六章ー9話(改稿済み)
改稿しました。
長い廊下の先に惺壽の姿はもうなく、乙葉は一人、寒々しい夜の廊下を歩いていた。
(これからどうしようかしら……)
どうしようもない。
元の世界に帰って、今まで通りの日常生活を送るだけだ。
天乃原に来て、もう何日が経っただろう。
ずっと陽が昇らないので、日数感覚が狂っているが、少なくとも六日は経過しているのだ。
(あっちでは捜索願とか出されてるわよね。絶対……)
乙葉が中乃国に戻ったら、たぶん大騒ぎになるだろう。言い訳はどうしようか。
ぼんやり考えながら冷ややかに光る廊下を歩き、自分の部屋にたどり着いた。
木戸を開いて中に入る。たちまち。
『――御機嫌よう、乙葉嬢。無事に戻ってなによりだよ』
狭い室内に聞き覚えのある声が響いた。
まだ木戸に手を掛けたままだった乙葉は、瞬いて周囲を見回す。
部屋の中にあるのは寝具、そして壁際にささやかな小さな文机と箪笥だけだ。
さ迷った視線が、その文机の上に留まる。
「……梛雉?」
机上には、三本足の小さな赤い小鳥がいた。
こんな鳥、部屋に入れた覚えはない。
『そうだよ。これは瑯鳥といってね。番同士をそれぞれ手元に置いておけば、離れた場所にいても話をすることができるんだ。乙葉嬢と話がしたかったんだけれど、たぶん私本体は近寄らせてもらえないだろうから、惺壽の目を盗んでこちらに放させてもらったというわけ』
つぶらな瞳の小鳥は、歌うような梛雉の声を発する。
どうやら惺壽の留守を狙い、乙葉の部屋に忍びこんだようだ。
ということは、沼垂主たちとの追いかけっこで散らかったはずの屋敷を片付けたのは家主ではなく、彼だろうか。
「……わたしと話って、どういうつもり? おかげで散々ひどい目に合ったんだけど」
乙葉は後ろ手に木戸を閉め、そのまま背中をくっつけた。
瑯鳥からは距離を取ったままだ。彼のせいで一時誘拐された身としては当然だ。
その様子が見えているのかは不明だが、梛雉もさすがに声の調子を落とした。
『ごめんね。悪かったと思っている。なにがあっても惺壽が君を守ると思ったから。一応、万が一に備えて、信頼できる方に乙葉嬢を迎えにいってもらうよう仕込んだのだけれど』
「迎えって……鈿女さん?」
『沼垂主どのは天乃原一の愛妻家だからね。細君のお願いを無下になさる方じゃないよ』
「愛妻家かはともかく……鈿女さんに、沼垂主がわたしを攫うことを教えたってことね」
鈿女君に迎えを頼んだ。
それはつまり、沼垂主の行動を見越していたということだ。
そして夫のそんな暴挙を知らされれば、当然、妻はその理由について不審に思うはず。
(やっぱり鈿女さんは、わたしが人間だって知ってる?)
それを打ち明けたのは梛雉。
そう考えるのが妥当だろう。
『まさか。ご婦人にそんな直截なことを伝えるなんてできないよ。卒倒してしまうからね。私はただ、ご夫君が惺壽をひどく羨ましがっていて、彼の手元にいるようなお嬢さんを新しく館に迎えようとしているようだと、ひそかにお教えしたまでさ』
明るく言うその内容はめちゃくちゃだ。
夫が愛人を囲おうとしていると知って卒倒する妻だっているはず。
(あの鈿女さんなら例外かもしれないけど)
惺壽を「見目が麗しくてそれだけ」と言ったことを思い出しつつ、探るように瑯鳥を見る。
「結局、なにがしたかったのよ。やっぱり、目的は復讐? 沼垂主を悪役に仕立てて惺壽に活躍させたかったの?」
梛雉が、乙葉を攫うように沼垂主を焚きつけたのは、それを惺壽が見過ごすはずないと踏んでいたからだろう。
うまくいけば彼の救出劇は美談として天乃原に轟いた。
そうして同時に、それは沼垂主の失脚を指している。
人間を招いた挙句、その失態を、乙葉の存在ともども隠匿しようとしたのだ。
天乃浮橋の番人の名声は地に落ちる。
かつて惺壽が沼垂主によって失脚させられたように、今度は惺壽の正義の行動が、沼垂主を失墜させる。
裏で糸を引いた梛雉は間接的に、そして糸に操られた惺壽もまた、間接的に復讐を果たすと言えるだろう。
ともかく乙葉を惺壽に預けた時から梛雉の筋書きは始まっていた。
