表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/93

六章ー5話

「か、帰してやっても……いい」

 不意に呻き声が上がり、乙葉ははっと意識を引きずり戻された。

 遠ざかっていた世界の音が戻ってくる。

 しかし心音は落ち着かないままだ。


(し、……しっかりして。今はもっと違うことを考えなくちゃ)

 目を閉じ、胸を押さえて息を整えた。


 必ず元の世界に帰るため、沼垂主を説得しなければ。

 そう、今はそのことだけを考えるべきだ。

 

 気持ちを落ち着かせて再び瞼を押し上げ、瞳をきりりと光らせる。

「今、帰してやるって言ったわよね?」

 たしかにそう聞こえた。

 鋭い声の確認に、沼垂主はうっと詰まってから頷く。

「う、うむ。………しかし……」

「なによ、なにごちゃごちゃ言ってるの? 天乃浮橋を渡らせてくれるのよね?」

 乙葉は器用に片眉を跳ね上げた。

 沼垂主の視線がそよそよと泳いでいく。

「天乃浮橋を渡ることはならん。い、いや、できん」

「は、“できん”? どうして? 橋を渡らなきゃ帰れないじゃない」

 今度は眉根をきつく寄せる。

 すると沼垂主は口を噤んでしまった。もごもごとなにか言っているようだが、あいにく聞こえない。


 乙葉はずいっと前屈みになり、蛙っぽい顔を下から間近に覗き込んだ。

「聞こえない。きりきり喋ってよ。それとも口を無理やりこじ開けられたい?」

「――ええい、うるさい、うるさい! とにかく橋を開くことはできんのだ! そんなことをすれば、今度こそ儂は身の破滅――いいや、それどころか天上と地上の均衡が狂う!」

 沼垂主は突然、爆発したように叫んだ。

「……均衡が狂う?」

 姿勢を戻した乙葉が訝し気に繰り返すと、もはや居直ったのか、沼垂主は鼻を鳴らしてふんぞり返ったのだった。


「そうだ。お前が天乃原に召喚されたのは、天上から欠けた天虎の空席を埋めるために過ぎんからの。いわば時空の迷い道を流離いながら、五体満足でこちらに抜け出しただけでも僥倖だ」


 惺壽も言っていたことだ。

 乙葉と天虎は偶然が重なって入れ違いになった。

 しかも本当ならば、二人とも異空間に永遠に捕まっていたはずなのだ。

 乙葉がそこを逃れて天乃原に来たのは、鏡野神社での自分の行動に、さらなる偶然が秘められていたからにすぎない。


 しかし、それが天乃浮橋を開けない理由と何の関係があるのだろうか。


「亜空にて入れ替わったおまえたちは、いわば一蓮托生の一対だ。片割れだけが正道を通ればどうなる? どこかに歪みが生じ、それが天上と地上の均衡を狂わせることになるわい」

「なるわい……って、でも、帰してやるって言ったじゃない。他に方法があるんじゃないの?」


 乙葉は天上に。天虎は地上へ。成り立っているのはそういう等式だ。


 だからこそ、どちらか片方だけが移動することは許されないと、沼垂主はそう言っているらしい。

 しかし、帰してやってもいいという言葉を、確かにこの耳で聞いたのに。


「別にも方はある。辿りきた道を、もう一度中乃国まで辿り返すのだ。加えて、その道中で逃げた天虎と入れ違うことが必要になるがの」


 入れ替わりをリセットするということだろう。

 それには天虎を探すことが必須になる。


「天虎は、歪んだ空間に捕まったままだろうって、惺壽が言ってたわ。来た道をもう一度辿って、天虎を探せば……」

「阿呆め、そう簡単な話ではないわ。時空の迷い道を正しく辿り返すことは至難。少しでも軌道から逸れれば、今度こそ時空の檻に閉じ込められるだけだぞい」


「……じゃあ、なんで帰してやるなんて言ったの」

 脱出が困難な迷路と知りながら放り込むようなものだ。


 沼垂主はふふんと笑った。

「それはの、おまえの姿さえ天上から消えれば儂は安泰になると思ったまで……ってげろおおぉぉ!」

「いー加減にしなさいよ、どこまで小物っぷりを晒したら気が済むのよ、このクソ蛙!! 脳みその位置がおかしいんじゃないの、元に戻してあげるわよほらほらほらほら!!!」

 がっしと掴んだ胸倉を、ぶんぶん揺さぶった。

 その度にガクンガクンと頭を前後に揺らしながら沼垂主が言う。

「まままままま待て待て待て待て、だだだだからこそ儂も躊躇っておったのだ! それではあまりにも忍びない、おまえは誰の目にも触れぬよう儂の館にこっそり囲って一生面倒を見てやると言っ、……ひいっ!?」

 沼垂主の顔がガックンと仰け反る。


 その襟首をぶら下げている乙葉は、半眼で冷やかに蛙面を見下ろした。

「――飛んでみる?」

 沼垂主の身体は、車前方に掛けられた御簾を突き出し、半分車の外だ。

 手を離せば真っ逆さまに落ちるだろう。落ちたところで、随行している従者がすぐに主を拾うだろうが。


 ごくりと沼垂主の喉が鳴る。

「か、囲う云々は別にしてだな、か、帰る方法はそれ一つしか……」


 つまり時空の迷路を抜けること。

 それしか方法はない。


(それって結局、帰れないのと一緒じゃない……!)

