六章ー10話(改稿済み)
「……だったら、なんなの」
ようやくそれだけ言った。
梛雉は朗らかに答える。
『なにって、いやだな。もちろん二人を祝福させてほしいだけだよ。惺壽にとって乙葉嬢が特別ということに変わりはないし、……見たところ、乙葉嬢も惺壽に惹かれているよね?』
さらりと爆弾発言だった。
たちまちかあっと乙葉の頬が染まる。
「ち、違うわよ! 惺壽の気持ちだって勝手に決めつけるのは……!」
『あれ、そうなのかい? ちなみに惺壽の気持ちは決めつけじゃなく、ただの事実だよ』
「なんで言い切れるのよ」
『簡単だよ。自慢じゃないけれど、私のほうが彼との付き合いは長いから』
至極もっともな答えだ。信憑性がある。
動揺してぐっと詰まった隙にさらに畳みかけられた。
『逆に言えば、乙葉嬢とは知り合って日が浅いから、そうだと決めつけるわけにいかないね。……だからちょっと教えてくれるかい。乙葉嬢、惺壽のことは嫌い?』
立て板に水のような言葉。
目の前にいるのは瑯鳥なのに、一切の有無を封じる梛雉の極上の笑顔が見える。
(さ、詐欺師の本領発揮だわ……!)
べつに騙されたわけでもなんでもないが、内心で罵らずにいられなかった。
惺壽を嫌いと言えないことを見越して、梛雉はこんな問いかけをしてきたに違いない。人の心を操るのに長けた詐欺師のやり口だ。
(嫌いだなんて……)
嘘でも言えない。いや、いつもなら言えるかもしれないけど、今は余裕がない。
しかし降参するのも癪で、乙葉はぷいっと不機嫌顔を背けた。
「だからって祝福される理由はないわ。どうせ、もうすぐわたしは帰るんだし」
『え? なぜ?』
「な、なぜって、そっちこそ、なんでそんな不思議そうに聞いてるのよ!? 元の世界に帰りたいって思うのは当然でしょ!」
『もちろんそうだろうけれど、惺壽のそばに留まるのも悪くない選択だと思うよ? 彼ならきっと乙葉嬢を大切にしてくれる。注がれる幸福は、失ったものを補って余りあるほどに』
優しい声だ。
甘くそそのかす悪魔の誘惑にも聞こえる。
乙葉が一生天乃原に留れば、元の世界に残してきた大切なものすべてを失うことになる。
それでも梛雉はここに残ればいいと言うのだ。
そして、その囁きにひどく心が揺れるのも事実だった。
(惺壽を選べば……)
もし本当に惺壽が乙葉を特別だと認めていて、乙葉も同じものを返せば、あるいは、このままずっとそばにいることも可能かもしれない。
最初は悲しいだろう。
それでも惺壽のそばでなら、その傷もいつか癒えるかもしれない。
乙葉はきゅっと唇を噛んだ。少し俯くと、はらりと髪が頬にかかる。
「……無理よ。だって、元の世界まで送り届けてくれるって言ったのは、惺壽だもの」
その一言で梛雉も察したらしい。
『そう。……じゃあ、そうなんだろうね』
明るかった声がすこし低くなる。どこか残念そうな、労わるような声でもあった。
居たたまれなくなり、乙葉はことさらに声を高くして詰る。
「だいたいね、月読乃宮にわたしのことを言ったんでしょ? もしそうなったら、人間だってバレる可能性が高いのよ。のこのここっちに長居するわけにいかないでしょ」
『ああ、あれなら嘘だよ。さすがに月読乃宮に乙葉嬢のことは話してない』
「は? なんでそんな嘘……」
『沼垂主どのにもうすこし頑張ってほしくてね。惺壽の乙葉嬢への気持ちがよりはっきり分かるように。もしかしたら、それで惺壽が乙葉嬢を連れてどこかに逃げるかもしれなかったけれど、それはそれで素敵な愛の逃避行だ。二人は永遠に伝説になったんじゃないかな? ははは』
梛雉は明るく無邪気に言う。まるで悪気がないらしく、そして彼の頭の中には乙葉と惺壽をどうこうするという、その一点しかないらしい。
(だめだわ。もうこの人に何言っても無駄……)
惺壽は惺壽でへそ曲がりだが、ある意味、梛雉も我が道を行く人だ。
「割れ鍋に綴じ蓋……」
『え? 鍋がどうかしたかい?』
