二章ー4話
銀砂をまぶしたような藍色の夜空には、煌々と巨大な満月が上っていた。
湖に面した一室。
室内中央の円座に腰を下ろした惺壽は、近づいてくるかすかな足音に、戸口に目をやる。
やがて月明かりの中、回廊から姿を見せたのは梛雉だ。
「乙葉嬢、目を覚ましたよ。大事はないようだから安心して」
「大事ないのは承知済みだ。案じるまでもない」
軽く肩を竦めて答えた。
乙葉が昏倒したのは、天乃原をめぐる神気が突発的に濃度を増したためだ。
惺壽や梛雉のように強い神力を宿す天人に害はないが、脆弱な生き物は影響を被ることが少なくない。
まして中乃国の人間には、天上の清浄な気は負荷が大きかったのだろう。
森で昏倒した乙葉を発見した際、体内の気がうまく巡るように導いておいた。
もともと反骨心と生命力だけは強そうな娘だ。じきにこの天乃原の空気にも順応していくだろう。
「――おまえは何を考えている?」
少々投げやりに尋ねると、手近な柱に寄りかかった梛雉が朗らかな笑みを見せた。
「何って、もちろんこの事態にどう収拾をつければ一番穏便に済むのか、ということだよ。沼垂主どのがよからぬ企みをしているなら見逃せない。乙葉嬢だってこのまま捨ておくわけにいかないしね。もし彼女が一生を天乃原で過ごすことになったら可哀そうだろう?」
「あいにく博愛主義の鳳凰どのとは違ってね。青臭い小娘に興はそそられない」
「おや、じゃあ、屋敷を出奔した乙葉嬢をわざわざ連れ戻しに行ったのはなぜかな」
くすくすと笑い交じりの問いかけに、惺壽は視線を月光の湖に戻し、再び肩を竦めた。
「新たな住処を探すのはなかなか骨が折れる。面倒事は極力御免被りたいところだ」
麒麟は仁の生き物だ。血の穢れ、死の不浄を嫌う。
双角である自分は一角たちと違い、それらにもある程度の耐性を備えてはいるが、やはり心の底では忌避の念を抱えている。
捨ておいたことで万が一あの娘が命を落としでもしたら、惺壽はこの住処を離れなければならないだろう。折しも昼と夜が突発的に入れ替わり、天上を巡る神気の均衡が崩れた時だった。
脆弱な人間の身では耐えられない。だから迎えにいった。ただそれだけだ。
「やれやれ、相変わらずの屁理屈ぶりだね。素直に乙葉嬢が心配だったと言えばいいのに。……まあ私としては、君がいる限り、安心して彼女をここに預けておけると分かったけれど」
惺壽は無言を返した。気にも留めない様子で梛雉は柱から身体を離す。
「それじゃあ私はお暇するよ。そうだ、たまには雲乃峰にも顔を出したら? 陽乃宮が君を恋しがっていらっしゃると小耳に挟んだ。――では、ご機嫌よう」
梛雉の姿が青年のものから鳳凰へと変わる。
極彩色の羽を震わせた霊鳥は、月光に青く染まった夜空へと舞い上がった。
重たげな羽音が徐々に遠ざかり、室内には静寂が戻ってくる。
夜の湖を渡る風に、惺壽はわずかに瞳を細めた。
天乃原でも格の高い霊鳥鳳凰一族は、概して天真爛漫であり、悪気なく我が道を突き進む性質でもある。
だが、その愛情深さと陽気さゆえに誰からも愛され、雲乃峰で重用されることもしばしばだ。華やかな容姿に恵まれた者が多いことも幸いしている。
梛雉も例にもれず、容姿と天性の陽気さを備えた男だ。
あれでなかなか頭も切れる。
任せていれば問題はないはずだし、すべて任せるつもりだった。
「…………あの」
おずおずとか細い声に話しかけられた。
驚きはしない。
躊躇いがちにこの部屋に近づいてきた軽い足音にはとうに気づいていた。
振り返れば、暗い戸口には、月明かりの室内を覗き込む小さな影が佇んでいる。
所在なさげにこちらを見つめる大きな瞳と目が合い、惺壽はわずかに唇の端を上げた。
「……こんな夜更けに一体どのようなご用命かな、異邦の乙女どの」
二度と話しかけてもこないかと思ったのに。
からかうように尋ねると、中乃国の乙女――乙葉は、小さな唇をきゅっと引き結んだ。
∻ ∻ ∻ ∻ ∻ ∻ ∻
「用ってほどじゃないけど、ちょっと話があって来たの。……中、入っていい?」
乙葉は固い声で言った。緊張を隠すためだ。
強気に弱気な入室のお伺いに、惺壽は「どうぞ」というように小首を傾げる。
