六章ー7.5話
火照った頬を夜気が切る。
セーラー服のスカートが後方にはためいた。
「そういえば、こんなにのんびり惺壽の背に乗るのは初めてね」
紺色に染まった雲に文字通り手が届きそうな距離。
満月は地上で見るよりも大きく、藍空に縫い止められたような星々は燦然と瞬いている。
目的地のないドライブのようなものだ。のんびりと景色を楽しむ余裕もある。
ふわふわと髪を靡かせながら声を張り上げた乙葉に、麒麟姿の惺壽は前を向いたまま答えた。
「のんびりね。これでも俊足を自負しているつもりだが」
「そういう意味じゃなくて。……でも、もっと速く走れるの?」
何気なく尋ねた瞬間、ぐんっと身体が前に引っ張られる錯覚に襲われた。
「い、いきなり速度上げなくても!」
「おや。お望みではなかったかな、お嬢さん」
やや速度を緩めて惺壽が言った。どこか悪戯っぽい声だ。
(こわがらせたかったの?)
悲鳴でも聞きたかったのだろうか。ならば反撃あるのみだ。
「もっと速くなってもいいわよ」
乙葉はしれっと言ってのけた。あいにく疾走感も絶叫マシーンも嫌いじゃない。
しかし――がくんと身体が沈んで目が点になる。
「え……」
視界が百八十度逆転。
どうやら惺壽が方向転換をしたらしい。
つまり真っ逆さまに落下している。
「ちょ、ちょっと落ちろとは言ってな……!」
遥か下方には月を映した暗い湖が見える。
疾走の勢いは緩まない。さざ波を立てる水面はすぐに迫った。
「……っ!」
目も瞑れないまま息を呑んだとき、またふわりと身体の向きが変わる。
ぎりぎりで落水を避け、惺壽は今度は湖の上を優雅に駆け始めた。
「つ、突っ込むかと思った……」
「そうしてもよかったが、たいそう居竦んでいたようなので哀れになってね」
答える声は悠々としたものだ。
結局手の平で転がされたらしい。
「べ、べつにこわかったんじゃなくて、ちょっとびっくりしただけよ。息が出来なくなったらどうしようって」
唇を尖らせて言う。ただの強がりだ。それすら打ち返される。
「問題ないな。神力を用いれば、呼吸どころか髪の一筋さえ濡らすこともない」
「……そんなことできるの?」
「試してみるか?」
平然と返され、ちょっと戸惑った――けれど。
「潜ってみたい」
好奇心に負けた途端、湖面を駆けていた惺壽の前肢がばしゃっと水中に沈む。
ぐんっと傾いた視界に暗い水面が迫り、乙葉は条件反射で目を閉じた。
耳元に立つ盛大な水飛沫の音。
しかし水の冷たさは感じない。
おそるおそる目を開いてみれば、広がる光景に思わず声が漏れた。
「きれい……!」
水面から差し込んだ月の光が、湖の底をほの青く染め上げている。
黒く細かな土が堆積した水底に揺れるのは、白銀色の珊瑚のような水草だ。
所々には金色や桃色の水中花も咲き誇り、静かながらも華やぎを添えている。
「本当に息ができるのね。すごい、どこ行っても無敵じゃない」
「永遠にというわけではない。俺の気力が持つ限りだ」
「ふぅん? でも、それでもすごいわ。惺壽と一緒ならどんな冒険できそうね」
「お望みなら雲の果てまでも、我が背の君」
おどけたような言い方だ。
乙葉はふっと笑みを落とす。
(雲の果てなんてあるのかしら)
あるのなら見てみたい。惺壽と一緒ならできる気がした。
「とりあえず星が見たいわ」
わがままに命じる。
優美な双角の麒麟は従順に従った。
水面上に飛び出した惺壽の勢いに、飛沫が跳ね上げられ、水の雫は月光を受けてきらきらと輝く。
爽やかな風の匂いが胸いっぱいに流れ込んだ。
そのまま惺壽は星空に向かって急角度で上昇し、その途中で、いきなりぐるんと一回転した。
「すごい、ジェットコースターみたい! 楽しい!!」
回る視界にも、もう慣れたものだ。
髪を逆さに流しながらはしゃぐ乙葉に、しかしいつもの嫌味もつきものだった。
「大した胆力に恐れ入るよ。女の端くれならば、嘘でも涙の一粒でも流すものだろうが」
「端くれでさえなくて悪かったわね。だいたい、今さらそんなことしたって惺壽は騙されたりしないでしょ。だったら猫被るだけ無駄よ」
「なるほど、道理だ。こちらとしても無理に作った料では白けるだけだろう」
「一言多いわねー。やろうと思えば、それなりにか弱くもなれるんだからね。……だいたい、そんな心配しなくたって惺壽がわたしを振り落とすわけないじゃない」
再び天地が元に戻る中、むくれた声で言う。
返事までに一瞬間が空いた。
「……大した信頼を寄せていられるようだな」
(なんか引っかかる言い方だけど……)
いつもの嫌味っぽく聞こえるが、棘を感じず、乙葉は内心で首を捻った。
(信頼、してるわよ。誰よりも)
心の中で繰り返す。
惺壽は、口が悪くて性格も悪いが、誰よりも強く、優しい人だ。
その信頼は揺るぎない。
(……鈿女さんから聞いたって言っても、惺壽は『そうか』って言うくらいよね。きっと)
沼垂主と鈿女君の仕打ちに、惺壽が差し返したものをなんと呼ぼう。
憐れみ。慈悲。それとも憐情?
いいや。へそ曲がりな彼のことだ。そんな殊更な言い方を好むわけがない。
他人がどう思ったところで、きっと彼にとっては息をするように自然な決断だったはずだから。
だから、これ以上ここで話を蒸し返したら気を悪くするかもしれない。
そう思うと、なんと切り出せばいいのか分からなかった。
「さて。恐れ多くも俺の鞍上が信頼に足るというのならば」
不意の言葉にはっと我に返る。
そんな反応には気づかなかったらしく、惺壽は淡々と続けた。
「何処へ赴こうと、おまえは今と変わらず背に留まっていられるか」
「う、うん……?」
動揺を引きずりながらも頷きを返す。
すると珍しくも念押しのように尋ねられた。
「たとえどんな嵐が吹きすさぶ通い路でも、か?」
「くどいわね。絶対にこわがったりしないわよ。なに、本当に冒険にでも行くの?」
「さて。どう捉えるかはおまえ次第だが。――中乃国までの道中、時空の狭間はたいそう荒れるだろうと思ってね」
何気ない言葉に乙葉は目を見開いた。
――中乃国までの道中?
更新時間がばらついてもうしわけありません;




