徒会室で最後の詰めを行いながら、やきそばパンを食べることになっている。顧問の萩野先生が飲み物だけ、差し入れしてくれるらしい。
僕は「エレクトーン」を書き直した後、もう一度椅子を並べなおした。窓辺にはジュースを並べられる程度の場所が空いている。あとで佐賀さんをここに連れてこよう。ちゃんと総田にもその辺言い訳しておこう。おとひっちゃんにばれないようにしておこう。
──おとひっちゃん、あれ、どうしたんだ?
二十分くらい必死に作業した後、もう一度生徒会室に戻った。まだおとひっちゃんが来ていない。
「なんでまだおとひっちゃんが来てないんだ?」
「ほらほら、玄関で青大附中連中をお迎えするんだと。ひとりでいいんだと」
「ひとりでって」
またまた総田が唇をぎゅっとゆがませて笑った。
「厳密に言うと、ふたりだな。なあ、内川」
「ふたり、です」
──さっきたんか?
お迎えは僕が担当してもいいなあと思っていた。いや、僕が行くつもりだった。
「え? 生徒会役員は全員席に付いていた方いいんじゃないかなあ。俺みたいな部外者の方が、案内係ってことになれば一番いいと思うけど。そういうの、決めてなかったのかなあ」
さりげなくいやみったらしく言ってみた。総田にはお見通しだったらしい。まだまだ腹に一物ある感じで、
「計画変更だってあっていいじゃねえかよ。ま、佐川、お前も陰でこっそり観察しろよな」
──計画変更ったって。
みんな僕の計画どおりだと思っているからこそ、詳しいことを教えてくれない。悔しい。しかたないので僕の目で確認することにした。
「職員玄関からだよね。会場は生徒会室だよね」
僕はあらためて確認しなおし、職員玄関まで走った。そろそろ、青大附中ご一同様到着時刻だ。一時三十分を予定している。
一階の廊下窓から見えるのは、赤茶色のつぶつぶがくっついた木の枝ばかりだった。
職員玄関の入り口は職員室の近くということで、かなり広々している。先生たちの何人かは今日早く帰るらしく、
「お、今日はお客様をお迎えか。佐川、がんばれよ」
と声をかけてくれる人もいる。早いうちに内申点稼ぎするのも、いいことだ。
週番の生活委員もいなくなった。土曜日の校舎は、運動部の連中が廊下をランニングしていたり、菓子パンを食ったりする程度で、先生たちもみな職員室でテレビを観たりしている程度。職員室の中って煙草臭いからあまり入りたくない。
総田から聞いたところによると、場所は生徒会室内。面子は予定よりも大幅に減って、立村評議委員長以下三人だという。男子、女子合わせて二人ずつ。その中に佐賀さんが入っているかどうかは不明だけど、健吾くんがいないことだけははっきりしている。
おとひっちゃんを探すと、職員玄関にたって、妙に硬直したまま突っ立っている。外はだいぶ明るくなっていた。雪が車の飛ばす泥はねで真っ黒に染まっている。土が出ているところは乾いていた。話相手は、さっきたんだろう。スカートが揺れているのが見える。
──さっきたんと話してるんだ。
ワックスかけの時の言葉を思い出した。僕としてはどうしようもなくいらいらしていて八つ当たりしちゃったけれども、きっとさっきたんは気にしていないだろうと思う。どうせあさってになったら忘れているだろう。
声が聞こえないのが残念だが、まあいい。ふたりを邪魔しないでやろう。
腕時計の文字が「13:30」と緑に光った。
そんな決意は、次の瞬間あっさり翻った。
「だからなんであんたがくるわけなのよ、はるみは評議委員と関係ないじゃない」
棒読みの女子声が聞こえてきた。仮にも職員玄関ですごむなんて自殺行為としか思えない。僕はあわてて玄関のサンダルをつっかけて、外に出た。
