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六章ー18話

(な、なにがしたかったのよ……っ!?)


 あんな言い方をすれば乙葉が反論してくるだろうと、惺壽も充分予測できたはずだ。それを見越していたというのなら、それはつまり――


(……試された?)


 乙葉が惺壽の言い分を否定するかどうか。

 もし彼に同意していたのなら、自分もまた、この恋に本気であることを諦めたことになる。 


 わずかな疑念に眉根を寄せて考え込んでいると、惺壽はちょっと笑って、頬杖をついたままおどけるように肩を竦めた。


「どうやらご機嫌を損ねたようだ。なにしろ真実の(なが)の別れなど初めて経験するものでね。そういう相手をどう扱うべきか考えあぐねた挙句の言葉だったんだが」

「一番言っちゃいけないことを言ったと思うけど」


 眉根を寄せたまますかさず詰ると、惺壽の広い肩がまた上下する。


「だから詫びただろう。おまえも似たような考えかと思ったが、どうやら違ったようだとね」 


 その軽い言い方に、言葉に詰まった。

 すこし顎を引いてつっけんどんに言う。


「そんな冷血な考え方するのは惺壽くらいよ。一緒にしないで」


 つまり、彼も確かめたかったのだろう。乙葉の気持ちを。


 乙葉が、どれだけ惺壽のことを想っているか。

 彼はそれを知りたかったのだ。

 だから、こんなふうに試すような真似をした。



「それは失敬。二度と口にはするまい」

 頬杖をついたまま惺壽が涼やかに笑う。口ぶりは謙遜していても、その微笑は余裕ぶったものだ。どうやら思う通りに事が運んで満足らしい。


(なんなのよ、こっちはどうやって伝えようか必死だったのに)


 そう内心で憎まれ口を叩き返したものの、こうも楽しそうな顔をされると怒る気も萎えてしまった。

 しかし、だからといってあっさり引き下がるのも性分が許さない。



「……わたしの勝ちね」


 ぽつりと呟いてみた。

 惺壽の瞳が瞬くのが分かるが、目を合わせるのも癪で、ちらと上目に彼を見上げるにとどめた。


「覚えてない? 初めてこっちに来た頃、惺壽に、わたしへの興味だらけにしてあげるって言ったこと」


 彼と出会ってからほんの何時間かしか経っていない頃の話だ。

 あの頃彼は、まったく乙葉に興味を示そうとしなかった。

 なにを言っても聞く耳を持ってくれなくて、「だったら誘惑してやる」と啖呵を切った乙葉だ。


「あの時惺壽、絶対にそんなこと無理だって思ってたでしょ。でも結果はわたしの勝ち」

「おや、そうかい?」


 乙葉は彼の癖を真似るように肩を竦めてみせた。


「だって、さっき、望みのままにって言ったじゃない。それって、わたしのこと忘れないって約束したたわけでしょう? 惺壽の性格上、興味のない相手にそんなこと言うはずないもの。せいぜい嫌味言って適当に相手して、それで終わりよ」


「我が身に余りあるほどの賛辞に痛み入るね。しかし、それだけでそちらの勝ちとは言えまい」


 たしかにそうだ。

 惺壽は忘れないと仄めかしただけで、乙葉自身についてはっきり口にしたわけではない。そうして、それは乙葉も同じ。

 ただ惺壽に「忘れられたくない」と言っただけ。

 

 はっきりとその二文字を口にしたわけではない。

 それでも伝わるものがある。


 乙葉はつんと顎を上げてみせた。

「往生際が悪いわね。素直に参ったって言ったらどうなの?」

「とんだいかさまに引っかかったものだ。そう都合よく勝敗の条件を変えられてはかなわないんだがね」

「でもわたしのこと忘れないんでしょ?」

「ああも情熱的に縋られてはすげなく一蹴するわけにもいくまい」


 惺壽はまた肩を竦めた。口ぶりは飄々としている。

 それにようやく機嫌を直して乙葉も軽く笑う。


「だったらわたしの勝ちよ」


 それについて、もう反論は返ってこなかった。

 認めたということだ。

 あの惺壽が、たった一人の小娘である乙葉に、敗北を認めた。


(いい気味だわ。色気がないとか青臭いとか散々言われたけど)

 そんな相手に敗北した気分はどんなだろうか。少しは悔しいと思っているだろうか。悠然と頬杖をつく態度からは、まったくそんな様子は感じられないが。


(わたしは――……)


 一方のこちらは勝ったのだ。

 打倒は至難と思われた彼に勝てた。

 

 素直に嬉しい。

 素直に嬉しくて、それと同じくらい、切ないような気もした。

 


「……惺壽」

 あたかかな彼の膝。その上に座る乙葉は、少し目を伏せて呼びかける。

 

