六章―15話
何かを言いかけて唇を薄く開き、だが結局、それを閉じる。
乙葉はそっぽを向いていた顔を元に戻した。目の端に惺壽が映る。
「惜しいの? だったら、帰るまでの間に一生分罵り倒してあげてってもいいわよ」
「せっかくだがご辞退申し上げる。あいにくそういう偏った嗜好は持ち合わせていなくてね」
「遠慮しなくていいのに。ていうか、わたしがいなくなったら寂しいって素直に言ったら?」
「さて。こちらこそ、せめて一度くらいは『別れがたい』と泣き崩れる姿が見たいものだが」
「どうせ嫌味言って終わりでしょ」
「冷血男の正体が知れたようだ。心外だな」
惺壽は白けた仕草で肩を竦めて見せた。
もちろんわざと茶化しているのだろう。
だから乙葉もくすりと笑った。
「天人が中乃国に遊びに来ることってあるの?」
「皆無だ。特段の用がなければ、徒にあちらに姿を現すことは雲乃峰に禁じられている」
「ふぅん……そう。だったら、二度と惺壽と会うことはないのね……」
独り言のように呟く。
事実、独り言だ。
自分を納得させるための。
(やっぱり、向こうに戻ったら、もう惺壽には会えなくなる)
都合のいい期待をしていたわけではない。
何度も何度も自分に言い聞かせてきた事実だ。
それが、今、こんなにも深く胸に突き刺さる。
「それで、用向きは?」
「え?」
問いかけに瞬いて顔を上げる。
惺壽は脇息に頬杖をつきながら尋ねた。
「なにか用があって、あれほど熱心に見つめていたのではないのか」
そういえば、そんな惺壽のからかいから始まったやり取りだ。
(用って……)
特にない。
彼を訪ねてきたのはなんとなくだ。
しかし。
(そんなこと言える関係じゃないんだわ。……わたしたちは)
そばにいたかった、なんて甘えたことを言えるわけがない。
乙葉と惺壽はあくまで他人同士だ。
まさか向こうは、梛雉が乙葉に彼の気持ちを漏らしたなどとは考えもしないだろう。そうして同じく、彼に対する乙葉の気持ちが伝わっているわけでもない。
二人は表面上は赤の他人。一時の家主と居候の関係。
たとえ互いに想い合っていたとしても、惺壽はそれを態度に出さないし、乙葉も気取らせるつもりはない。
だから、そう。むやみに長居する理由なんてないのだ。
乙葉は唇を噛んだ。
なんだか意地の悪い響きを宿した低い声が響いたのはそれと同時だった。
「おや、そう口ごもるとは――もしや、なにか大胆な秘め事でもお持ちかい、お嬢さん」
面白がるような声音だ。
意味が分からず、乙葉は怪訝そうに眉根を寄せて惺壽を見る。
精悍な男性は、そんなこちらを、もったいぶったように横目で流し見た。
「なるほど。……いささか驚きはしたが、悪い気はしないな。無論、勇気を振り絞った乙女に恥をかかせるほど無粋な男でもないつもりだ」
「……なに言ってんの?」
「夜這いにきたのでは?」
さらりと言われて目が点になった。
こちらを見上げる薄青の瞳。その睫毛が艶めいた角度で伏せられる。
「その勇敢さに敬意を表して、どのような趣味趣向にもお付き合いするが?」
「そんなヘンな趣味ないっ、じゃなくて、わたしが夜這いなんかするわけないでしょーーっっ!?」
自分でも分かるくらい、一瞬で顔が真っ赤になった。
仁王立ちで吼えた乙葉を見上げ、惺壽は不思議そうに眉を上げてみせる。
「はて。しかしこの深更の訪れに、他に思い当たる節はないな」
「ずっと朝が来ないんだから夜更けになりようもないじゃないっ! 暗い中会いに来る女の人はみんな夜這い目的なわけっ!? わ、わたしはただ、惺壽にはお世話になったからお礼を言おうと思って来ただけよっ」
「それは失敬。残念だ……とてもね」
笑みを乗せ、ちらりと向けられた視線がどこか艶めかしい。
もちろん端からからかうつもりだったのだろう。
分かっていながら過剰に反応してしまった自分が悔しい。
(ひ、人が悩んでるときに、よりにもよって夜這いなんて……!)
動揺と怒りで叩き返すべき言葉さえ見つからない。
そういうわけで、くるっと踵を返した。
そのまま部屋の入口を目指してどすどすと歩いていく。
「礼を言おうと思ったのでは? まだ一言も聞いていない気がするがね」
背中に声を掛けられて、肩越しに振り返った。不機嫌さを全開に言う。
「言おうと思ったけど、聞くほうにその気がないなら言ったって仕方ないでしょ」
「いつなりと拝聴しよう。殊勝な態度にはそうそうお目にかかれないからな」
ひょいと肩を竦められ、乙葉の眉間にまた皴が増える。
なにが面白いのか、その顔を見て惺壽はくすりと唇の端を上げた。
「冗談はさておいて、もう少々居残ってはどうだい。俺もちょうど、無聊の慰めに話し相手が欲しくてね」
声はまだ明るいが、からかうような響きが消えている。
乙葉は戸惑い、少々前のめり気味だった背筋を伸ばした。
今度は身体ごと惺壽に向き直る。
「話し相手って……まだからかう気?」
「おや、信用のないことだ」
「今遊ばれたばっかりなんだから当たり前よ。……まあ、話し相手くらいならなってもいいけど……」
そこで言葉を切る。
惺壽のほうから引き留めるのなら、もちろん自分ももう少し彼のそばにいたい。
途切れた言葉を追いかけ、惺壽はさらりと金の髪を揺らして首を傾げた。
「けど?」
「座る場所がないのよ。……惺壽の隣は嫌だし」
「加えてずいぶん嫌われたようだ」
「ち、違うわよ。そうじゃなくて……床、冷たそうだから……」
乙葉は視線で、惺壽の隣を指し示した。
もちろん空っぽの空間だ。磨き抜かれた板敷の床が、白い月光を映しこんでぴかぴかと光を放っている。その様はいかにも寒々しい。
じかに腰を下ろせば、セーラー服の生地越しにも冷たさを感じて凍えそうだ。
そういう乙葉の言い分をどう思ったのか、惺壽は頬杖をついたまま、また器用に肩を竦めてみせた。
「仮にも女人を凍えさせるわけにもいくまい。乙女どのには敷物を進呈しよう」
「仮にって何よ、立派な女人よ。……敷物って、惺壽が代わりに床に座るの?」
家主の特権で、惺壽は室内唯一の敷物に腰を下ろしている。
尋ねた乙葉に、彼はゆるく首を振ったのだった。
「あいにくご勘弁いただきたい。俺も凍えるのは御免でね」
「え、じゃあ、どうするつもり……」
目をしばたたかせた乙葉に、惺壽は意味ありげにちょっと笑った。
ゆるく組んでいた自身の足をぽんと軽く叩いてみせる。
「こちらにどうぞ?」




