六章―11.5話
「と、時の狭間を抜ける……?」
呟いたきり、沼垂主は絶句した。
唐突な惺壽の訪問、そして投げかけられた言葉の数々に思考の整理が追いついていない様子だ。
だが、惺壽はそれにさして興味はなかった。
沼垂主が納得しようとすまいと、どうでもかまわない。
ただ協力を取り付けることができさえすれば、それでいいのだ。
(潮時だ。これ以上の滞在は誰にとっても望ましくあるまい)
天乃浮橋の番人然り。
理由もなく天上に招かれた乙葉然り。
あの人間の娘が恙なく中乃国に帰りさえすれば、すべてがあるべき姿を取り戻す。
返答を待つ間、惺壽は平坦な目で沼垂主を見た。
蛙顔の頬や額に脂汗が噴き出している。
その頭の中でどのような計算が働いているのかは定かではないが――
少なくとも、沼垂主にとってこの申し出は僥倖以外の何物でもないということは、理解しているだろう。
なにしろ自分の失態を隠匿できるばかりでなく、うまくすれば、目障りな惺壽が、歪んだ時空の狭間で道を失い、人間の乙葉共々、天乃原から永遠に姿を消す可能性もあるのだ。
(飲まない手はないが……さて)
急かしもせずにひたすら待つのみだ。
やがて皮算用が済んだのか、沼垂主はぎょろっと目を動かした。
「なにを企んどるんだ」
惺壽の思惑が気になったらしい。
なにしろ今まで仇敵と憎んできた相手からの申し出だ。
どうやら大喜びで飛びつくほどは愚かでないらしい。
(さて――どう答えたものかね)
まさか、乙葉がそれを望んでいるから――などとは言えまい。
この男には打ち明ける必要のない事実だ。
そして、素直にそう言ったところで沼垂主が信じるはずもない。
沼垂主でなくても一笑に付すだろう。
この自分が、一人の娘のために心身を賭す覚悟などということは。
惺壽は表情を変えず、ひょいと肩を竦めた。
「なにも。そろそろ独り身の気ままさが恋しくなっただけです。子守にかこつけてばかりでは、夜毎人目を忍ぶ恋など楽しむべくもないのでね」
「ふざけるな、そんな理由で命を賭ける者がどこにおるというんだ」
「おそれながら、ここに一人」
口調は平坦さを失わない。
沼垂主は勢いをつけてぴょんと椅子から飛び降りた。
「ふん、世迷言を。どうせあの鳳凰と結託してなにか企んどるに違いないわい」
疑心暗鬼の根は深い。
どうやら梛雉の裏切りが尾を引いているようだ。
(やれやれ。あれと同列にされても困るんだが)
内心で友人をこき下ろしつつ、惺壽はひょいと肩を竦める。
「あいにく鳳凰と違い、麒麟には、耳障りよく囀る芸当はありませんよ。――もう少々あけすけに言えば、あの娘にこれ以上、手間を取られるのが心底面倒なだけです。ご存じでしょう、私の性質は」
沼垂主の眉がぴくりと上がる。
若干心動かされたらしい。
過去、雲乃峰に出仕していた頃の惺壽の怠惰ぶりを知っているからだろう。
我ながら、天照陽乃宮や月読乃宮の命をことごとく無視して憚らない傍若無人さだったのだ。
「だからといって、お主が自ら娘を送り届ける必要はなかろう。儂に引き渡せばそれで済む話だ」
「そうもいかないのですよ。あれとはすでに、私が力を貸すと話をつけましたのもでね。一度約定を結んだ以上、身勝手に破るわけにもいきますまい」
「今まで散々に身勝手にしておきながらどの口が言うか。信じられるわけがないわい。……そうだのう、それとも、儂がお主の要求を飲む代わりに、儂の出す条件を飲むというのなら考えてやらんでもないが」
にやりと蛙面が微笑む。なにかよからぬことを思いついたらしい。
しかし惺壽は涼しい表情を崩さなかった。
むしろこれは好機だ。
「条件とは?」




