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六章―18.5話

 雲乃峰からようやく館へと帰還した沼垂主は、口元を緩ませながら自室へと廊下を歩いていた。


 所々に前衛的な構図と鮮烈な色遣いの書画や、奇抜な形の壺などが飾られているが、今日はお気に入りのそれらも目に入ってこない。


 芸術を愛でなくも、充分に心が浮き立っているからだ。


 なにしろ、ようやくあの目障りな男の姿が天乃原の中央から消え失せるのだから、当然のことである。


(たかが人間の小娘に身を賭すなど酔狂としか思えんが、まああの偏屈な麒麟のなすことだ。深くは考えまい。これでようやく心の平穏が訪れるというもの)


 あの双角の麒麟は、人間の娘を中乃国に送り届けるため、時の狭間を駆け抜けると言った。


 そのために沼垂主に協力を迫り、その代償として、無事天乃原に舞い戻った暁には、どこぞの辺境に姿を消すとまで約束したのだ。


 ただの口約束だ。のらくらした男が必ず守るとは限らないが、一度は交わした約定。どんな手段を使ったとしても大儀名分はこちらにある。


 そもそもが、ただでさえ危険な道行きだ。下手をすればあの麒麟には、娘共々、荒れ狂う時の狭間で藻屑と消え果てる運命が待っている。


 帰りを待つまでもなく、あの男の姿を目にすることは二度とないかもしれない。


 その自死紛いの暴挙に、ほんのすこしでも手を貸すのだと思うと少々後味が悪い気もするが――あちらから言い出したことだ。

 恨まれる筋合いも、深く悩む必要もないだろう。



 沼垂主はにんまりと笑う。

 そうして上機嫌に自室に入った途端、丸窓の縁に目が留まった。

 白障子は出かける間際に開け放ったままで、そこに、三本足の赤い小鳥が止まっている。


『ようやくお戻りなのね、あなた』


 小鳥が妻の声を放ったことに仰天し、いそいそと窓辺に近寄る。


「お、おまえか。どうしたんだ、一体。何かあったのかね」


 赤い小鳥は(ろう)(ちょう)といい、番を一羽ずつそれぞれ手元に置いておけば、離れた場所にいる者同士でも会話をすることができる。


 そうして、今の沼垂主の話し相手は妻の鈿女だ。


 彼女はなぜか夫の住まいを嫌い、なかなか寄り付こうとしない。

 美と技芸を究める妻のため、日夜、屋内や庭のあちこちに書画や像や壺を苦心して飾っているというのにだ。

 もしや嫌われているのかと、ひそかに心を痛める日々が続いている。


『そろそろ海琉を連れて陽乃宮の御許に戻ることにしたものですから』


 それを知らせるためにわざわざ瑯鳥を飛ばしたらしい。珍しいことだ。

 そのいじらしい振る舞いと報告の内容に、沼垂主は目じりを下げた。


「それはいい。やはり陽乃宮のお心を慰めて差し上げられるのはおまえだけだ。三柱乃神のおそばを許された天人は、儂らのようなほんの一握り。心を尽くしてお仕えする義務がある」

『……ええ。妾も、そろそろ陽乃宮にお出ましいただこうと思っていてよ。あなたのためではないけれどね』


 最後は独り言のように零し、赤い小鳥は翼をぱっと広げた。

 そのまま丸窓から外へと飛び立っていく。小さな影はすぐに夜陰に紛れた。

 一方的に断ち切られた夫婦の会話に、物寂しさを感じないでもなかったが、それ以上に高揚を感じていた。


 何もかもが上手くいく。目の前に開けているのは輝かしいばかりの栄光だ。


(人間の娘が天乃原に現れたと知った時には肝を冷やしたものだがの)


 窓辺に佇んだまま、ほくほくと笑み、瑯長が消え去った彼方を見るともなしに眺める。すると、入れ替わるようにこちらに近づいてくる一つの影に気づいた。


 にやりと目を細める。――どうやら迎えが来たようだ。


 悠々と星空の中をこちらに駆けてくる一頭の獣は、自分には少々憎らしくも映る。沼垂主は自力で空を飛べないからだ。移動にはいつも車を用いている。


 しかし今回は、いつも車を護衛させている従者たちも同行しない。

 したがって外出の後、移動の方法はおのずと一つに絞られる。


 にんまりと笑みを深めた沼垂主は、こちら目指して駆けてくる麒麟を待ち受けていた。


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