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二章ー6話

(なんだったの、あれ……!?)

 一対の翼を持つ漆黒の獣。

 惺壽が漏らした「天虎」というのは、種族名だろうか。

 それにしても――あれほど執拗に狙われる理由が分からない。

 

 やがて呼吸が上がり始め、乙葉は徐々に速度を緩めた。

 立ち止まって振り返っても、惺壽たちの姿は影も形も見当たらない。

(どれくらい走ったのかしら……)

 やみくもに林の奥まで走ってきたが、ここはどこだろう。

 そして惺壽は今どこにいるのだろう。――まさか怪我などしていないだろうか。

 きっと大丈夫だ。

 そう自分に言い聞かせてみるが、どうしても不安が胸を衝く。

 不安を訴える鼓動を宥めるように、ぎゅっと握った拳を胸に押し当てる。


 その時だった。

 

 そばにあった大きな茂みががさっと揺れ、弾かれたように顔を上げる。

「せい……っ」

「よよよよ妖獣めが!! まだしつこく追ってきおって、成敗してくれる!」

 乙葉が声を上げるのと、茂みから飛び出してきた人物が金切声を発したのは同時だった。

(……蛙が服着てる……)

 現れたのは、襟の高い古風な袍を着た蛙――にしか見えない、背の低い男性だった。

 蛙をべしゃっと潰したような人相だが、たぶん人間だ。正確には天人だが。

小太りの体に深緑色の袍を纏い、黒塗りの靴を履いた足二本でしっかり立っている。毛髪のがあるのかないのか、頭にちょこんと小さな黒い帽子を載せ、両手でしっかりと、ひょろ長い枯れ枝を握りしめていた。

 かぱっと大きな口を開けていた蛙は、やがて枯れ枝を下ろした。

「なんだ、天虎かと思えば、ただの貧相な小娘ではないか。ふん、驚かせよって……」

「貧相って、蛙にそんなこと言われる筋合いは……」

「誰が蛙か! この儂に向かって失礼な!」

「あ、ごめん。つい本音が……それよりさっき、天虎って聞こえた気がするけど……」

「言ったがそれがなんだ! あの妖獣め、なにをとち狂ったのか、儂が車で移動しとったら、いきなり襲い掛かってきおったのだ! おかげで下僕たちとはぐれてしまったわ!」

「え。……天虎に襲われた?」

 居丈高な蛙に眉を顰める。

(天虎って蛙食べるのかしら……じゃなくて、わたしだけを狙ったわけじゃない?)

 惺壽と二人並んだ時に、自分だけが狙われたのは、明らかに乙葉のほうが非力に見えたからだろうか。

 考え込んでいた乙葉は、じろじろと全身を眺め回す視線に気づき、ふと顔を上げた。

「……な、なに」

 蛙が、短い指で自分の顎を撫でながら、値踏みするようにこちらを見ている。

「ふむ。たしかに貧相ではあるが、まあ顔立ちは悪くないか……。これ、娘。年は幾つだ」

「十六だけど……」

「なに、十六? ほんの赤子ではないか。それではたいして男も知るまいのぅ」

 たしかにそうだが、なんでそんなことを言われないといけないのだ。しかも十六歳で赤子呼ばわりされる筋合いはない。

 かちんときた乙葉だが、ずいっと蛙に顔を寄せられ、仰け反り気味に頬を引きつらせた。

「愛いのぅ。貧相な女に用はないが、特別に儂の屋敷に連れ帰ってやってもよいぞ」

「はあっ!?」

 なにを言い出すのだ。誰もそんなこと頼んでいない。

 そこで乙葉は、蛙男の視線が自分の足元に集中しているのに気づいた。

 もちろん素足のままだ。

 大して汚れてもおらず、素肌の白さを陽の元に晒している。

(エ、エロ蛙……!)


