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六章ー19話

 乙葉は、湖に面したいつもの部屋にいた。

 

 あれからしばらく経って、惺壽が部屋まで呼びにきたのだ。


 大接近から大した時間は経っていない。

 一体どんな顔をしようと慌てふためくこちらを余所に、惺壽は、戸の向こうから外出を告げただけで、すぐに去ってしまったのだった。

 

 もちろん顔は合わせていない。

 しかし声はいつもとどおり淡々と飄々としていた。

 まるで何事もなかったみたいな態度だ。――それもそのはず。


(……いよいよ帰るんだわ)


 惺壽が出かけたのは、沼垂主を迎えにいくためだ。

 彼が天乃浮橋の番人を連れて戻れば、すぐにでも時空の狭間へと出発する。


 乙葉はセーラー服の胸元をそっと拳で押さえた。

 なんだか心臓がへんな脈を打っている。


 無事に中乃国にたどり着くことができるのか、もちろんそういう緊張もある。

 そうしてもう一つは、確実に、惺壽とさよならする時が迫っているということ。


(……気持ちを切り替えて。惺壽だってそうしてたんだから)


 つい先ほどのことなのに、なにもかも忘れたような惺壽の平坦さだった。

 いよいよその時が近づいているからだろう。気持ちにも態度にも、どこかで区切りをつける必要があるのは分かっている。


 それでもほんの少しの不安が渦を巻くのだ。

 本当に、乙葉とのことなど忘れてしまっていないだろうか、と。


(惺壽、まだかしら……)


 埒もない不安を打ち消すように夜空を仰いだ。


 紺色の薄雲が霞のように広がるだけだ。

 駆ける優美な獣の姿は見えない。


 出かけてからずいぶん時間がかかっているようだが、なにか面倒な事態でも起こったのではないだろうか。

 たとえば、あの沼垂主がまた理不尽なことでも言い出した、とか。


(……ん? ちょっと待って。惺壽は沼垂主を迎えにいったのよね?)

 それも秘密裏にだ。

 ということは、惺壽が連れてくるのは沼垂主一人だけのはず。

 

 沼垂主は移動の際、妖獣に牽かせた車を利用している。つまり自力での移動は困難だろう。


 それでは惺壽は沼垂主をどうやって運ぶのだろうか。


 まさか、背に乗せる?


 あの蛙面が偉そうにわが物顔で惺壽の背に乗っている光景を想像してしまい、思わず眉根が寄った。

 ――それは、嫌だ。

(他に方法がないなら仕方ないし、もとはと言えばわたしのためなんだから、そんなこと言う筋合いないけど……)


 それでも嫌だ。

 惺壽が誰かを背中に乗せているところなんか見たくないし、そもそも乗せてほしくない。


 ――たとえ誰であっても。

 あそこは自分だけの特等席であってほしかった。

 


 不意に、自分はやっぱり彼のことが好きなんだと思った。

 諦めると決めたはずなのに、唐突にこんな未練が顔を覗かせる。


 乙葉が姿を消した後、彼は、違う女性に背を許すかもしれない。

 それは自分には知りえない女性だ。

 そう思うと、どうにも苦しくて仕方がなかった。


 部屋の真ん中に立ち竦んだまま、奥歯を噛みしめるように視線を泳がせた時。


「―――――げろぉぉぉぉおおおおおおおっ!?」

 遠くから尾を引くように素っ頓狂な悲鳴が近づいてきて、目を点にして顔を上げた。

「きゃあっ!?」

 視界に、こちらに電光石火で飛んでくる鬼気迫った蛙面が入った途端、思わずびくっと肩が揺れる。


 沼垂主は上空から一直線に室内に降りてきた。降りてきたというより、どこか遠くから力いっぱい放り投げられたような軌跡だ。そのままべちゃっと潰れた音を立てて床に突っ伏す。


 そのまま動かなくなった姿を遠巻きに見つめていた乙葉は、髪をそよがせる風に気づいて、再び湖の方を向いた。


(あ……)

 月明かりの中、いつの間にか優美な獣の姿が浮かび上がっている。


 惺壽だ。

 ふわりと身軽く欄干を飛び越えて室内に降り立つ。

 その姿は早々に人のものに変わった。


「お、お帰り……なにがあったの?」


 どうやら失神したらしい沼垂主を視線で指しながら、こわごわと尋ねてみた。


 沼垂主を投げ込んだのはもちろん惺壽だろう。


 彼は、肩に乱れかかった淡い金の髪を払いながら答えた。


「なに。移動にご不満のようだったので、少しでも早くたどり着くよう、頭を捻った果ての手段だ」

「はあ……途中まではどうやって移動してきたのよ」

「畏れながら襟首を拝借したまで」


 その言葉に黙って沼垂主を見やる。


 上等そうな紫紺の袍を着ているが、たしかにその首元が少し伸びていた。

 つまり、途中まで襟首を咥えてぶら下げてきたらしい。背に乗せる気など毛頭なかったのかもしれない。


「だ、大胆なことするわね……」

 よく本体がすっぽ抜けなかったものだ。

 さすがに口元を引きつらせた乙葉に、惺壽はこともなげに肩を竦める。

「そう気安く許すものだと思われるのも心外なのでね。そもそも、あちらこちらに色を見せたところで、その全てを背負えるものでもあるまい。背の君など一人もあれば充分だ」

「…………」

 鼓動が跳ねた。慌てて視線を彼から逸らす。


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