六章ー17.5話
たとえ惺壽が相手でも、これだけは譲れない。
乙葉は顔を上げた。
「どんな花が咲いたとしても蕾だったことは変わらないって言ったのは、惺壽よ。だったら、たとえ咲かずに枯れたとしても蕾だったことも変わらないわ」
薄闇に、こちらを見返す双眸は静かだった。
乙葉ももう唇を引き結び、黙って彼を見つめる。
背筋にぴりりと緊張が走るみたいだ。
「……咲く前に枯れるつもり、だと?」
「え?」
「たしか俺が青蕾と喩えたのは、おまえ自身だったはずだ。その当人が咲かずに枯れるというのなら、つまり咲く意思がないとしか考えられまい」
「ち、違うわ。わたしが言いたかったのはそういうことじゃなくて……!」
乙葉は焦った。どうやら誤解されたらしい。
それではまるで自分が、惺壽の励ましを無為にしようとしているみたいだ。
「では、要点をまとめてくれるかい。それとも、初恋の男がいかに恋慕に値する相手だったかと滔々と語りたいだけか?」
惺壽は身体を傾がせ、しなやかな仕草で脇息に頬杖をついた。
どこか白けたような、冷ややかな表情だ。
支離滅裂な話に付き合わされて気分を害したのかもしれない。
(どうしよう。どう伝えたらいいの?)
怒らせたかったわけではない。
ただ伝えたかっただけだ。
(わたし、……わたしは――……)
焦りが加速する。
「わたしは、惺壽に忘れられたくない……!」
混乱の頂点で、転がり出たのはそんな一言だった。
惺壽の目が若干見開かれていた。反対にその口は閉ざされている。
間近に見つめ合ったまま、しばらくの沈黙が落ちた。
そうして。
「……お望みのままに」
落ちた声はわずかな笑みを含んでいた。
「……え?」
ぱちりと瞬きを返す。
「端からそういう簡潔な答えが欲しかったと思ってね」
脇息に頬杖をついたまま、惺壽は唇の端をくすりと上げる。
それを見て乙葉は慌てて俯いた。
「ご、ごめん。うまく言えなくて……」
「いいや。俺も少々、意地の悪い言い方をしたのは事実だ。非礼を詫びる。……そう可愛いらしいおねだりを聞けるとは思わなかったが」
珍しく殊勝な謝罪にぽかんとした後、じわじわと乙葉の頬が火照りを帯びた。
可愛くおねだり――というのはつまり。
「そ、そういうつもりじゃ……!」
「忘れられたくない……。”忘れたくない”ではない辺り、それほど熱烈な想いだと?」
「ねつ……!? そ、そうかもしれないけど、そういう意味じゃ……!」
「おや。ではどういう意味だい。俺にも理解が及ぶよう、ぜひご教授いただきたいものだが」
惺壽の微笑が意地悪さを増す。
見返す乙葉の頭の中はさらに沸騰した。
なんだか先ほどとは違う種類の狼狽に思える。
こんなふうに言いたかったわけじゃない。
自分はもっと、静かに、淡々と、惺壽に伝えたかっただけだ。
忘れられたくない。
いや、いつか忘れられるとしても、少なくとも、今、ここで、それを予感させるようなことは止めてほしい。
たとえ忘れたくなくても、忘れられたくないと願っても、現実はそうはいかないと乙葉も分かっている。
だからこそ、それでも最後の最後まで向き合うことで、この恋を、想い出の中で一際光を放つものに変えたかった。
それが乙葉の思う本気や情熱だと思うから。
(そ、そういうことを順番を追って説明するつもりだったわけで……!)
惺壽に急かされて爆発した。
そうして最後に残ったのは、根っこの部分の「好き」という気持ちだけだった。
そう。あれじゃあ、「好き」だから「忘れられたくない」と言ったも同然だ。
(だって惺壽が……!)
会えなくなる相手を気に掛けるだけ無駄だ、なんて言い方をしたからだ。
彼自身が謝罪した通り、とても意地の悪い言い方だったと思う。
そうして今、乙葉の目の前で笑っている彼は、ひどく機嫌がよさそうに見えた。
まるで乙葉が、こんなふうに自爆紛いに本音を曝け出すのを待っていたみたいに。