拍子に、束ねた淡い金の髪が、白い装束の肩を滑り落ちながらきらきらと光を弾いた。
夜の湖に面したこの部屋は、一面、水盤に反射した月光の青色に染まっていた。 磨き抜かれ床板は月光に白く輝き、暗い天井にはゆらゆらと水紋が映し出されている。
その中心で、脇息にもたれて寛ぐ長身の男性の姿はひどく静謐で神秘的だった。 触れれば切れる氷の刃のような、硬質で近寄りがたい、けれど目を離せない優雅さを兼ね備えている。
(べつに緊張することないわ。ちょっと話したらすぐにさっきの部屋に引っ込むんだから)
乙葉はおそるおそる、室内に足を踏み入れた。
ちなみに、さっきの部屋とは、先ほど乙葉が目覚めた部屋だ。ちょうど寝具もあるし、このまま使わせててもらおうと思っている。
(……よく考えたら、ああいうのを揃えてくれたのも、この人なのよね)
視線の先で、惺壽は相変わらず、どこか意地悪そうな薄い笑みを浮かべている。
腹の底が全く読めない。
室内中央まで歩き進めた乙葉は、脇息を挟んで惺壽の隣に立った。
「……ここまで連れて帰ってきてくれたみたいだから、一応お礼を言いにきたわ」
「ご丁寧に痛み入るね」
「もう一つ。……そっちの事情も知らないのに、無理な頼みごとをしてごめんなさい」
こちらを見上げる惺壽の表情が訝しむものに変わる。
彼を見下ろし、乙葉は続けた。
「梛雉から聞いたのよ。昔、あんたが沼垂主に出世の邪魔をされた挙句、今は閑職に回されてるって……」
――昔、雲乃峰の近辺に、辺境から妖獣の群れが雪崩れ込んだことがあってね。
梛雉は、禁じられた話を囁くように、静かにそう教えてくれた。
――彼らは天敵に追われてただ迷い込んだだけだったのだけれど、運悪く、天照陽乃宮の行幸を穢す事態になってしまった。
そのことで月読乃宮がひどく立腹されて、妖獣たちを捕らえるようお命じになったんだ。
天照陽乃宮とは、天乃原で最も高貴な天人であるという。
陽の化身であり、同じく月の化身である弟・月読乃宮と供に、天乃原を守護している。その守護の交代をもって天上には昼と夜が訪れるのだ。
陽乃宮と月乃宮は、いわばこの世界の神とあがめられる存在だった。
だが梛雉曰く、天照陽乃宮はとても繊細な女性で、ちょっとしたことで塞ぎこんでは天乃岩戸に閉じこもって姿を隠してしまうらしい。
その間、天乃原は暗闇に閉ざされ、代わって天上を照らすのは弟の月読乃宮の役目だ。だから月読乃宮は姉の天照陽乃宮が気鬱にならないよう、常に神経を尖らせている。
――双角の麒麟である惺壽の活躍は目覚ましかった。
けれど、どういうわけか、その手柄がすべて沼垂主どののものにすり替えられていたんだ。沼垂主どのはそれを足がかかりに雲乃峰で権勢を得、逆に惺壽を陽乃宮や月乃宮のおそばから追いやった。
天乃原には多種多様な役職はあれど、身分の上下を分ける明確な“位”がない。血筋、能力、役職の重要性と功績、それらの要素が複雑に関わり合い、その人の“格”を決める。
最も名誉とされるのは、天照陽乃宮や月読乃宮の側近くに侍ることだという。
惺壽はその権力闘争から理不尽に弾き出されてしまった。
弾き出したのは件の沼垂主だ。
「何も知らないのに、わたし……助けてほしいとか、冷血嫌味男とか年中発情期とか、あと万年セクハラ野郎とかも、無責任に色々言い過ぎたかなって……」
「耳にした覚えのないものまで増えているようで光栄だね。だが謝罪には及ばない。俺と沼垂主にどのような禍根があろうと、知らぬ以上は言葉を選びようもないだろう」
「……そうね。そんな因縁があるなんて知らなかったし、あんまり悪いと思ってない」
乙葉はきっぱりと頷いた。
瞬いた惺壽がおかしそうに口元を歪める。
「……大した変わり身の早さだな」
「だって、わたしだって元の世界に帰りたくて必死だった。惺壽にどういう事情があったにしろ、切羽詰まった願い事をあんなふうに突っぱねられる謂れはないわ。込み入った事情を話したくなかったとしても、もうすこし親切で大人な対応だって出来たはずだし」
「やれやれ、謝罪なのか罵倒なのかも図りかねるが、年端もいかない人間の小娘に気安く名を呼び捨てられる日が来ようとは」
