六章―4話
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「さ、わ、ら、な、い、で !!」
「げろおおおおっ!!」
伸ばされた手に思い切り噛みつくと、潰れたような悲鳴が上がった。
狭い車内で乙葉はめいっぱい沼垂主から身体を離す。背中はぴったりと内壁に張り付いていた。
歯形のついた手をさすり、同じく沼垂主も反対の壁まで仰け反っている。
(なんでこんなことになったのよ、エロ蛙に捕まるなんて最悪……!)
噛みついた口元を制服の袖口でごしごし拭いながら、心中で毒づく。
惺壽の屋敷を突然沼垂主たちが訪れ、乙葉は攫われてしまったのだ。
精一杯逃げ回ったものの、大勢の屈強な男たちの前にはなす術もない。
そして沼垂主ともども、この人力車の様な黒塗りの様な車に放り込まれたというわけだった。
(惺壽はどこに行ってたの)
どんなに名を呼んでも惺壽は姿を現さなかった。
いつの間にか留守にしてたらしい。
それとも、まさか沼垂主に売られた?
一瞬ほの暗い疑惑が胸をよぎる。
しかし、乙葉は一つ頭を振ってそれを退けた。
(ううん、そんなことあるわけない。わたしがいないことに気がついたら、すぐに迎えに来てくれる。……必ず)
これからどうなるかは分からないが、それまでは、なんとか自分の身を自分で守らなくては。
そう気持ちを宥めていると、傍らで恨みがましい声が上がった。
「け、けったいな小娘め! 車の外に放りだされんよう、支えてやろうとしたのに……!」
もちろん沼垂主だ。
噛みつかれたのが堪えらしく、びくびくと腰が引けている。
現在、二人を乗せた車は、驢馬みたいな妖獣に牽かれ、夜空を駆けている最中だ。
かなりの速度が出ているらしく、車はがたがたと揺れ続けていた。時折、座っていられないくらいの大きな揺れに見舞われることもある。
そのせいで、先ほど乙葉は危うく車外に転がり落ちかけたのだ。
慌てた沼垂主が手を引いてくれようとしたのだが、寸前に自力で態勢を立て直した乙葉は、思わずその手に噛みついたのだった。
なにしろ。
「こんな時だけ押しつけがましくいい人面しないでよ。これからわたしをどうするつもり」
問答無用で攫われたのだ。
少々情けをかけられたところで腹の虫が収まるわけもない。
睨みつけた先で、沼垂主の蛙そっくりな目玉がぎょろぎょろとひん剥かれた。
「どうもこうもあるか! 月読乃宮がおまえをお召しになる前に、どこか人目につかん場所に隠すだけだ! そうせんと儂は身の破滅だ、せっかくここまで昇りつめたというのに……!」
「はあっ? そんな自分勝手な……ていうか、月読乃宮がわたしをお召し? ちょ、ちょっと待って。なにそれ、なんでそんなことになってるの!?」
喚いた沼垂主に、自分も目を剥きかけた乙葉は、さっと青ざめた。
「まさか、わたしが人間だってバレた……?」
どういう経路かは分らないが、そうとしか考えられない。
なにしろ、乙葉が月読乃宮に呼び出されるような理由に心当たりがない。
しかし、沼垂主の金切声がその推測を否定したのだった。
「まだだ! あの男が御方さまに、麒麟が近々妻を迎えるとお知らせしたにすぎん! 結果、御方様はおまえを人間だと知らずに関心を示されておるという次第だ……! ええい、忌ま忌ましい!」
狭い車内にきんきんと響く声に、思わず乙葉の眉が顰められる。
(妻って、わたしが惺壽の? それにあの男っていうのは……)
あの男というのは――梛雉のことだろうか。
彼が沼垂主を陥れようとしていることは、惺壽から聞かされたばかりだ。
そして乙葉が惺壽の妻という話は、おそらく、初めて沼垂主に出会った時に二人で売った芝居のことだろう。
そんな勘違いをしているのは沼垂主一人で、その話を梛雉が知っているというのなら、話して聞かせたのも当の沼垂主に違いない。
その経緯はひとまず置いておいてだ。
なぜ梛雉は月読乃宮にその話を持ち出した?
