六章―13話
手応えのなさに沼垂主はぎょろっと目玉を動かしたが、やがて吐き捨てるように答えた。
「新しく道を繋ぐわけではない。元から開いている道を辿り返すだけのことだ。天乃原にも中乃国にも、その関所ができとる。あとは八雲乃櫂でそれを開かせてやればいいだけのこと」
ふぬ
今現在、天上と地上の間には歪な隧道が出来ている。
隧道の出入り口は二つ。
一つは中乃国。乙葉が参詣したという鏡乃社だ。
そうしてこちらから向こうに行く以上、まず天乃原側から関所を越えなければならない。
(しかし……)
乙葉と初めて出会ったのは、とある泉の畔だった。
見るともなしに水面を眺めていたら、突然顔を出した乙葉と出くわしたのだ。
それが二人の出会いの場。そうして、その場はすでに失われている。
雲が消えたからだ。あの泉があった浮き雲はすでに消失している。
巡る神気の衰勢や流れによって、他愛もない雲が生まれ、そして霧散することは、天乃原では決して珍しくない。
「………………」
「いかがした。なにか不都合でもあるのか」
黙り込んだことを訝しんだのか、こちらを見上げて沼垂主が首を傾げる。
惺壽は平然とした顔でゆるく首を振った。
「いえ、特段」
ここで首肯しようものならまた事態は暗礁に乗り上げる。せっかく沼垂主が乗り気になったのだ。弱みを晒し、解決の代わりに、新しく理不尽な要求を突き付けられても面倒だ。
幸いにも打開策がないわけではない。
こちらの思惑には気づかないようで、沼垂主もあっさりその言い分を信じた。
「そうか。しかしの、すぐに娘を帰すというわけにいかん。儂はこれから雲乃峰に参内する予定だからの。陽乃宮が岩戸に籠られてから長く経ち、月読乃宮もさぞお疲れだろう。お心をお慰めしなくては」
つまり、それが済むまで事を起こすのは待っていろと言いたいらしい。
どこまでも勿体をつけて自分の優位を勝ち誇りたいのだろう。
しかし良い時間稼ぎになるのはこちらも同じだ。
「では、頃合いを見てお迎えに上がりましょう」
「ほ。お主が迎えに? ……それは楽しみだのぅ。事は隠密を要するのだ。場に赴く時は、儂一人でなければならん」
「存じております」
「ならば重畳。――なあ、麒麟。無事にすべてが済めば天乃原を去るという言葉、ゆめゆめ忘れてはならんぞ。麒麟は仁にして義の獣だ。まさか偽りを口にしたわけではあるまいな」
沼垂主がにたりと口の端を歪ませる。
しつこい念押しは悦に浸りたいがため。
強きにへつらい、弱きを虐げるのが、かの番人のいつものやり口だ。
喜ばせてやる義理もないが、親切に諫める筋合いもない。
惺壽は肩を竦めて答えた。
「身命に賭してお誓いします。万事恙なく終わる頃には、御身の前から影形なく消えてみせるとね」
「ふん。よかろう。その憎たらしいほどきらきらしい顔に、散々煮え湯を飲まされてきたが、近々に見納めだと思えばすこしは愛着も沸くものだのぅ」
どれだけの煮え湯を飲んだのかなど、毛ほどの興味も沸かないが、送られたのは惜しみのない賛辞だ。本人がそれに気づいているかは定かでないので、短く「光栄です」とだけ答えた。
訪れた際と同様、人知れず沼垂主の屋敷を辞する。
星の合間を自邸へと駆け戻る惺壽の金色の鬣が、さやさやと夜風にそよいでいた。
(返す返すも誘惑の多い。あれを帰すなとでも言われているようだ)
この局面で最後の難題が降りかかるとは思わなかった。
乙葉を送り届ける道の、その入り口がないとは。
(打つ手がないわけではないが、こうもあちこちから邪魔が入るといささか気が萎える)
他人事のようにそう思った。
まるで試練だ。
惺壽が真実、乙葉を手放せるのかと、なにかに試されているような心持ちになる。
(決めたことだ。あれを留め置いても、あれのためにはなるまい)
そう――留め置くことは、不可能だ。
もう無理だと乙葉に言えば、今度こそあの娘も元の世界に戻ることを諦めるかもしれない。
そうなれば遠慮は無用だ。
こちらに留まる以上、想いを通じ合わせることに不都合はない。