「敬称っていうのは尊敬できる相手につけるものでしょ。惺壽なんか呼び捨てで十分」
「可愛げはないが道理ではあるな。……それで、おまえはまだ何を言い募るつもりだ? 己に非が無いと言うならば、特段ここに居残る理由はあるまい」
「言われなくてもさっきの部屋に帰るわ。ちゃんと謝ったらね」
乙葉はムキに言った。
必要以上につんけんしてしまうのは、本当は気まずいからだ。
沼垂主のせいで、没落の身に甘んじた惺壽が、どういう心境でいるのかは分からない。
だが、沼垂主には二度と関わりたくないと思うのは当然だろう。
そんな事情は知らなかった。
けれど、だからといって、彼を傷つけていい理由にはならない。
「ごめんなさい。……そっちの事情も知らないのに、自分勝手ばっかり言って」
頭を下げた。昼間、帰らせてほしいと懇願した時よりも、素直にそうすることができた。
頭上を通り過ぎるのは無言だ。謝罪を受け入れてはもらえないのだろうか。
あまりに続く沈黙に、「う……」と眉を下げた時。
「何を言い出すかと思えば――つくづく奇矯な娘だ。加えて、まさかそう好意的な解釈違いをされるとは夢にも思わなかったよ」
息を落とすような呟きにそっと顔を上げれば、惺壽は遠くを見るような表情をしている。
「梛雉に何を吹き込まれたのかは知らんが、俺は過去にも、現在にも、沼垂主にはなんの鬱屈も蟠りも持ったことなどない。そんな相手に対して不快になどなりようがない」
「でも、出世の邪魔をされたんじゃ……」
「さて――権勢を極めることに、さほどの価値を見出せなくてね」
乙葉は眉根を引き絞った。その反応が気に入ったのか、惺壽はくすりと笑う。
「多くの貴人方は血眼になっておられるが、雲乃峰での柵にもさして興味はない。功績なら、欲する者にくれてやればいいだけの話だ」
(……強がってるの? それとも、わたしに気を遣ってる?)
乙葉が沼垂主との因縁を気にしていると思って、こんな言い方をしたのだろうか。
もしくは単なる負け惜しみ?
それにしても表情が不敵すぎる。強がりとは思えない。
惺壽が横取りされた手柄とは、月読乃宮という天乃原で最も偉い人からの命令によるものだったはずだ。順当にいけば彼は破格の褒賞を貰えただろう。
それを「いらない」と一蹴するこの人は、天乃原一の変わり者ではないだろうか。
他人の手柄を横取りしてでも認められようとする沼垂主のほうが、まだ理解はできる。
(梛雉の言ってたとおり、たしかにへそ曲がりなのかも……それに、傲慢)
自分の価値を決めるのは自分――無言のうちに、そんな揺るぎない自負が伝わってくる。
「……だったら、遠慮しなくていいのかしら」
乙葉はぽつりと呟いた。薄青い瞳が一度瞬くのを見下ろす。
「なんの蟠りもないなら、沼垂主がなにを企んでるのか暴くのを手伝って。今なにが起こっているのか分からないと、わたし、いつまでも経っても元の世界に戻れない」
「梛雉に一任している」
「惺壽も協力して。……角が二本の麒麟さんがいれば心強いって、梛雉も言ってたわよ」
「男に買いかぶられたところでさほど感慨はわかないのだが」
「またそんなこと言ってる! ……いいわ。分かった。興味が持てたら手伝ってくれるのよね? だったら、興味を持たせてあげようじゃない」
惺壽の双眸が煌めいた。
拳で頬杖を突きなおした彼は、どこか艶美に小首を傾げる。
「……ほう?」
「もったいぶらないでよ、説明しなくても本当は分かってるんでしょ? ……惺壽を誘惑するって言ってるの。わたしへの興味だらけにしてあげる」
乙葉は仁王立ちし、挑発的に言い放った。
今まで惺壽の胸を焦がしたのは艶やかな美女たちだけだったと、当の本人が言ったのだ。
どこまで本気か分からない。
だが、名誉も栄光もいらないと嘯く彼の“真実”など、どうせ見抜くことなんてできはしないだろう。だったら、がむしゃらでも賭けに出るまでだ。
とにかく早く中乃国に戻りたい。
梛雉がなんとかしてくれるとは言ったものの、彼を信じるのも不安だし、『一人より二人』とも言う。なにより、ここまで乙葉を放り出そうとする惺壽への仕返しの意味もある。
(なにがなんでも巻き込んでやるわよ。絶対に高みの見物なんてさせてやらないから)