「申しわけありません。新井林くんの代わりで参りました」
敬語で全く意に介さず返事をしている、ふたつに結わえた長い髪。いつもの髪型よりも幼く見えた。よくよく見ると、薄桃色のリボンを長めに蝶結びにしている。丸めて編み上げたいつものスタイルもいいけれど、今日は一段と、守りたくなる。行動したくなる。
「どうしたんだ」
すでにおとひっちゃんがさっきたんを玄関の脇におっぽいたまま、割って入っている。
さすが、水鳥中学生徒会副会長。生徒同士のいざこざにも介入する。側でさっきたんは呆然としたまま、四人のブレザー制服連中を見つめていた。そっと隣りに近づき、僕はささやいた。
「何があったんだろう」
「青大附中の人たちよね」
僕の顔をそっと覗き込むようにして、遠慮がちにさっきたんが答えた。掃除時の八つ当たりがまだ、ひっかかっているらしい。ここであやまっておいた方がいいかな。でもタイミングがつかめなくて僕も黙っていた。
おとひっちゃんにひっぱられてブレザー制服集団は玄関の松の根元にかたまった。ため口叩いている相手は立村だった。相変わらず蝋人形顔している。申しわけなさそうにしながら、何度も頭を下げている。なにそうへこへこしているんだろう。挟むようにしてふたりの女子が寄り添っている。ひとりはおかっぱ髪、もうひとりは長くストレート。市松人形の不気味さが漂っている。立村に向かって、佐賀さんが視線をまっすぐ投げて、挑戦している風に見えた。
おとひっちゃんが立村に何度も話し掛けている。立村もおとひっちゃんと佐賀さんに小さな声で何かを言い返している。時折杉本さんをたしなめるよう、真面目な顔を見せている。もうひとりのおかっぱ髪女子が、杉本さんの側で肩を抱いて話し掛けている。
明らかに、揉め事だ。
他中学の揉め事に巻き込まれて行事中止、なんてしゃれにならないことしてほしくない。僕はさっきたんから離れてすぐに佐賀さんに近づいた。
「おとひっちゃん、どうしたんだよ」
おとひっちゃんじゃない。聞きたいのは立村相手にだ。
「悪い、内輪もめを見せてしまったな」
舌打ちし、立村はおとひっちゃんに答えた。決して、僕にではない。
「新井林からは聞いていなかったけれど、佐賀さんもいきなりで、とまどったりしないか? いや、来てくれたんだったら、別に参加するのは問題ないと思うよ。ただ」
言いかけたところ、即座に弾き返すような、棒読みの声に割って入られた。
「評議委員の集まりでありながら、なぜ関係のない人間が入るのですか。おかしいです」
「杉本、いいじゃないか。佐賀さんは新井林の代理なんだよ。四月からは他の委員会とか、有志とかも参加する可能性あるんだからさ」
「そうよ、ね、杉本さん、ちょっとびっくりしちゃったよね」
おとひっちゃんは杉本さんの方を見て、すぐに逸らした。話し掛けることをできるだけ減らしたい、そういうのが見え見えだった。目つきが怖くて、佐賀さんの方へ近づいてきている。つまり僕の隣りに寄ってきている。気持ちはわかる。
「でも、今日は評議委員会を招いていただいたということですよね。それっておかしいです。あの馬鹿男子が何を考えていたのかわかりませんが、なぜ、委員会にも関わっていない人が参加するのでしょうか」
全く動揺していない佐賀さんの表情、心地よい。
かすかに薄笑いすら浮かべていた。よくよく見ると、唇も桃色だった。耳もとに手を軽くやった時、爪がぴかぴかに光っていた。大人の人がするマニキュアみたいだった。
「新井林くんの代行だったら別にかまわないから、中に入れよ」
同じく、立村を促すおとひっちゃん。早くなんとかしてくれっていうのが見え見えだ。
「すまない、ほら、杉本いくぞ」