『復讐? それは誤解だ。もし私がそれを望んでいたのなら、鈿女君にご出動を願ったりしなかったよ』
「え?」
『だって、そのまま放置した方が、沼垂主どのが幼気な乙女にむごい仕打ちを働く機会が増えるだろう? そちらのほうが後々、彼の方の名を貶めるのに効果的だ』
「………さらっとすごいこと言ったわね」
『ただの事実だよ。実際にはそうはしなかった。……私はただ、乙葉嬢の可能性について試してみたかった。それだけだよ』
「可能性?」
『あの惺壽が、君を背に乗せたと知ったときにね。これは可能性があると思ったんだ。だからもうすこしだけ、乙葉嬢に彼のそばにいてほしいと思った』
「……どういうこと?」
もうすこしいてほしい。
それは、“本当はすぐ帰れるけれど”という言葉に繋がる。
(わたしが惺壽の背中に初めて乗せてもらったのって……)
たしか天乃原に来た翌日のことだ。
あの時すでに、梛雉は中乃国に戻る方法を掴んでいたのだろうか。
(時空の迷路を越えなくちゃいけないってことを? ……ううん、それはないわ)
それは発覚したばかりの事実だ。
前々から梛雉が把握していたとは思えない。
ただ、乙葉をさっさと元の世界に帰す意思があった。
そうとだけ受け取るべきだろう。
『そもそもの話をするけれど、乙葉嬢を惺壽に預けたのは、本当に君のためでもあった。あの時点で沼垂主どのの思惑も分からなかったから、安全な場所に匿う必要があると思ったんだ』
「はじめはそうだったかもしれないけど、途中で、考えが変わったんでしょ?」
沼垂主に乙葉の正体を打ち明けたのは梛雉だ。
そうすれば否応もなく乙葉が危険な目に合うだろうという推測はついていたはず。安全に匿うどころの話ではない。
『そう。そしてそれは、乙葉嬢を乗せた話を聞いたついでに、惺壽から、一頭の天虎が沼垂主どのの命を狙っていると教えてもらった時でもあった』
初めて惺壽の背に乗って出かけた先で、乙葉は赤目の天虎に狙われ、その後、沼垂主と鉢合わせたのだった。
『天虎の習性からすればとても異常な行動だ。なにか深い理由があるに違いない。……そしてすぐに合点がいったよ。その時点で、私は、沼垂主どのが陽乃宮に献上する騎獣を探していらっしゃることを、とある方からお聞きしていたからね』
つまり、天虎と騎獣探し。そして現れた人間の乙葉。
この三枚の札を梛雉はとっくに手に入れていた。
ならば乙葉が天乃原に迷い込んだ経緯にも察しがついていたはずだ。
だが、彼はそれを伏せた。
その理由は、乙葉を惺壽のそばに置きたかったからだと、そういうことらしい。
「……とある方って?」
『沼垂主どのが目に入れても痛くないほど可愛がっておられる、唯一のご令嬢』
「海琉姫?」
沼垂主の令嬢といえば、すなわち鈿女君の間に生まれた末姫の海琉姫だ。
驚くほど可憐な声と、驚くほど沼垂主そっくりの姿をした海琉姫には、乙葉も初対面したばかりだ。
『ああ、乙葉嬢も海琉姫にお目にかかったんだね。彼女はいつも、私がご挨拶に伺うと、あの愛らしい声で色々なお話を一生懸命聞かせてくださるんだよ』
「たぶらかして口を割らせたの間違いじゃないの? 鈿女さんが怒るのも当然よね。あんな小さな女の子まで毒牙にかけるほど節操なしとは思わなかったわ」
『誤解だよ。無垢で幼気な姫君に、そんな不埒な真似をする非道者に思われているの?』
「乙女心を利用してる時点で充分非道よ。……それに、梛雉がさっさと教えてくれてたら、わたしはもっと早く、元の世界に帰れてたかもしれないんだから」
乙葉は文机の上の赤い小鳥を睨んだ。
たとえ帰ることは無理でも、その情報を掴んでいれば、少なくとも早いうちに対策を立てることはできていたはずだ。
『乙葉嬢に帰ってほしくなかったからね。惺壽の背を許された君は、彼の特別になれるかもしれない。その可能性を試してみたかったんだ』
梛雉は申し訳なさそうに言った。甘えるような口調だ。こちらの情につけ込むように。
それに絆されたわけではないものの、乙葉の胸に困惑が広がった。
(惺壽の――特別?)