(わたしを人間だってバラすためとしか考えられない。……それって、沼垂主のヘマを暴くってこと?)
梛雉の狙いが沼垂主の没落なら、充分に考えられる話だ。
それに自分は利用されたのだ。
気づいた瞬間、猛烈な怒りを覚えてしまった。
(ほんっとに油断も隙もないわね、あの詐欺師……! わたしのことなんだと思ってんの!?)
人のよさそうな笑顔に騙されがちだが、梛雉は本当に、底抜けなほどに心を読めない人だ。
沼垂主を失墜させ、それで彼が得るものはなんだろう。
友人の敵をとって満足したい?
分からない。分からないが、とにかくシメたい。
(次に会ったら、洗いざらい白状させて土下座させた挙句に焼き鳥にしてやるから!)
そのためには無事に沼垂主の手元から脱出する必要がある。
そうはいっても、虚空を駆ける車から逃げようにも、逃げ場なんてない。
しかし逆を言えばだ。
これは沼垂主と差し向かいで話をするいい機会でもある。
「……ねえ、もう観念して、天乃浮橋を開いたらどうなの」
乙葉は沼垂主からなるべく距離を取ったまま、低く切り出した。
一人頭を抱え込んで悶絶していた沼垂主の動きがぴたりと止まる。
「自分のヘマとわたしの正体を隠したいなら、元の世界に戻すのが一番でしょ? これ以上、わたしをこっちに引き留めてたって、そっちに得なんてないんじゃないの」
乙葉の正体が月読乃宮に知られて一番困るのは、沼垂主だろう。
それに乙葉も困る。
もしも人間が天乃原に迷い込んだと知られたら、一生元の世界に戻れるなくなる可能性もあるのだ。とっとと元の世界に帰ったほうたお互いのためだろう。
幸いにも沼垂主は天乃浮橋の番人。
その気になればすぐにでも帰れるのではないだろうか。
(だからって、いきなり帰らされるのもちょっと……。困るのは惺壽だって同じだろうし……)
そう。乙葉が消えたら惺壽も困るだろう。月読乃宮は、彼の花嫁だと勘違いして乙葉に興味を持っているのだ。その花嫁が消えるわけにいかない。
女泣かせで知られた惺壽に『結婚直前で花嫁に逃げられた』という噂が立つことになる。
(…………うん。べつにそれはいいんだけど)
それを抜きにしても、このまま彼に会わずに帰るわけにはいかなかった。
まだ天乃原で散々世話になった礼を言っていない。
元の世界に帰ったら二度と彼には会えないのだ。
ちゃんとお別れはしておきたい。
(……あれ?)
なんだろう。一瞬、胸をよぎる思いがあった。
『離れたくない』と。
(誰と離れたくないのよ。――惺壽と?)
自分で自分に混乱する。
惺壽と離れたくないというのは、つまり、帰りたくないということだろうか。
それは違う。
元の世界に、自分の家には、心から帰りたいと願っている。
両親や幼馴染、学校の友人。大事な人たちと二度と会えないなんて嫌だ。
(でも――惺壽に会えなくなるのも、いやだ)
もう会えなくなる。
そう思うと鼓動が速くなった。胸が締め付けられるに苦しい。
元の世界に帰る。
それは、そう。彼との永遠のさよならを示している。
最初から分かっていた事実。
今さら動揺する理由なんてない。
それなのに。
(え、ちょっと待って。わたし……)
それなのに、いよいよ元の世界に帰ろうという瀬戸際に立った今、自分はこんなにも狼狽している。
(わ、たし………まさか……)
惺壽のことが、好きなのだろうか。
いつもありがとうございます。




