六章ー7話
乙葉を惺壽の屋敷に送り届け、鈿女君は海琉姫を連れて自分の屋敷に帰った。
しかも護衛代わりに従者の何人かを置いていってくれたのだ。
彼らは屋内に上がることを頑なに拒み、屋敷の外周を見張ってくれている。
(惺壽……どこ行ったのかしら)
湖に面した部屋の真ん中で、乙葉は、整然と置かれている脇息と敷物に目を落とした。
どちらも沼垂主の従者たちとの追いかけっこで蹴散らした覚えがある。が、今はそれは元通りだ。他にもいろいろと散らかしたはずだが、雑多な印象はない。
誰かが片づけたということだろうが――惺壽だろうか。
(そんな余裕があったってこと?)
今再び、彼の姿は見えない。
乙葉を探しにいったのかもしれない。
だとしたら行き違いだ。惺壽が戻ってくるのを待つしかない。
まあ、鈿女君の従者のおかげでもう攫われる心配もないし、一人の留守番でも安心安全ではあるが。
(安心……なにが?)
元の世界に帰る可能性が叩き潰されたというのに。
天乃浮橋は渡れない。
どうしても中乃国に戻りたいのなら、歪んだ時空を超えるしかない。
そしてそれは危険を伴う。――伴うどころじゃない。
危険の只中に飛び込むということだ。
いくら負けず嫌いでも、そこまでの向こう見ずな勇気は持てるわけがない。
「…………」
佇んでいると、流れた夜風がふわりと髪を揺らした。
頬にかかったそれを押さえ、何気なく顔を上げた乙葉は、わずかに目を見開く。
「惺壽……」
雲間から筋状に差し込んだ月光の中に、優美な獣の姿が浮かび上がっていた。
細波の湖上に留まった麒麟の淡い金の鬣は、風にそよぐ度に燐光を放つようだ。
怜悧な薄青い瞳がじっとこちらを見ている。
気圧され、乙葉はしばらく動けない。
やがて、麒麟姿の惺壽はかすかに息をついたのだった。
「……息災でなにより」
その言葉にぱちりと瞬いた。
「も、もしかして、今までわたしを探してた、の?」
「道中で鈿女君に行き会わせ、引き返してきたところだ」
惺壽はゆっくりとこちらへ歩き出しながら答えた。
やはり、乙葉を探しにいってはいたようだ。
自分の住処を片付けたその後で。
(ちょっと、なに卑屈になってるのよ)
惺壽が真っ先に迎えに来てくれなかった。
そんな些細なことが気にかかってしまう。
怒っているわけではない。どちらかというと――寂しい。
彼の中で乙葉の優先順位は高くないのだと、改めて突き付けられた気がして。
(……だめだ。わたし、弱ってるみたい)
いつもなら、こんなことでへこたれる自分ではないのに。
それくらい衝撃だったのだろう。
天乃浮橋の番人に突き付けられた事実が。
そうして鈿女君から知らされた、色々な真実も。
「――どうした」
思ったよりも近くで声がし、乙葉ははっと顔を上げた。
いつの間にか惺壽はもう目の前だ。
なにかを探るように覗き込んだ瞳に焦りを覚える。
「な、なんでもない……ちょっと考え事してて……」
「やはり、なにか沼垂主に手出しをされたのか」
厳しい声で問い詰められた。
やはりと言うからには、鈿女君から、事前に乙葉の無事を聞いていたのかもしれない。しかし今、暗い顔を見て心配したのだろう。
そう思うとすこし胸が温かくなった。
「大丈夫。なんにもされてないわ。むしろわたしがあっちに噛みついたくらいだし」
わずかに笑って答える。
すると一瞬、間が空いた。
惺壽が変な目でこちらを見ている。
「? どうかした?」
「……いや。よくよく口を漱いでおけ。他の男で汚すな」
「汚……た、たしかにきれいではないけど」
沼垂主に噛みついた口元を制服の袖で拭った覚えがあるので、自分も強くは窘められない。
「……その鈍さも見上げたものだが、俺の未練がましさも大概だな」
「え?」
「戯言だ。聞き捨てろ。――さて。沼垂主が原因でないなら、おまえの顔を曇らせていたものはなんだ?」
今度は乙葉が言葉に詰まった。
どうやら彼は見逃す気はないようだ。
しかしどう言えばいいのかと迷い、ぽつりと呟く。
「……ある意味、沼垂主が原因ではあるけど……」
惺壽の瞳がわずかに細まった。
乙葉は慌ててぱたぱたと両手を振る。
「あ、勘違いしないでよ。本当になにかされたわけじゃないから。ただ……天乃浮橋を開くことはできないって、言われただけで」
言葉にした瞬間、それが確かな現実になった気がした。
再び息を詰まらせた乙葉だが、沈黙は惺壽の一言で破られる。
「……なるほど。そういうことか」
説明するまでもなく、彼はだいたいの事情を察したようだ。
ならば、乙葉の暗い表情の理由にも気づいただろう。
乙葉は視線を避けるように顔を俯けた。
「う、うん。他の方法を考えなくちゃね……」
天乃浮橋を渡ること。
時の歪みの狭間を抜けること。
その他に、元の世界に戻る方法が存在するのだろうか。
(あるわよ。絶対に)
半ば暗示のように自分に言い聞かせた。
根拠なんかなにもないけれど、そう信じないと立っていられなくなりそうだ。
不意に、ため息が聞こえた。
怪訝に思って顔を上げる。
「……どうかした?」
「この姿だったことに我ながら感謝するべきかと思ってね。人の姿を取っていたら、なにをしていたか分からない」
「……はあ」
先ほどから意味不明だ。
曖昧に頷くしかない。
「背に乗れ」
そしてまたもや唐突に言われ、目を丸くする羽目になった。
「乗れって……どこ行くの?」
「おまえが望むのならどこへでも」
心臓が跳ねた。
思わず反応に困って硬直する。
すると、薄青い双眸はふいっと逸らされた。
「要はただの気晴らしだ。……乗れ」
(気晴らし……)
乙葉が落ち込んでいるように見えたのだろう。
彼なりに慰めなのかもしれない。
「…………う、うん」
乙葉は小さく頷いた。
なにかにひどく動揺していて、「気晴らし」という言葉にほっとした半面、どこか残念にも思える。
(社交辞令みたいなものなのに……)
望むのならどんな場所へでも。
なんだか乙葉を甘やかしているような台詞だ。気のせいだろうが。
微妙に熱い気がする頬を俯け、乙葉はそそくさと惺壽の背に乗った。
優美な獣は一息に部屋の欄干を越え、湖面の上空へと駆け上がる。
短くて申し訳ありませんが、キリがいいので今日はここまで。
次回は星空デートです!




