六章ー8.5話(改稿済み)
改稿しました。
「どうして……」
不意に、彼の手がゆっくり持ち上げられた。
それがこちらに伸ばされるのを見ても乙葉は身じろぎもしない。
待ち受けるように瞬きを一つ。
指先は掠めるように頬を撫でた。
「……ささやかな矜持だよ、お嬢さん」
低い声が夜気を震わせる。
あたたかな指先は柔らかな髪を梳くように離れていった。
静かな瞳でこちらを一瞥し、惺壽は踵を返して部屋を出ていってしまった。
一方の乙葉はしばらくその場に立ち竦んだまま、動けずにいる。
(矜持……)
どういう意味だろう。
優しいから。それとも義務感? 分からない。
分からないけれど。
(――好き)
自然にその一言が浮かんだ瞬間、はたはたっと瞳から涙が零れた。
自分でも驚いてぱちぱちと瞬く。
その拍子に、目の縁に溜まっていた涙がまた頬を伝った。
「な、なに泣いてるのよ。泣くようなことじゃない……!」
両手を持ち上げ、閉じた瞼に制服の袖口を押し当ててもまだ止まらない。
「……うー……」
ずっと前から気づいていて、素直になれず、見ないふりをし続けてきた感情だった。
なぜ今さら、その名前に気づく羽目になったのだろう。
(惺壽がらしくもなく、あんな気障な台詞を言うからだわ……)
――荒れ狂う嵐中を疾風のごとく駆け抜けよう。
そう言い、乙葉を連れて必ず時空の迷路を越えると約束してくれた。
その揺るぎない言葉にどれだけ心が揺さぶられたか。
(今さら好きだって気づいたって仕方ないのに。だってもう、わたしは帰るんだから)
惺壽ならば、言葉通り、必ず乙葉を中乃国に連れ帰ってくれるだろう。
なにが待ち受けるのか分からない時空の歪みに“必ず”なんて保証はないが、それでも、乙葉は惺壽を信じている。
ならば早晩、自分は元の世界に帰れるはずだ。
そうしてその時、惺壽には二度と会えなくなる。
(自覚した途端これって……どれだけ恋に縁がないのよ、わたし)
二度目の失恋確定だ。
そういえば一度目の失恋の痛手はどこに行った?
忘れるくらい、乙葉の胸の中は惺壽で占められている。
「あー……もう……」
嬉しいやら悲しいやら、自分で自分の気持ちがよく分からなかった。
元の世界に帰れる。――それは本当に嬉しい。
(帰る……)
ならば引き換えに、名付けたばかりのこの気持ちは、手放さなければならないのだ。