瞬いているうちにも滔々とした声が続く。
『惺壽は誰も背に乗せない。数々の恋人も、天上を統べる天照陽乃宮でさえ、どんなに願っても彼を乗りこなすことは不可能だ。それこそが、惺壽が孤高――誰にも心を許さず、なににも本気にならない、へそ曲がりな麒麟だと言われている所以でもある』
そんな中、彼の背を許された乙葉は異例中の異例――たしかに特別かもしれないが。
「単純に、わたしが空を飛べないから仕方なくよ。初めて惺壽の背中に乗せてもらったのだって、湖に落ちそうになったとこを仕方なく拾っただけだったわ」
『惺壽は優しいけれど、そんな単純な理由で誰かを乗せたりしない。彼の背を許された時点で乙葉嬢はすでに惺壽の心を動かしていた。そうだとしか考えられない』
言い切る梛雉だ。乙葉はわずかに眉を下げた。
「……なにかした覚えはないけど?」
『意図しない仕草や言葉が、誰かの心に深く響くことだってあると思うけれどな』
にっこり笑う顔が見えるようだ。
そして筋の通った
言い分だった。思わず動揺するくらい。
(惺壽の特別……)
心がざわめく。
それを抑え込むように、乙葉はさらに強く木戸に背中を押し付けた。
「……なんで、そんなにわたしを惺壽の特別にしたがるの」
『したがるんじゃなくて、そうなんだよ。君は間違いなく惺壽の特別だ。――乙葉嬢が攫われたと知った時、あの惺壽が、見たこともないほどの怒りを見せたか知っている?』
その一言で心臓が跳ねた。
(惺壽が……)
もしそれが本当なら。
そう思うと、困惑と鼓動が加速していく。
あの惺壽が乙葉のために怒った。いつも、ろくな感情を見せない惺壽が。
だとしたら、それは、――本当に乙葉が彼にとって特別な存在だという証みたいだ。
『今まで惺壽は誰にも本気になることはなかった。だから、どうにかして彼に特別な存在を作ってみたかったんだ。そして乙葉嬢が現れた。だから沼垂主殿にご協力をいただいた。惺壽が乙葉嬢から目を離せない状況を作るために、手を貸してもらったというわけだよ』
続く言葉に、はっと我に返った。今考えるべきはそれじゃない。
動揺を引きずりながら、乙葉は必死に思考を巡らせる。
「つまり、惺壽がわたしに構うように沼垂主を焚きつけたってわけね」
『そう。彼の性質は本来、仁だ。目の前で幼気な乙女が狙われると知って見放しておけるわけがない。そうやって強引にでも接近させないと、却って乙葉嬢と距離を取るかもしれないからね、惺壽は。そうなると特別だと確かめようもないだろう』
「どうして、そこまで……」
梛雉の計算は正しかった。
惺壽は弱者を見放せる人ではない。
その心理をつき、沼垂主を操ることで、敢えて乙葉に構わざるを得ない状況を作ったのだ。おかげで乙葉と惺壽は思いがけず深く関わり合うようになった。
けれど、その理由が未だに見えない。
『惺壽はとても強くて優しいけれど、それを自分で知っているだけに、他人の評価を気にしない。だからこそ誰かや世界と積極的に関ろうとしない。ある意味、とても冷淡な人だよね。根が醒めきっている。……友人として、私はそれが少しだけ寂しいんだ』
寂しい。
その一言に乙葉は瞬いた。
そうして唐突に、梛雉の真意を理解した気がした。
(ああ。梛雉は梛雉なりに、惺壽を心配してるんだわ……)
惺壽は誰にも本気にならない。
柵や枠に捕らわれない彼が従うのは、ただ己の高潔な信念だけだ。
そこに他者の存在が入る余地はない。
つまり誰にも認められてなくていい。誰にも必要とされなくていい。
裏を返せば、惺壽も誰も必要としていないのだ。
誰かを心から必要として、その誰かに必要としてもらえる喜びを、知らない。
――誰かで変わるような己など、はじめから存在しないに等しい気もするが。
いつだったか、惺壽自身もたしかにそう言いきった。
それを聞いた時、たしかに物寂しく感じたものだ。
この人の心の奥には、誰も手が届かないのだと。
(……それでも、惺壽は優しい)
乙葉は俯きがちにきゅっと唇を噛んだ。
過去、鈿女君や沼垂主との間に起こった一件を考えても、それは間違いがない。
たしかに惺壽はとても傲慢で冷淡かもしれないが、それでも、誰よりも強く、優しいことに変わりはないのだ。
だからこそここで梛雉に流されるわけにいかなかった。
彼にすれば真心と友情を捧げているつもりでも、沼垂主も乙葉も、そして当の惺壽も散々振り回された。許せるはずがない。
顔を上げた乙葉は、強く瞳を光らせた。
「惺壽がそれでいいなら、いくら友達でも、梛雉に口出しする権利なんてないわ。それに惺壽はそういうお節介が一番嫌いなんじゃない?」
『たしかに私のしたことはよけいなお節介だろうね。けれど、敢えてそれができるのも、私一人だけなんだ。他の人はみんな、そういう惺壽を変えようなんて思わないみたいだから』
「変えたくても簡単に変わるわけないもの。当然よ」
『けれど、そこで諦めたらなにも変わらない。できないとやらないのは別物だよ。……だって、現に彼は変わっただろう? 変えたのは君なんだよ、乙葉嬢』
再びその話を振られて、息が詰まる。




