六章―14.5話
(大丈夫。……態度に出さなきゃいいのよ)
部屋に入る前、乙葉はセーラー服の胸元を手で押さえ、深く息を吸った。
惺壽が乙葉のことをどう思っているかは分からないが、彼がそんな素振りを見せないのなら、こちらも平常通りの態度を貫くだけだ。
(――よし。大丈夫)
吸った息を吐き、思い切ってひょいと室内を覗いてみた。
案の定、惺壽は定位置に腰を下ろしている。
欄干の向こうに広がる湖を背景に、月光が、白い装束に包まれた肩から背を照らしていた。
(…………静かね)
水面に立つ細波の音しかしない。
広い背中は振り返らず、青月光に染まった風景は張りつめるほどに美しい。
なんだか胸が痛くなった。
この綺麗な景色の中に自分は入っていけない。どこにも乙葉の居場所はない。
そういう事実をそっと突き付けられた気がしたのだ。
「なにか御用向きならば、視線ではなく口で訴えてほしいものだが」
不意に深い声が響き、ぴくっと跳びあがった。
動揺した視線の先で、惺壽がゆったりと肩越しに振り返る。
薄青い双眸がこちらを見た。精悍な美貌が月明かりに眩い。
「そう熱心に見つめられては、背が焦げて穴でも空きそうでね」
薄い唇が凄艶な笑みを乗せて嘯く。
いつも通りのからかい交じりだ。
それなのに、なにかがいつもと違う気がして、乙葉はすこし息を飲んだ。
怜悧な瞳が月光に濡れているせいだろうか。
みょうにすべてが艶めかしく、こちらもいつもの調子が出ない。
「……それくらいで穴が空くような背中じゃないでしょ」
「おや。見つめていたことは否定しないと?」
「ち、違う、寝てるのかどうか確かめてただけっ」
思わず仁王立ちになって叫んでしまう。
そんな乙葉の反応を見て、惺壽の口角がさらにくすりと上がった。
「それは残念。少々期待していたのだが」
(期待?)
なんの?
そう聞きたかったが、その前に、惺壽は向こうを向いてしまった。
乙葉のいる場所からはやや距離がある。
その遠い背中に話しかけるために、静かな部屋で大きな声を出すのも憚られた。
そういうわけで、躊躇い躊躇い、彼のそばまで歩いていく。
脇息に頬杖をついた惺壽の斜め後ろで立ち止まると、淡い金の髪がしっとりと水気を帯びているのに気づいた。
そういえば上衣の袷がいつもより緩く寛げられている。
いつも一分の隙もない惺壽にしてはめずらしく崩れた姿だ。
「……水浴びでもしたの? さっき、湖のほうで音がしてたけど……」
「少々禊をね。めずらしい場所に出向いたもので」
「めずらしいって……どこ行ってたの?」
ちょっと転寝している間に出かけていたらしい。
尋ねた乙葉に惺壽はこともなげに答える。
「天乃浮橋の番人どののお館だ。八雲乃櫂を振るって頂く約定を取り付けてきた。御方は少々取り込み中だが、それも直に済む。これでようやく、晴れて中乃国への道が開けるわけだ」
一瞬、言葉が出なかった。
とうとうカウントダウンが始まった。
その実感が背筋を走る。
「案外に平静だな。もしや、どこかに離れがたい男でも?」
意地悪な笑みを含んだ声に、はっと意識を引きずり戻された。
顔を上げれば、惺壽はまた、わずかにこちらを振り返っている。
動揺を押し殺し、乙葉はぷいっと顔を背けてみせた。
「いるわけないでしょ。これでどっかの冷血男の嫌味を聞かなくてよくなると思って、ひそかに喜んでたの」
「おや。どちらの男のことかな」
「さあ。惺壽もよく知ってる人じゃないかしら」
つんと澄まして答える。
くすりと笑い声が聞えた。
「――その可愛げのない憎まれ口も、二度と聞けなくなると思えば惜しい」
笑い交じりに、けれど本気が滲んだ声。
跳ねる鼓動につられるように、乙葉は惺壽を見た。
彼も静かにこちらを見上げている。
静かに見つめ合う一瞬の間。
(……ああ、やっぱり)
すとんと、なにかが心の底に落ちた。