「なんでもない……惺壽と梛雉がそういう関係に見えただけよ」
『? ふぅん?』
梛雉は首でも捻っているようだ。
疲れ果ててがっくりと肩を落としていた乙葉は、一つ、ため息をついて続けた。
「とにかく――もう、わたしが帰るのは決まったことだから、これ以上、よけいなことしないで」
頭を切り替えるように、釘を差した。
答える声には穏やかな笑みが混じっている。
『分かった。もう君たち二人がいろいろなことに気づいて、その上で決めたことなら、残念ながら私に口出しする権利はないよ。……ただ、乙葉嬢』
「なに」
『もし気が変わったら、その時はぜひ、惺壽のそばにいることも考えてあげてほしいな。彼が一人になるのを見るのは、友人としても悲しいから』
言葉に詰まった。
だが、どう返していいのか分からず、結局いつもどおり不愛想に言う。
「だから、惺壽はそういうお節介が一番嫌いよ。ついでに言うとわたしもね。だいたい梛雉のせいでひどい目に合ったのに、頼みを聞く筋合いなんてどこにもないわ」
『ああ、袖にされてしまったね。優しい乙女を怒らせてしまったかい?』
もちろん怒っている。
ただすぐにそう言えなかったのは、梛雉の余計なおせっかいがなければ、乙葉はたぶん、惺壽に惹かれることはなかったからだ。
「怒ってるわよ、もちろん」
一瞬の間を誤魔化すように、わざと眉根を寄せて、つっけんどんに答えた。
梛雉はどう受け取ったのか、くすりと笑っている。
『ごめんね。可愛い人。許してほしいとは言わないよ。ただ――ごめんね』
木戸を開くと、今まで遮られていた月光がさっと室内に差しこんできた。
目を細めた乙葉の肩を掠めるように、赤い瑯鳥がさっと夜空に飛び立っていく。
梛雉の下に戻るのだ。正確には、梛雉の手元にいる番の下に、だが。
たちまち星空の彼方に紛れていった小さな孤影を見送り、乙葉は、こつんと木戸に頭を凭せかけた。
(ごめんねで済む話じゃないわよ)
沼垂主のことも然りだが――惺壽に巡り合わせたこともそうだ。
乙葉と惺壽、二人が惹かれ合うことを、梛雉は半ば確信していた。
そこまで緻密に計算高くありながら、なぜ二人が別離を選ぶことを考えなかったのだろう。その時に残るのは傷跡だけだ。
あるいは、あの沼垂主の性格上、素直に乙葉に天乃浮橋を渡らせることはないとタカを括ったかもしれない。
だが、もうなんでもいい。
なんであれ、乙葉は帰るのだ。他ならぬ惺壽がそう約束したのだから。
離れ離れになる。――それでも、惹かれたことに後悔はない。
(だって、もう充分なくらい、大事にされたんだもの)
梛雉の言うように、惺壽が本当に乙葉を特別だと思っているのかは、分からない。それでも、乙葉のために時空の歪みを越えると言った彼の言葉は真摯だった。
――……ささやかな矜持だよ、お嬢さん。
なぜそこまでするのかと問えば、答えはそんな一言だ。
その真意も明らかではない。
けれど、もし――もし、それが、すべて乙葉のためだったら?
乙葉が元の世界に戻ることを望んでいるから、彼は、敢えて自分の欲望には従わなかったとしたら。
それは矜持という言葉に裏打ちされた、惺壽のひそやかな愛情だ。
そしてそれは、実に彼らしい形だとも思う。
(へそ曲がりだから。……それとも、見栄っ張りっていうべき?)
木戸にもたれかかったまま、乙葉はくすりと笑った。
それくらい想われているのだと、月明かりの中、一人、己惚れてみる。
なかなか悪くない。
胸の奥がくすぐったいような気がした。
けれど、今だけだ。決して本気で自惚れはしないし、もちろん、惺壽の前でそんな素振りを見せたりはしない。
惺壽は乙葉を手放すことを選んだ。
恋の成就を、彼は望まなかった。
だからもう、乙葉も、彼の深い胸の底から目を逸らす。
(なにも変わらないから)
たとえ本当に想い合っていたとしても、結末は見えている。
だったら、これ以上、傷を深くすることもないだろう。