「――貧相なのは事実ですが、あいにく、その娘には先約がありましてね。連れ帰るのはご遠慮願いたい」

 

 三人目の低い声が、木立の合間に響き渡った。

 はっと声のほうを見やる。

 長身の男性が灌木の合間を悠然と歩いてくるところだ。

「惺壽……っ」

 乙葉は彼の名を呼び、知らず知らず駆け寄っていた。

 ぶつかるように惺壽の元にたどり着く。上着の裾にすがって爪先立ち、視線を忙しなく上下させても、彼の体のどこにも大きな怪我は見当たらない。

(……よかった……)

 無事なようだ。思わず息をついた。

 ほっと表情を緩めた乙葉に、惺壽がほんのすこし双眸を細める。

「き、きききききき麒麟……?」

 背後でみょうにどもった声が上がり、乙葉はすこしうんざりしながら振り返った。

(そういえば、ガマ男がいたんだっけ)

 蛙男は惺壽を見つめている。

 その瞳孔は開ききり、顔色も真っ青だ。

「……怯えてるみたいに見えるけど、あの蛙と知り合い?」

「いや。……おまえは?」

「知り合いなわけないでしょ。この世界でわたしの顔見知りは惺壽と梛雉だけよ。……今、ここでばったり出くわしたの。あの蛙も天虎に襲われたみたいなんだけど……」

「……ばったりね」

 惺壽は目だけで蛙男を見据えたまま、小さく繰り返した。意味深げな呟きだ。

 乙葉は内心で「あ」と声を上げる。

 そういえば、人間の自分は、なるべく他人と接触を断たなければならないのだった。

「ご、ごめん、惺壽。あの蛙に見つかったのはわざとじゃなくて…………むぐっ」

 謝罪と言い訳を口走ろうとした矢先、無情にも大きな手に塞がれてしまった。

 惺壽はいつもどおり飄々と且つ平坦な表情だ。

 薄青い瞳が鋭く光って蛙男を見つめている。

(……惺壽……?)

 異様な雰囲気を感じ、乙葉は自然に大人しくなった。

「……このような場所でお目にかかるとは奇遇ですね、沼垂主どの」

惺壽が声を張り上げる。その相手は、少し離れたところで立ち竦んでいる蛙男だ。

(ぬくりのぬし……って、あの沼垂主!?)

 全身を駆け抜ける衝撃によろめきそうになった。

 

 沼垂主。それは天乃原と中乃国を結ぶ唯一の橋、天乃浮橋の番人の名だ。

 

 天上からも地上からも、番人の許しがなければ橋を渡ることはできない。

 つまり乙葉が天上に迷い込むなんらかの原因を作った、その張本人であるはず。 


(なんで、沼垂主がこんなところに……!?)

 硬直した乙葉の口を塞いだまま、惺壽が慇懃に言葉を続ける。

「私の連れがなにか粗相を致しませんでしたか。なにぶん世間知らずな娘です。ご無礼があったのならば、愚鈍にすぎる卑賎の身に免じ、平にご容赦いただきたく」

 いつも嫌味か皮肉か意地悪しか言わない彼がずいぶん丁寧だ。

 それでもどこか冷ややかに皮肉っぽく聞こえるのは気のせいだろうか。

 石のように硬直していた沼垂主が、そこでやっと口を開いた。

「き、麒麟……その娘は、おまえの、なんだ」

 声が震えている。よく見れば、小太り気味の体も小刻みにぶるぶると震えていた。

 明らかに怯えている。――惺壽に。

 その惺壽の横顔には、とろけるように甘い笑みが浮かんだ。

「ああ――……こちらは近々、妻に迎えたいと考えている娘です」

(……は?)

 乙葉は目を真ん丸にした。

 惺壽が顔を傾けてこちらを見下ろす。

「なにをそれほど驚いている? 今に聞いたことではあるまいに。……ああ、だが、その大きな瞳が、そうやって俺だけを写すさまは悪くない」

(へ?)

「願わくば、その()が見つめる男は、生涯ただ俺一人であってほしいものだが……すでに、沼垂主どのに心を移した後なのか?」

(い――いやいやいや、ええっ!? なに言ってんの!? 口から砂が出そうなんですけど……って、ちょ、ちょ、ええ!っ?)

 抗議しかけた乙葉だが、突然惺壽が覆いかぶさるように身を屈めてきた。

 逃げる間もなく彼の胸の中に抱きこまれ、その肩口に顔を埋めるように爪先立たされる。

 突然の抱擁に混乱の極みだが、とりあえず口は解放された。

 彼の耳元でごくごく小さく怒鳴り散らす。

「なに言ってんの!? そしてこの態勢もなんなの! あんた、わたしみたいな小娘には興味はないんじゃなかったっけ!?」

「すこぶる無いな」

「だったら手を放しなさいよ、どさくさに紛れてどこ触ってんのよー!」

「では、このまま、青臭い小娘にも欲情できる沼垂主の囲われ者になるか?」

じたばたもがいていた乙葉は、ぴたりと動きを止めた。

ああ、これは演技なのか。沼垂主の魔の手から自分を守るための。

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