 返事はない。ただ、静かに降ってくる視線を頬に受け止めた。


 目は上げないまま、その感覚に全神経を集中させる。


「なるべくでいいわ、忘れないでっていう約束。……忘れるまで覚えていてくれれば、それでいい」


 ぽつりと言った。


 やや間が空いて返事がある。


「ずいぶん威勢がなくなったな」


「だって惺壽は、なににも縛られないへそ曲がりで有名じゃない。……わたしがどういったところで、忘れるときは忘れるわよ」


 そうだ。惺壽には自由が似合う。

 だから、乙葉との思い出に縛られて一生未練を引きずる様なんて想像もしたくない。


 いつも不敵に笑っていてほしい。

 なににも屈しない、その誇り高さで。

 それでこそ、自分が惹かれた惺壽なのだ。


「それに、これから先、もっとたくさんの人に出会う可能性だってあるんだし」


 その中に、乙葉以上に心惹かれる誰かがいるだろうか。

 もしも巡り合えたその時は、その誰かと幸せになってほしいと思う。 

 一生、自分だけを想っていてほしいなんてわがままを言うつもりはない。


(たぶんわたしも、また恋をするから)

 

 惺壽と巡り合ったように、また違う誰かと惹かれ合う。

 その時、本気だったこの恋は、本気だったまま想い出に変わるはずだ。

 そんなこと、今はまだ想像もつかないけれど。

  

「たくさん――ね」


 独り言のような惺壽の声が聞えた。

 乙葉は瞬いて顔を上げる。

 見上げる表情は静かだ。

 

「うん。……そうでしょ? だから、わたしのこと覚えてるのはそれまででいいわ。わたしも、忘れるまでは惺壽のことを覚えてる」

 

 そう言葉を重ねる。

 惺壽はわずかに息を落としたようだった。


「忘れるまでね。せいぜいそうならないように心がけよう。――それとも、なにかの証をお望みかい?」


「……?」

 

 よく意味が分からず、乙葉は小首を傾げた。

 

 不意に、頬に掛かった髪の下に、あたたかな指先が滑り込んでくる。


 気が付けば、惺壽は頬杖を解いていた。

 その手をこちらの頬に添えているのだ。

 唐突な振る舞いにぽかんとしているうちに、乙葉は、なんの力みもなく彼の手に上向く角度を変えられてしまった。


 座っているのは彼の膝上だ。しかも振り返ったままの不安定な姿勢なので、そんなことをされて、あっけなく態勢を崩した。

 

 つまり、彼のほうへと。 


(え……)


 とっさにその逞しい胸元に片手をついて上体を支える。


 そのまま驚いて見上げると、拍子にずれていた手がまた頬に添え直された。

 今度はしっかりと固定される。


 されるがまま、乙葉は茫然と惺壽を見上げた。


 こちらを見下ろす彼の表情は静かだ。

 いつもと何も変わらない。

 ただ、薄青の瞳が月光にきらめく様がいやに目を引く。


 それの奥に光るものに気づいた瞬間、息が止まった。


 怜悧な双眸に映り込んだ自分の顔が近づいてくる。

 

 動けない。

 

 唇を、近づいてきた体温だけが先に掠めて頭の中が真っ白になった。


「ふ……っ」


 

 目を閉じかけて。



「みゃあああああああああああああああああああああああああああっ!?」


 絶叫した。

 力の限り、すぐそばに合ったものを突き飛ばす。





 気が付けば、乙葉は冷たい床の上に尻もちをついていた。


 少し離れた先で、惺壽が中途半端に両腕を宙に掲げたまま、すこし呆気に取られた顔でこちらを見ている。その腕の形は、まるでなにかを抱きしめるような形だ。


 どうやら、惺壽を突き飛ばそうとしたが、その反動に負けて自分が弾かれたらしい。体格の違いを考えれば当然だ。そんな広い胸の中に、今まで自分はいたのだ。



(わ、わたし……っ)

 

 まだ頭の中は真っ白だ。 

 しかし覚えていないわけではない。

 

 思い返してぼっと頬が火照った。

 その勢いに任せ、床に手をついて慌てて立ちあがる。


「おおおおおおやすみっっ!!!」

 

 ひっくり返った声で宣言し、乙葉はばたばたと部屋の入り口目指して走り出した。惺壽の顔なんてもちろん直視できない。


 

 あとほんの少しで唇がふれあうところだった。

 危なかった。咄嗟に我に返らなかったらどうなっていたことか。

  

(い、いや、別にしてもよかったんだけど……!)

 

 大事なファーストキス。

 惺壽になら捧げても後悔はしなかっただろう。

 

 ちょっとだけ後悔が胸を掠める。――が。



(で、でもやっぱ無理……!)


 決して惺壽が嫌なんじゃない。ただ、ひたすらに恥ずかしいのだ。

 

 乙葉は真っ赤な顔で廊下を激走した。






 ――一方、部屋にとり残されたままの惺壽はといえば。


 廊下のはるか先で盛大な物音が起きたのに気づき、ため息をついた。


 再び脇息に頬杖をついて、室外に広がる湖に目をやる。


 どうやら焦るあまり、足でも縺れさせて転んだようだ。

 粗忽な娘だ。

 あのまま膝上に留まっていれば、そんな目に合わずに済んだものを。



「……残念」

 月明かりの中、そう呟く口元は笑みを形作った。



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