杉本さんに、心持ち優しい視線を向け、立村は二人並んで職員玄関へ向かった。おとひっちゃんは僕の方をちらっと見て、付け加えるように、
「今日は佐川も参加するし、別に生徒会だけの集まりじゃないんだ。だから、かまわない。顧問も最初だけ挨拶してくれるけれども、あとは任せてくれるってことだ。生徒会室に行こう」
あえて杉本さんには目を向けないようにしようとしている。話し掛けられるのが怖いんだろう。おとひっちゃんは何を思ったのか、おさげ髪のさっきたんのところへ近づいた。
「あの、もしよかったら、水野さんも、今日手伝ってくれると助かるんだけどいいか」
「え、私が? だって私生活委員だし」
「今日は準備会だから、できれば他の委員会関係の人にも参加してほしいんだ」
おとひっちゃん、言葉面だけはまっすぐだけど、思いっきりどもっていた。靴を脱いで来客用の靴箱に入れている青大附中連中にもはっきり聞こえただろう。
「雅弘も学習委員だけどいるしさ、いや、生徒会だけじゃだめなんだ。やはり他の委員会とも協力しあわないとだめだって思ってさ」
すっかり困り顔のさっきたんだった。おとひっちゃんと玄関でどういう話をしていたのかわからないけれど、いきなり親密な言い方をされても困るだろう。いったいなんでおとひっちゃん、こうも積極的なんだろう? いつもとは違う。浮ついている。僕は助け舟を出した。仲直りのチャンスだ。
「さっきたん、他の委員が俺ひとりじゃ落ち着かないし、よかったら来いよ」
ワックス時のいざこざが少しでも消えてくれればいいんだけど。さっきたんはそっと僕の方に近づき、なぜか佐賀さんの方を見た。両方見比べて、唇をきゅっと結んだ。
「分かりました。参加するわ。お願いします、関崎くん」
──なんで見るんだろ。やっぱり女子から見ても、佐賀さんは目立つんだなあ。
生徒会室までの道のり、おとひっちゃんは独り占めしたいだろう。気を遣って僕は、青大附中グループでひとり取り残されている佐賀さんに近づいた。おもてなしの心だ。気遣いだ。
「佐川さん、逢えてよかった」
他の連中に聞き取れない声で、僕の耳もとにささやいた。拍子にふたつに結わえた髪の毛がほおにふれて、ちくちく痛かった。鈴蘭優のポスターでこの髪型の奴、見たことある。ほしいな、となんとなく思った。
「帰ったらどうしようと思っていたんだ」
「大丈夫です。立村委員長がまずOKするって思ってましたし」
「それにしてもさ、ずいぶん青大附中の人、少ないね」
もう少したくさん来ると思っていた。
「あとでお話します。それもいろいろ問題があるんです。新井林くんが言うには」
前で三人語らっている立村その他ふたりを唇で指し示し、
「梨南ちゃんを連れて行くために、立村先輩が土下座して頼み込んだらしいんです。周りの人たちが嫌がるのを覚悟の上で、『今回だけでいい、一度だけ杉本を参加させてやってくれ』って。ものすごい覚悟だって新井林くん、話してました」
「覚悟いるのかなあ。ただ自分の好みだけだろ」
「だって、ここでごり押しなんてしたら、大変なんです。立村先輩きっと、自分が評議委員長から来期下ろされること覚悟の上でしているはずですもの。もちろん、新井林くんは指名されても受ける気ないと話してましたけれど」
聞こえないようにささやいていたつもりだが、いきなり立村が振り返り、僕の方を静かに見つめ、階段のところで尋ねた。
「これからどうやって行けばいいのかな」
──気付いてないな。
僕と佐賀さんは顔を合わせて目配せした。
「ああ、この階段を昇っていけばいいよ。青大附中みたいにきれいなとこじゃないけど、生徒会室って書いてあるからさ」