仮に乙葉の正体が人間だと知られ、二人して天乃原のすべてから追われることになろうとも、それはそれで本望だった。
何者からも守り通す自負はある。
身も心も髪の一筋でさえ何者にも傷つけることを許さず、余りある幸福に溺れさせてやることも不可能ではないはずだ。
(――が、あいにく俺の流儀ではない)
たとえ、初めて味わうほどの物狂おしさを抱いていたとしてもだ。
それを愛だの恋だのにすり替えて、一人の女を物にするほど、矜持を失ったつもりはなかった。
乙葉は必ず中乃国に送り届ける。あの娘はそれを心から望んでいる。
ならば、それがどんなに困難な道行であろうと、それを叶えてみせるのが惺壽なりの愛し方であり、矜持だった。
(我ながら理解に苦しむ。たかだか小娘一人に、こうも骨を抜かれるとはね)
どこに惹かれたのだろう。
気が強そうに上がる眉。恐れ知らずのきりりと光る瞳。刺々しい言葉を繰り出す花びらのような唇に、愛らしく澄み切った威勢のいい声。
仕草、表情の一つ一つを思い起こすだけで、胸に熱が広がる。
(衒いもなく打ち明けてみたくもあるな。あの娘がどんな顔を見せるか見物だ)
おそらく頬を染めて、その後、可愛げのない憎まれ口でも叩くのだろう。
決して本気で怒っているわけではなく、ただ決まり悪さを誤魔化すためのものだ。
なぜなら乙葉もまた、惺壽に惹かれていることは間違いないのだから。
これでも数々の浮名を流してきた身だ。こちらを見上げる初心な小娘の、その瞳の奥に揺れるものを悟れぬほど、野暮でも無粋でもない。
だからこそ、こちらが情に流されるわけにいかないのだ。
乙葉もそんな惺壽を望みはすまい。
あれが憧れを向けるのはそんな身勝手な男ではない。
(ならば――どんな俺ならば、あの娘に望まれる?)
つまらない見栄のために、やせ我慢をして別離を受け入れる男だろうか。
そうして自ら手放した想い人を、遠く離れた地から、永遠に恋慕い続けるのだ。 まるで悲劇にでも酔ったように。
不意に白けた。
(……凡庸だな。あれのためにただの男に成り下がるのも悪くはないが)
それはそれで綺麗事に過ぎる気がした。
しかし、天乃原に留めおく気は端からない。
そうして、決して手がないわけではない。
もう一つの道は開かれている。
それを知るのは惺壽のみだ。つまり。
(すべては俺の胸一つ、か……)
そんなことを思った時、ようやく屋敷に帰り着いた。
深い森も、暗い湖も、静寂さを保っている。
屋内には乙葉が一人残されているが、結界は今度こそ役目を果たしたらしい。
降下した惺壽は、いつものように部屋に入ることはせず、暗い湖面に舞い降りた。
そっと四肢を水面に立たされば、わずかな光を弾いて波紋が広がる。
あの反骨精神逞しい娘が、芝居のような悲恋めいた筋立てを好み、別離を易々と受け入れるならば話は別だ。
涙を湛えて見送るべきなのだろう。
(そういう娘ならば俺も決して心惹かれはしなかっただろうがな)
乙葉が、天乃原を訪れる直前に鏡乃社に願ったことを知った時。
それは、泣くほどに初恋に未練を引きずる脆さと、それを凌駕するほどの、なんとしてでも前に進もうとする儚い強さに、醒めた胸の底を揺さぶられた時でもあった。
今まで誰にも本気にならなかった自分が、全身全霊を賭してもいいと思えるほどの恋をした相手は、そういう一筋縄でいかない小娘だった。
(さて。――どうしたものかね)
不意に悪戯心が沸き、知らず知らず口元が緩んだ。
湖面に立ったまま、惺壽は星空を仰ぐ。
道に気づいているのは自分一人だ。
それもまた平凡な筋書きでしかない。
しかし、限られた選択の中では、それが一番面白みを含んでいるのもたしかだ。
(かといって、この胸一つでなにもかも決めてしまうのは、公平であるまい)
恋とは二人でするもののはずだろう。
(ならば、結末はおまえに委ねてみようか、お嬢さん)
笑みが深まった。
これは賭だ。
誰にも本気にならなかった惺壽に、ここまでの献身をさせたのは、ひとえに乙葉が乙葉であればこそ。
ならば、また、恋に目がくらんだ愚かで凡庸な男の行く末を決めるのも、あの娘が相応しいのだろう。




