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六章―6話

それは、あの事件――沼垂主が惺壽を陥れたその一件と、深い関りがあるというのだ。


 始まりは、めずらしくも天照陽乃宮が雲乃峰を後にし、外界に散歩に出かけたことだという。


「散歩といっても、大勢の侍女や従者が列を成しての大行事よ。そうして運悪く、ご一行は(すい)()という妖獣の群れに取り囲まれたの」


 水馬とは、雲から雲を渡っては草を食んで暮らす、気性が穏やかな妖獣だという。積極的に天人たちに近づいてこようとはしない彼らだが、その日は、獰猛な肉食の妖獣に追い散らされ、雲乃峰近くまで群れを成して逃げてきたらしいのだ。


 陽乃宮を乗せた輿は運悪く、大挙して押し寄せた一群の中に取り囲まれた。

 普段は温厚な性質でも、天敵に追われ、ひどく気が立っていた彼らの群れの中、

陽乃宮の一行立ち往生し、しばらく身動きさえとれなかったという。


 負傷者が出なかったことは幸いだ。

 陽乃宮は従者たちに守られながら雲乃峰の宮城に無事に引き上げたものの、弟である月読乃宮の怒りは甚だしかった。


 再び天照陽乃宮に仇なすことのないよう、未だに雲乃峰近辺に屯する水馬を一頭残らず掃討せよという厳命が下されたのだ。



「皆さま、躊躇ったらしいわ。水馬だって好んで陽乃宮を妨げたわけじゃないでしょう。けれど一度勅命が下った以上、知らぬふりをするわけにもいかないし」


 貴人たちがようよう重い腰を上げる中、しがし、誰よりも早く行動を起こした天人がいたという。

「……それが、惺壽?」

 尋ねた乙葉に、深い頷きが返ってきた。

「いつもは意欲があるのかないのか分からない方なのにね。皆が動き出す頃にはすでに事を終えて雲乃峰に戻っていらしたわ。……ただ、件の水馬には近づきもしなかったようだけれど」

「え? なにしにいったんですか?」 


 鈿女君はふふっと含み笑う。

「あの方は、水馬ではなく、水馬を狙う妖獣を退けにお出ましになったのよ。それも月読乃宮の号令が下るより早くね。……とても冷静で理にかなったご判断だわ。月乃宮のご気性もよく鑑みた上での行動だったのでしょう。月乃宮は姉君のこととなると見境を失くすから」


 つまり、月読乃宮の勅令を見越した上で、惺壽は水馬たちを守る道を選び取ったのだ。


(……なんか、惺壽らしい)

 非力な妖獣に憐れみを覚えたのだろう。

 さりげないやり口は実に彼らしいと思う。


「一見、誰にでもできることのように思えるけれど、あの時、実際にそれをやってのけたのは惺壽どのだけだった。……どこかの誰かとは大違いね」

 不審な言い方に視線を上げると、美しい横顔は、御簾ごしにどこか遠くを見ている。その表情にぴんと来るものがあった。

「どこかの誰かって……ちなみにその時、沼垂主、さんはなにを……」

「月読乃宮の命にお応えすべく、大勢の従者を水馬の許へ差し向けたわ」

「でも、もうそんな必要ないじゃないですか。せっかく惺壽が助けたのに……!」

 水馬の天敵は惺壽が追い払った。

 それは水馬を守る豆であり、少し待てば、群れはまたどこかに移動したかもしれない。それを沼垂主はわざわざ無駄にしたのだろうか。


「あの人はね、水馬たちを生け捕りにして月読乃宮の前に引き出したのよ。まるで自分の手腕を見せつけるように。敵がいなくなったことで水馬たちも気が緩んでいたのでしょう。あっけなく大半が捕まったと聞いているわ」

「それで、水馬は……?」

 呆気なく処分されたのだろうか。

 頬を引きつらせた乙葉に、鈿女君は頸を横に振った。

「二度と陽乃宮の御目汚しをしないよう、天乃原の辺境に追いやるようにというのが、月読乃宮が夫に下された新たな勅命だったわ」


 とりあえず報復紛いの殺戮は回避されたらしい。


 ほっと息を落とした乙葉だが、また別の怒りを覚える。

(沼垂主……どこまでやることが卑怯で小物なのよ)

 手柄を立てたいがために、必要もなく水馬を生け捕りにしたのだ。

 それに成功したのも、もともとは惺壽が彼らの天敵を追い払っていたからだろう。


「その手柄を認められて、沼垂主、さんは出世したんですね」

 我ながら不機嫌な声が出た。

 一方の鈿女君は深いため息を落とす。

「ええ。そう。なかなか陽の目を見なかった夫は、ようやく月乃宮の覚えを得たの。……それで満足しておけばよかったのにね。こともあろうに月乃宮にこう申し上げた。 “他の貴人方が水馬掃討の準備に慌ただしい中、惺壽のは園林の隅で悠々と昼寝をしていた”……と」

