潜熱
ぽっかりと、雲間に円形の青空があった。窓は防音のためか堅く閉じられており、外側は雨風に汚れて灰色がかっていた。足元には灰色にごく薄い緑を混ぜたような色と、くすんだ使い古しのジーパンのような色のタイルカーペットがチェック柄に敷き詰められていた。その中の一枚は角を持ち上げるように反り返っており、冷たい床が見え隠れしていた。
静かに腰を掛けた。錆び始めたパイプ椅子が三列、四十脚程度並んでいた。その中の最前列、左端の空が狭苦しく見える席だった。この部屋に来るのは初めてだった。
少女はピアノを弾いていた。この席からでは丁度少女の膨らみかけの稜線に左手の指先が隠されていた。しかし、ピアノの黒く静かな色は少女の左手を映していた。エンターキーを押すように跳ね、少女の指が止まった。
少女は楽譜の頁を一見乱雑に捲った。私に音楽の知識はないが、譜面に並ぶ撒かれた胡麻のような音符の並びが不思議と滑らかに見えた。その指先が冷たい白鍵を押し込むとき、肺か心臓かを引っ張られるような心地がした。
そのとき、止まっていた時計が動いた気がした。少女は女性というには若く、幼かった。ピアノの足とも見紛う足の、脹脛や踵には肌色を溶かしたタイツの色は、少女が歩く存在だと到底思わせなかった。
少女は楽譜を閉じた。次の曲は忍び足のような手癖で始まった。草原を舞う小鳥の囀りのような細かな仕草に、彼女の黒色の髪が微細に跳ねていた。
ふと、私は少女を感じたいと思っていた。少女の今にも折れそうなピアニストの指を一本一本握り、その鋭敏さを儚もうとした。少女の雨に濡れたような髪を食み、その艶美さを侵食しようとした。少女の崩れ落ちそうな華奢な胴を抱き寄せ、その脆弱さに陶酔しようとした。そうして少女の潜熱にこの身を溶かそうとしていたのだ。
少女の奏でる音は小説の一篇を綴るように私を江に誘い、海に招き、里へ呼び込んだ。私はついに息を止め、魂を引き抜かれたように少女の背中に立った。
時間だ、と少女は呟いた。最後の一音が空気に溶けた。少女はどこにもいなかった。