 泣きそうに心中で叫んだ時だった。


 妖獣に牽かれて疾走する車が、きいぃっと轍を軋ませながら急停止したのは。

「ぬひょおおぉっ!?」

 ぶらんと沼垂主の身体が車外に振り出されそうになる。

 その重みに引きずられ、乙葉の身体も椅子から浮いた。

(し、しまった、これじゃ……!)

 このままでは沼垂主ごと落下してしまう。

 本当に落とすつもりなんてないのに。


 とっさに乙葉は両腕を水平に振った。

 力任せだ。襟首を掴まれた沼垂主の身体が車の中に戻ってくる。


 しかし、その反動が、乙葉を押し出す弾みに拍車をかけた。


 ふわっと体を包む浮遊感。


 真ん丸になった目に、車内で沼垂主が背もたれにぶつかっている様が映る。

 車を囲んだ従者たちも咄嗟のことに驚愕した顔で、こちらを見下ろすばかりだ。


 コマ送りのようにゆっくりとそれらの光景が遠ざかり、見えるのは、満天の星が煌めく夜空と、上空に靡く自分の髪。


 落ちたんだ。

 雲の中に落ちていく。


(……惺壽……!)


 思わずぎゅっと目を瞑り、――その身体を。



「――ずいぶん愛らしい落とし物だこと」


 なにかが柔らかく受け止めた。

 耳を打つ蠱惑めいた声。


(え……)

 なんだろう。背中にふわんととんでもなく柔らかいものが当たっている。


 目を開いた乙葉を、間近で見下ろす美貌があった。


 結い上げた艶やかな黒髪。秀麗な額の花鈿。

 宝石のような藤色の瞳に、唇に佩いた紅。


「……鈿女、さん?」

「御機嫌よう、勇ましい方。けれど、こういうお転婆は少々考えものね」

 ぱちりぱちりと瞬く乙葉に、嫣然と微笑みかけてきたのは鈿女君だった。

 今日は珍しく、首元の詰まった雛菊色の袍を着ている。

 そして、彼女が立つのは巨大な金色の雲の上だった。

 視線を巡らせれば、生成り糸の着物に黒の帯を締めた大勢の供を従えており、背後には螺鈿細工の美しい車も止まっている。


「あ、す、すみません……!」

 彼女の両腕に抱えられているのだと気づいた乙葉は、顔を真っ赤にして飛び下りた。

(なんで鈿女さんがここに……!?)

 そう思うものの、彼女が助けてくれなかったら、今頃どうなっていたか。


 自分の足で金色の雲に立つと、鈿女君の背後にある車の御簾が大きく揺れた。

 御簾の合間からひょっこり顔を出した生き物と目が合う。

(……蛙?)

 蛙にそっくりの――人間、いや天人だろう。

 七歳児くらいの体型に、小花が縫い取られた真っ赤な襦裙を纏っている。

 装いからして女の子だ。つぶらな瞳がきらきらっと輝いた。

「みる?」

 女の子が首を傾げた。

 

 言葉は意味不明だが、響いた声がやたらと可愛い。殺人的な可愛さだ。


 それにしても。

(だ、誰かに似てない?)

 こちらはずいぶん愛嬌がある姿だが――この顔にそっくりな別の蛙に心当たりがある。


「駄目よ、海琉(みる)。風に当たって身体を冷やさないでちょうだい」

 ちかちかと疑問符を点滅させていた乙葉の隣で、振り返った鈿女君が、女の子をそう窘めた。

 いつも口調が違う。匂うような色気はなく、その分だけ柔らかい。


「ひゃ、ごめんなさい、お母さま」

 女の子はつぶらな瞳をくるんと回し、ひょこっと御簾の向こうに引っ込んだ。

「……お母さま?」

「ええ。海琉は妾の可愛い可愛い大事な娘ですもの」

 茫然と呟いた乙葉に、こともなげに頷いた鈿女君は、今度は頭上に視線を巡らせて声を張り上げた。


「そんなに急いでどちらにおいでなの、あなた。それも妾に内緒で、こんなに若くてかわいいお嬢さんを車に連れ込んでいたなんて」


 つられて乙葉も頭上を仰ぐ。

 虚空に止まった車が見えた。

 中途半端に跳ね上げられた御簾の向こうで、沼垂主がこちらを見下ろしている。

 顔面が真っ青だ。ぎょろぎょろと目をひん剥いていて、まさに蛙のよう。


 あちらとこちら。蛙が二匹。

(……“あなた”?)


 あなた。

 お母さま。

 蛙にそっくりな可愛い女の子と、娘。



「え?」

 漏れた声は我ながら間抜けだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