石炭ストーブを派手に焚いているせいか、生徒会室の温度は暑いくらいだった。わかっていたから僕は学生服のままだったけれども、コートを着込んでいた立村以下青大附中のみなさまは戸惑ったらしい。すぐにコートを脱いで、書類をまとめておいてあるダンボールの上に載せた。そこに置くよう総田が勧めたからだった。女子ふたりは戸惑っているようすだった。佐賀さんは問題ない、テーブルの下に押し込んでもいいと教えておいたから。青大附中みたいに、コートかけがあるわけではないんだから。
「これから水鳥中学生徒会主催の、青大附中評議委員会との交流準備会を行います。本日はわざわざ、ご苦労さまです。青大附中のみなさんとはこれから、いい意味での交流を深めていきたいと思っておりますので、どうかよろしくお願いいたします」
初対面の連中も多いと聞く。内川会長が緊張気味に、総田のこしらえた挨拶を読み上げた。しっかり、背中には後光が差している。おしゃかさまって感じだった。僕と佐賀さんは一番端の出入り口付近に座っていた。さらに隣りにはさっきたんも大人しく腰を下ろしていた。僕に話したそうな顔をしていたけれど、なんとなくよけいなおしゃべりしちゃいけないような気がした。
もっと言うなら、佐賀さんの隣りには杉本さんが大人しく座り込んでいる。奥側におかっぱ髪の女子、次に立村と続いている。水鳥中学生徒会連中はみな、部屋の奥を陣取っている。おとひっちゃんが向かって右側に、総田が反対側に、内川会長を守るような形で席に付いている。斜めから僕と佐賀さん……かどうかわからないが……とさっきたんを眺めて、にらんでいる。別にさっきたんを取る気なんてないのに。
顧問の萩野先生が立ち上がり、簡単に挨拶をしてくれた。後、ジュースとクッキーが先生のポケットマネーで……ちゃんと説明あり……振舞われた。おなかがすいていたので、まずはぱくぱくと食べさせてもらった。菓子パンだけでは辛い。さっきたんも僕の方をちろちろ見ながら、おそるおそるクッキーに手を伸ばした。 「おなか、すいてたの?」
真っ赤にならなくてもいいのに。さっきたんははにかみながら頷いた。
「佐賀さん、食べるか?」
「ううん、大丈夫です。私、学校でお昼をいただいてきました」
見ると、青大附中の連中はとりたててばくばく食いついているってわけでもないらしい。立村はおかっぱ髪の女子と二人、ひそひそと話をしている。杉本さんだけがうつむいたまま、佐賀さんを無視しているのが目立っていた。
顧問のいない中の交流準備会というのも珍しい。青大附中もそうだったのだけど、萩野先生も途中から席を立った。なんでも、三年で公立高校入試二次募集の準備があるのだそうだ。用事があれば呼び出すように、とおとひっちゃんに伝えて、生徒会室を出て行った。好都合だった。
先生がいる間はそれなりに、お互いの学校事情について説明したり……立村が全部その辺は説明していた。内容としては前回青大附中で話をしたことと変わらないので飛ばすけど……、春休みにはぜひ、バスケ部の合同練習試合観戦を行おうとか、六月以降にはぜひ正式な交流会を行おうとか、わりと硬い内容が中心だった。僕にとってはまだまだ関係のないことばかりだった。
例の中学演劇台本をそろそろ用意しよう。
図書準備室に全員分まとめてあるものを持ってきて、配ればいい。
おとひっちゃんにも、総田にもOKをもらっている。
──けど、何を考えているんだろうな、俺も。
隣りで黙ってメモを取っている佐賀さん。
健吾くんにどういう言い訳をしてきたんだろう。
