六章ー6.5話
「……沼垂主には、そのこと話してないんですよね」
しばらく経って、乙葉はようやくそう口を開いた。
隣の鈿女君はゆるやかに頷く。
「ええ、夫には話していないわ。話す必要もないもの」
その言葉にかっと血が上った。
「反省させようって気はないんですか? これじゃ惺壽ばっかりが損してるわ。本当のことを知ったら、沼垂主だってさすがに自分のしたことを反省するかもしれないのに……!」
噛みつくように言った。眠る海琉姫を起こさない程度の声で。
そして鈿女君の答えはこうだ。
「それはないわね。たとえ打ち明けたところで、あの人は、惺壽どのとの器の違いを見せつけられて、ますます嫉妬するだけだもの」
(究極の小物だった)
絶句だ。
返す言葉もなく固まっていると、続いて物憂げなため息が落ちる。
「だからこそ、妾もあの夜のことを夫には黙っているの。多少でもあの人が苦しむことで、惺壽どのに成り代わって罰を与えられるのなら。……本当なら妾にもそんな資格はないけれど、他に妥当な人がいないのですもの。しかたないわね」
その言葉にはっと顔を上げた。
見れば、鈿女君のほの白い横顔がわずかな陰りを帯びている。
「……ごめんなさい」
乙葉は思わず項垂れて呟いた。
(鈿女さんだって、なにも感じていなかったはずないのに……)
彼女なりに良心の呵責があったはずだ。
それを考えもせず、正義感を振りかざす自分がひどく子供っぽく思えた。
「まあ、ふふ。あなたが謝ることではなくてよ」
不意の謝罪に目を見張った鈿女君は、しかし楽し気に笑ったのだった。
「むしろ妾が感謝したいくらい。これで、ようやく惺壽どのに恩を返すことができるもの。それを考えれば、そうねぇ。あの方にも感謝した方がいいのかもしれないわ」
「……あの方?」
乙葉はぱちりと瞬いた。
鈿女君はそれには答えず、意味ありげな笑みを唇に乗せて、海琉姫に視線を落とす。
「申し訳ないけれど、それは言えないわね。あの方にそこまで義理立てする筋合いはないもの」
「……はあ」
意味が分からず、曖昧に頷くしかない。
「重ねるようだけれど、お伝えしたいのは、妾はあなたの味方だということ。惺壽どのが妾の気持ちを受け取ってくれない以上、惺壽どのが力を尽くして守ろうとしているあなたに、すべてをお返ししたいの。どうか受け取ってちょうだい」
「…………」
「妾にできることがあるのなら遠慮なく言って。協力は惜しまなくてよ」
この人はどこまで事情を知っているのだろう。
まるで何もかも知っているような口ぶりだ。
しかし、それを問いただすことはなんだか躊躇われた。
はっきり言葉にするのは無粋だ。そんな気がしたのだ。
(協力……たしかに、沼垂主を動かせるのは鈿女君だけなのかも)
鈿女君は、乙葉を通して惺壽に恩返しがしたいのだ。
どんなに感謝したところで、あのへそ曲がりでなによりも優しい彼が、それを素直に受け取るはずもない。
だからこそ間に乙葉を置くことで、かつての恩に報いようとしている。
そして彼女の協力があれば、あの沼垂主を動かすことは案外簡単だっただろう。
こんなことなら、はじめから鈿女君に事情を話して協力してもらえばよかったとさえ思う。
しかし惺壽は決してそうしようとはしなかった。
へそ曲がりゆえか、妻である鈿女君を慮ったのかは分からない。
ただ、彼女が沼垂主の妻であることを乙葉に打ち明けなかった。
そのことからも彼の意図は明らかだ。
(それに……鈿女さんに協力してもらってたって、結果は変わらなかった)
乙葉は強く唇を噛んだ。
今さらながらに、先ほど沼垂主に突き付けられた現実が、深く胸を抉る。
天乃浮橋を渡ることはできない。
そんなことをすれば、天上と地上の均衡が崩れるという。
それが具体的になにを指すかは分からなくても、避けるべき事態だということはさすがに想像がついた。
万事休すだ。
これ以上、打つ手がない。
「どうなさったの?」
「あ、いえ……っ」
急に話しかけられ、ふるっと頭を振った。
不安が重苦しく胸に立ち込めていたが、これ以上、この人に相談したところでどうにかなるものでもないだろう。
「そう。もうすぐ着くけれど、妾に聞きたいことはもうない?」
そう言われ、視線を前方に凝らす。
はためく御簾の向こうに、夜の闇に包まれた森がちらちらと見え隠れしていた。
(惺壽、もう帰ってきたかしら……)
沼垂主に攫われた時は不在だった家主だ。
「……一つだけ、質問させてください」
「妾に答えられることならね」
自分から聞きたいことはないかと尋ねておいて、これだ。
この人もなかなか食えないと思いつつ、口を開く。
「わたしが聞きたいのは……どうして鈿女さんが、沼垂主、さんと結婚したのかってことです。……もっといろんな人から結婚を申し込まれたんじゃないかしら……」
こんな絶世の美女なら、夫になる相手もより取り見取りだったはずだ。
よりにもよって、沼垂主を夫に選んだことがどうにも理解できない。
「あら。そんなこと? たしかに大勢の殿方から求婚はされたわ。こう見えてもそれは長く生きているもの」
「長く……ですか?」
艶美な鈿女君は年齢不詳ではあるものの、肌の張りや髪の艶などは輝くほどの若さを保っている。
瞬いた乙葉に、文字通りの天女は楽しげに笑ったのだった。
「妾はカガチなの。カガチは長寿の一族なのよ。……質問のお答えだけれど、あの人を夫に選んだのは、あの人がとても味わい深く思えたからよ。ただそれだけの理由」
「味わい深いっていうのは……」
「だって可愛らしい方でしょう? 小さなことにこだわって、つまらないことで嫉妬して、いつでも妾の顔色を窺っているの。こちらだって一応は伴侶に選んだ人ですもの、そうそう嫌いはしないというのにね。そういう所がとても魅力的」
納得はできないが、一応、彼女なりの基準がありはするらしい。
(た、たしかにこんな美女が奥さんだったら、沼垂主も大変かも……)
魅力的な妻が他の男に掠め取られやしないかと、いつもビクついて、妻に釣り合えるようにと自分を飾るために必死で。
見栄っ張りで、なりふり構わず権力を求めるのも、すべては妻を愛しているがゆえの行動かもしれない。
だからといって許すつもりもないが――ちょっとだけ、そんな気持ちは分からなくもなかった。
「……じゃ、じゃあ、惺壽は結婚したいって思えるほど魅力的じゃないってことですか?」
聞く必要のないことを聞いている。しかし、聞かずにいられなかった。
上ずった声で尋ねた乙葉に、返答は半ば予想通りだ。
「もちろん惺壽どのはとても魅力的よ。お姿はもちろん、何物にも縛られない高潔さ、凛々しさ、優しさに溢れた麒麟さまに、憧れを持つ女も多いもの。けれど」
「……けれど?」
固唾を飲んで聞き返す。
こちらを見返す美しい藤色の瞳がとろりと微笑んだ。
「あいにくだけれど妾、見目が麗しくてそれだけの殿方には、三百年も前に飽いていてよ」
それ以上は突っ込んで聞いてはいけない。
そう囁く直感に従い、乙葉はそこで口を噤んだ。
いつもありがとうございます。
ちなみにカガチとは蛇の呼び名の一つです。
妻が蛇なら夫は……?
文字通りの蛇足でした;