「ええっ?」

「事実、そうだったようよ。まだ事情を知らない貴人方を尻目に優雅に昼寝していたと、梛雉どのにも伺ったもの」

「それは、退治する必要がなかっただけで……!」


 水馬掃討の勅令が下された時には、惺壽はすでに彼らの敵を追い払った後だったのだ。


 思わず腰を浮かせた乙葉だが、藤色の双眸がぴたりとこちらに向けられた。

「大きな声を出さないでちょうだい。海琉が起きてしまうわ」

 そう言われ、はっと彼女の膝の上に目を落とす。

 母親に甘えるように丸まっている海琉姫の寝顔は安らかなままだ。


「……どうして沼垂主はそんなことまで……手柄を横取りするだけで十分なのに……」

 乙葉は椅子に座り直しながらぶつぶつ言った。

 もはや沼垂主に敬称をつけるのも忘れている。

 そして鈿女君は鈿女君で、咎めもせずにあっさり言ったのだった。

「簡単なことよ。あの人は、自分以上に人目を引く殿方が嫌いなの。それも女性にもてはやされるような殿方ならば、とくにね。そうして目論見通りに惺壽どのは失脚したというわけ」

「鈿女さんは止めなかったんですか?」

 沼垂主は彼女の夫だ。

 窘めることだってできたはずだろう。


 思わず責めるような目つきで尋ねると、鈿女君は短く息を吐いた。

「本当なら止めるべきだったのでしょう。それが妾の役割だとも思っているわ。けれど、その時は、この海琉が生まれたばかりでね。夫の勲功が認められ、海琉は妾とともに陽乃宮付きの歌姫として雲乃峰に召し上げられることが決まっていたのよ」


 乙葉はぴたりと身動きを止める。

「……海琉姫のため?」

「馬鹿な母親でしょう。けれど、どうしてもこの子が不憫でね。もちろん海琉を心から愛していることに変わりはないけれど、せめてもう少し妾に似ればよかったと思わないこと?」

「……………」

 愚痴のような言葉には、なんとも返事のしようがなかった。


 蛙は蛙でも海琉姫はなかなか愛らしい。

 しかし同時に、鈿女君の言葉と母親心も理解できてしまう。


「沼垂主を止められなかったことが、鈿女さんの罪ですか?」

 問いかけへの返答は避け、ちらりと目を上げて尋ねた。


 二人の罪。

 鈿女君はたしかにそう言ったが、それは我が子可愛さに夫の暴走を止められなかった悔恨を表していたのだろうか。


 海琉姫を抱きなおした鈿女君がこちらを見る。

 不意に赤い唇が艶やかな笑みを形作った。

「いいえ。妾の罪はもっと深い。……惺壽どのとの秘め事。それが妾の罪よ」


 謎めいた言葉と笑みに気圧され、乙葉は困惑気味に眉を潜めた。


 わずかに目を伏せた鈿女君は笑みのままに続ける。

「雲乃峰での殿方たちの戦いも、海琉を生んで産褥の床にある妾には、遠い出来事だったわ。ただ、捕らえられた水馬の中に、身重の一頭がいることを侍女たちの噂から伝え聞いた」


 そして、天敵に追い回された水馬たちがひどくいきり立っていたのは、その牝馬(ひんば)を守るためだったということも。


「水馬たちは辺境に送られることが決まっていた――そこは、草木も生えない不毛な土地よ。よしんば運よく生を受けたとしても、乳飲み子と母親が生き延びられるかは分からない。妾も子を産んだばかりの母親の身、その牝馬に憐れみを覚えた」

 

 そうして監視の隙をつき、従者たちに命じて、その牝馬を雲乃峰の屋敷に引き取ったという。



 あまりの事実に乙葉はしばらく言葉もなかった。

(だって、わざわざ水馬を捕まえたのは自分の夫でしょ?)

 責め立てたい衝動に駆られたが、すんでのところでそれを押さえた。

 代わりに低く指摘する。

「それこそ、月読乃宮の命令に背くことになると思いますけど」


 惺壽が月読乃宮の命令を実行せず怒りを買ったように、事実が露わになれば、次に咎めを受けるのは鈿女君だ。


 そうして、当の本人はまたもやあっさりと答えたのだった。

「そのとおりよ。けれど、子を産むまで余所に動かすことは難しい状態だったから、妾は牝馬を注意深く匿い続けた。……そんな、ある夜のことよ。惺壽どのが妾の屋敷の庭に姿を見せたのは」


 まさか、辺境に送られた水馬が一頭足りないことに勘づいたのだろうか。


 内心の疑問に答えるように言葉が続けられる。

「群れから身重の牝馬が消えていたことに気づいていらっしゃったようね。律儀にもそれを探しにいらしたみたい」

「それで、惺壽は鈿女さんのところに水馬がいるって気づいてたんですか?」

「ええ。あの方は妾のしたことにちゃんと気づいてらしたわ。その上で――なにも言わずに去ってしまった。妾の屋敷からも、雲乃峰からもね」

「…………」

 唖然を口を小さく開いた乙葉の隣で、鈿女君はひょいと肩を竦めてみせたのだ。

「噂になったのはその夜のことなの。水馬を探してきたあの方と対面した妾。その現場を目撃した人がいたようね。なにも事情を知らないものだから、妾たちは恋人同士だということにされてしまったわけ」



 誤解を解き、沼垂主と鈿女君の罪を弾劾することもできたはずなのだ。

 だが惺壽は静かに表舞台を去った。

 なにも言葉を尽くさず、すべての思惑を飲み込んだ上で、たった一人。


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