あの「正々堂々大好き」少年の健吾くんが、もし僕の計画を知ったらきっと戸惑うか怒るかのどちらかに違いない。杉本さんのことを蛇蠍のごとく嫌っているのは共感するけれども、汚いことをするのはいやだって顔を、いつもしている。僕もそのくらいはわかっている。でも、そうしないと、水鳥中学の方に飛び火してしまう。佐賀さんも傷ついてしまう。
──けど、これってどうかんがえてもリンチだよな。
突然、気弱な気持ちになってしまう。反対隣のさっきたんが、思ったよりもクッキーを食べているのが意外だった。そんなにおいしいのかな。僕の分もあげようかな、と思って皿を差し出したら、佐賀さんも気付いたらしくその中に、自分の分をちょこんと載せた。
「ほら、おなか空いているんだったら、あげるよ」
また真っ赤になってうつむいてしまった。なんか僕も悪いことしただろうか。さっきたん、よっぽどワックスがけの時のことが腹立ったんだろうけれど、こっちだって仲直りしようとしているのに。またいらいらっと来た。
「いいよ、いらないんなら置いとくよ」
──勝手にすればいいんだ。
僕は言い捨てて、佐賀さんに話し掛けようとした。けど、佐賀さんもなぜか、隣りの杉本さんの方をじいっと見つめ、首をかしげていた。ちっちゃい子を見守る、お母さんみたいな顔だった。
「梨南ちゃん、大丈夫?」
なぜか一方向だけじっと見据えている杉本さんに声をかけた。だいぶ生徒会連中との語り合いも収まってきた頃だった。はっきりと佐賀さんの言っていることが聞き取れた。近くの僕だけじゃない、たぶん、内川も、総田も、立村も、おそらくおとひっちゃんも。
ちらっとにらみすえるようにして、杉本さんはまた無視した。
──無視するんだから、やめればいいのに。僕とだって話すること、あるのにな。
脚本のことについて、ちょこっと報告したかったのにだ。
佐賀さんはさらにはっきりと尋ねた。
「梨南ちゃん、お手洗い、したいんでしょ? 私が付き合ってあげるから、行きましょう」
ぐいっと杉本さんの眼が血走った風になった。唇を結んだまま、憎しみいっぱいににらみ返した。
いつもの棒読み口調で言い返した。
「何馬鹿なこと言ってるのよ。静かにしたら」
「だって、梨南ちゃん、学校にいる時から、お手洗い行ってなかったでしょ。さっきから時計の針じっと見ていたし。きっとお手洗いのこと考えているんだなって思ってたの。今のうちに行かせてもらった方が、あとで泣かないで済むわよ」
佐賀さんは妙にくっきりした発音で、生徒会室内に響くように言い張った。
「私が付き合ってあげます。すみません、杉本さんがお手洗いに行きたいそうなので付き合ってよろしいですか」
おとひっちゃんも総田も、別になんとも思っていない様子だった。そりゃそうだ。誰だってトイレに行きたくなることはある。抜けたって困らない。僕も後ろが通りやすくなるように、椅子の背を引っ込めた。川上さんが、
「トイレはね、二年四組の前にあるから、すぐわかると思うわよ」
総田の隣りに席を取っているのは、言うまでもない。男子連中は全く無視して話を始めている。僕もいつもだったらそれっきりのはずだった。でも。
──どうしても言い訳つかない理由で、杉本さんとふたりっきりになって、話をつけるって電話で話していたよな。佐賀さん。
──杉本さんがどうしても、逃げられない理由でってことか。
仕方なくしぶしぶ立ち上がり、うつむいた杉本さんを引き連れ、佐賀さんが出口へ出て行った。振り返り、佐賀さんは僕へ意味ありげな笑みを向けた。さっきたんも一緒に佐賀さんたちを見つめていた。
もう二年の教室に人はほとんどいないはずだった。
ふたりっきりで話をするにはもってこいの場所だ。
──佐賀さんの勝利が確定してから、始めようか。
僕はさっきたんが手をつけなかったクッキーをもう一枚、口の中で噛み砕いた。