六章ー14話
瑯鳥を放した後、自室の隅に座り込んでいるうちに、転寝してしまったらしい。
ぱかっと瞼を開いた乙葉は、霞む目をこすりつつ、薄暗い室内を見回した。
(……どれくらい寝てた?)
考えても時間が推し計れない。
寝起き直後で頭がぼんやりしているせいだろうか。
顔でも洗おうと思い、大儀そうに立ちあがって部屋を出た。
革靴を履いて外に出る。スカートの裾を揺らす風はひんやりと冷たい。
薄闇の中を建物の壁伝いに歩けば、ようやく水辺に出た。
しゃがみ込んで手の平で水を掬う。
水は冷たかったが、ぱしゃっと顔を洗うと頭の芯までしゃっきりと醒めた。
次に濡れた手でスカートのポケットのハンカチを取り出す。
それで水気をふき取りながら、ふとこんなことを思いついた。
(……こんなワイルドな洗顔するのもあとすこしよね)
湖の畔で顔を洗うなんて、キャンプにでも行かない限り、なかなかない生活様式だ。元の世界に戻れば、毎朝、我が家の洗面台で顔を洗う日々が待っている。
そういえば、これだけ滞在していながら、結局、惺壽の屋敷の内部はよく分からず仕舞いだった。
何度か探検に出たこともあるのだが、屋内はどこも似たり寄ったりな造りで、彷徨っているうちに自分の部屋の前に戻ってくるのが常だ。
迷いなくたどり着けるのは、惺壽がよく居座っている湖面の部屋くらいだった。
涼やかな水風に淡い金の髪を翻し、薄青い瞳で遠くを見やる精悍な横顔は、すでに鮮烈に脳裏に焼き付いている。
怜悧な双眸。皮肉っぽい微笑。
嫌味を紡ぐ低い声に、すらっと長い指を持つ手の形。
今はこんなにもはっきりと身近に思い出せるが、彼に会わなくなれば、どんどん記憶は薄れていってしまうのだろうか。
(忘れたくないな)
しゃがみ込んだまま、乙葉はハンカチを胸元に抱え、軽く唇を噛む。慰めるように風になびいた髪がさらりと頬を撫でていった。
――と。
どこかで水飛沫の音が響いて、顔を上げた。
ずいぶん大きいものが水から引き上げられたような音だ。湖の中ほどから聞こえた気がした。
(……惺壽?)
そう思いついた途端、急にそわそわと立ちあがった。
他に心当たる人がいない。惺壽が水浴びでもしているのだろうか。
意味もなくハンカチを握りしめ、湖の中心の方角に目を凝らす。
湖面に張り出した建物が死角になって視界は広くない。
その中に惺壽の姿は認められず、水音も二度と聞こえてこなかった。
(え、と、違ったのかしら……)
そう首を捻った瞬間だ。
頭上から低い声が降ってきたのは。
「なにを見ている」
「ひゃ……っ」
不意打ちだ。思わずびくっと肩が揺れる。
乙葉は慌てて声がした方を見上げた。
けれど見えるのは、屋外と部屋を仕切る欄干だけだ。
「そのか細い身体が冷えきる前に上がってはどうだ? 病を得た挙句、介抱しろなどと言われてはたまらない。……ただでさえ険しい道行きの前だ、くれぐれも自愛しろ」
姿は見えないもの、欄干から離れていく気配がある。
驚きのせいでまだどきどき騒ぐ自分の心音を聞きながら、乙葉はしばらく、欄干を見上げたまま立ち尽くしていた。
いつもどおりの惺壽の嫌味だった。
からかうような声に、けれどどこか労わる響きもあるが――。
いつもどおりだ。普段通りの態度だった。
乙葉を連れて時空の狭間を越えると言った時の、あの心震わせるような熱っぽさは欠片もない。
(わざと……かしら)
まるで何事もなかったようだ。
いや、たしかに、実際にはなにも起こっていないのだ。
乙葉は惺壽を好きで、もしかしたら惺壽もこちらを想ってくれているのかもしれないという可能性に気づきはした。
けれど、お互いにはっきりと確かめたわけではない。
(もしかして、やっぱり勘違い?)
やはり梛雉や自分の早とちりではないだろうか。
急にそんな気がしてくる。それくらい味気ない惺壽の態度だった。
あれこれと思考を巡らせかけた乙葉だが――不意にはあっと息をついた。
(……もう、どっちでもいいわ。惺壽がわたしをどう思ってても)
答えが出る気がしないのだ。だったら考えるだけ無駄だ。
ただ、自分は彼を想っている。
その事実だけで充分だ。
たとえ互いに互いを想っていたとしても、結末が変わるわけでもない。
(だったら、そんな素振りを出したって意味がないんだし)
惺壽の本心がどうあれ、そんな素振りがない以上、こちらも素知らぬ顔で心を押し隠すのが暗黙の了解というものだろう。
(なんでもいい。……わたしが、惺壽のそばにいたい)
残された時間はわずかしかない。
たとえ好きと伝えられなくても、話したいことはたくさんある。
深く呼吸をした乙葉は、睫毛を震わせるように目を開いた。
そうしてくるりと踵を返し、軽やかに駆けながら水際から引き返す。