鼻息荒く佇む乙葉を、惺壽は冷めた目つきで見上げていた。やがて肩を竦める。
「乙女どのにはそろそろ床が必要なようだ。寝入りを待ちきれずに寝言を呟いている」
「起きてるわよ、寝言でもなんでもないから! ていうかわたし、もうすぐ十六歳よ!? 我ながら人よりちょっと見た目の成長が遅いけど、正真正銘十六歳!!」
「それは――……失敬」
「なんなの今の変な間はー!? そんな憐れむような目で見られる筋合いもないわよっ!」
肩息荒く怒鳴ると、惺壽はくすくすと低い笑いを漏らした。
「元気がよくてけっこう。だが男を誘うには不向きだな。諦めたほうが身のためだ」
「で、できるわよ! わたしだって、その気になれば大人しくて物静かにもなれるんだから! あんたも今に骨抜きにされて『参りました』って言いたくなるに決まってる!」
負けず嫌いの性で、乙葉は反射的に言い返した。
もちろん根拠はない。ないが言った。
拳で頬杖をついた惺壽が、くすりと口角を上げる。
そしてなにを思ったのか、空いているほうの手を持ち上げ、こちらに向かってひょいひょいと手招きしたのだ。
「? なによ…………あ、」
つられて思わず身を屈めた乙葉は、不意に長い髪の毛先を軽く引かれ、前につんのめった。
気が付いた時には視界が反転し、すぐ目の前に、月光に頬を濡らす凄艶な美貌がある。
「では――乙女どののお手並み拝見といかせていただこうか」
惺壽が微笑む。
長い睫毛が艶めいた影を落としている。
すぐには状況が掴めなかった。
背中が冷たい。だが一部だけ温かい。
惺壽が乙葉の背に片腕を回し、冷たく光る床に組み敷いているからだ。
「ちょっ……ちょちょちょっと、なんで上にいるの!? いつの間にこうなったの!?」
ぎょっと我に返った乙葉が身を捩っても、惺壽は小動もしない。
「おや。俺を骨の髄まで蕩かしてくれると言ったのは、どの口だったかな」
「そんな際どい言い方はしてないわよセクハラ男―! だだだだいたい男女交際はず清く正しくお互いを知ることからでしょ!? 適度な距離を保って、まずお話合いから……!」
くっと響いた低い笑いに、はたと乙葉は口を閉ざした。
心なしか、惺壽の笑みが獰猛なほど艶を増している。
「話し合い、ねぇ……。ここまで挑発しておきながら無垢な素振りかい。どうやら初心な見かけによらず、男を焦らす手管に長けているらしいな」
「ち、違……っ」
否定の言葉も切れ切れに、乙葉の頭の中が真っ白になっていく。
(……これ、もしかしてマズイ状況なんじゃ……それとも、逆にチャンス?)
誘惑宣言をしたのは自分だ。こうなる事態も想定しておくべきだった。
本当に中乃国に戻りたいのなら、手段なんて選んでいられない。
もしかしたら、これは惺壽を骨抜きにする絶好の機会なのかもしれない。
(帰る、ためなら……)
脳裏を一瞬、優しく笑う少年の面影がよぎる。
「夜半に男の元を訪れ、誘惑したいと口にした――それがどういうことか、知らなかったとは言うまい?」
微笑んだ惺壽の唇が、ゆっくりと降りてきた。
呼吸が上がる。
動けない。
のしかかった体躯の逞しさと、体温が、制服越しに強く伝わる。
「…………」
不意に、屈みこんできていた惺壽が動きを止めた。
その薄青い双眸に、目を真ん丸にした乙葉が映っている。
びっくりしたような顔だ。見開いた瞳にうっすら涙が浮かんでいる。
こちらを見下ろす惺壽も、すこし驚いたように軽く目を見張っていた。
その唇の端がふっと緩められる。
ゆっくり持ち上がった彼の手が、床に広がった乙葉の髪を一房掬い上げた。
「……稚いことだ。やはり男を狂わせるには少々早いようだよ、お嬢さん」
微笑みを浮かべた唇が、乙葉の柔らかな髪に軽く口づけた。
髪から手を離した彼は、素早く身を起こし、部屋から出ていってしまった。
静かな足音はすぐに聞こえなくなる。
部屋に一人取り残された乙葉は、仰向けのまま、しばらく動けなかった。
(なん、だったの……あれ)
たぶん惺壽は、最初から、乙葉をどうこうするつもりはなかった。
からかわれて、返り討ちにされただけだ。
「――――――っ、悔しい!!」
寝ころんだまま、冷たい床にがすっと拳を叩きつけた。