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六章3話

 こちらの言い分に、梛雉は不思議な笑みを見せた。

「私も、“だからこそ”だよ。……必要とされなければ、君もなにも必要としない。価値を得ようとしない。それじゃあ、惺壽はいつまで経っても一人のままじゃないか」

「さして不都合はないが」

「承知しているよ。君は自由の人だからね。俗っぽい欲には興味がないし、欲につきものの柵に縛られることには、もっと興味がない。名誉にも恋にも執着せず、だからこそ、あの時も沼垂主どのに勲功を譲った」


 やはり狙いは復讐――いや、違う。

 惺壽と同じく、梛雉もそんな些末なことにこだわる男ではない。

 沼垂主との因縁を持ち出したのは、ただの喩えにすぎないだろう。


「ああ、もちろん惺壽の考えに口を出すつもりはないよ。縛られることをよしとせず、何物にも膝を折らないその高潔さは、友として誇りに思っている。……ただ、あまり高い場所にいすぎる君を、ちょっと心配したりもするんだよ」


 そこで笑みは苦笑に変わった。

「惺壽はいつでもなんにでも本気にならないだろう? それは本気にならないんじゃなくて、本気になれるものを知らないからだと思うんだ。まっすぐに心を揺らすもの、君はまだ、そういうものに出会ったことがない。当然だよね。関ってきた人や物が少なすぎるんだから」


 月を映した湖から風が吹き、それぞれの髪をわずかに揺らした。

 朱金色の髪がふわりと肩に落ちる頃、梛雉の笑みが慈愛めいて深くなる。


「孤高に自由を見るばかりじゃ、足元に埋もれているものには気づけないよ、惺壽。無価値や不必要に思える出来事の中に、宝物みたいな出会いが紛れていることだってある」

 振り返った態勢のまま、惺壽はしばらく沈黙していた。


 梛雉の言い分が、思いがけず深い場所で響いたからだ。


 たとえば今回の件。

 人間の乙葉が天乃原に迷い込んだと知りつつ、解決に自分の力は不要だと判じたゆえに、あの娘を遠ざけようとした。

 そう。これほど深く関わるつもりなどなかったのだ。

 しかし、その最中に拾い上げたものがあることはたしか。


(心を揺らすもの……か)

 それは惺壽の前に一人の少女の姿を取って現れた。

 もしも不要と判じ、頑なにあの娘との関りを断っていたのならば、今、この心を占める感情の名を知ることは永遠になかった。


 恋? 

 いいや、ただその一つだけではなく――


「情熱、とでも呼ぶべきか……」


 小さく呟く声は、梛雉の耳には届かなかったらしい。「え?」と無邪気そうな仕草で首を傾げている。

 惺壽はわずかに息を落とした。

「いいや。……押しつけがましい節介だと言ったまでだ」

 挿げ替えた言葉を返した。幸いにも梛雉はそれには気づかなかったようだ。

「ふふ、そうだね。けれど、へそ曲がりの君に敢えてこんなお節介を押し付けられるのは、長い付き合いの私くらいしかいないから」

「あいにくだが面倒事に巻き込まれたようにしか思えない。そんな友など御免被りたいところだ」

 梛雉の思惑に乗せられるのも癪だ。

 それに蟠りもある。

 素っ気なく返した惺壽に、梛雉は能天気にも笑ったのだった。

「嫌われることは覚悟の上だよ。そして、君が食わず嫌いをしていたものが、やっぱり嫌いのままでも、私はかまわないんだ。ただ、一度くらいは味見をしてみないとね」

「筋の通った道理ではある。しかし、あの娘を巻き込んだことに弁明の余地はない」

 言い捨てた直後、かっと閃光を放った惺壽の姿が獣に変わる。

「何があっても君が彼女を守ると信じていた――では、理由にはならないかな。とにかく乙葉嬢をよろしく、惺壽。どうか助け出してあげてね」

 背にかかった声は悪びれていない。

 だからもう返事はしなかった。


 麒麟姿の惺壽は、薄暗い室内から皓々と降り注ぐ月光の中に身を躍らせる。


 乙葉を連れ、沼垂主はすでに館に着いただろうか。

(時を食いすぎた。人知れず救い出すことは難しい)

 沼垂主から人間の娘を救い出す、惺壽の英雄譚。

 それが梛雉の筋書きだ。

 それは周知によって意味を持つ筋書きである。


 梛雉のことだから、とうに仕込みは終わっているのだろう。

 意図的に目撃者でも作り出しているのかもしれない。

 長々と足止めを食らったのも、あるいは、それを盤石にするための時間稼ぎか。


(抜かりのない男だ。……善意であるから手に負えない)

 

 すべては梛雉の底抜けの善意だ。

 それを示すように、猿芝居の結末には、あの男なりの厚意が用意してある。

 惺壽はともかくとして、乙葉に示されているのは中乃国への帰還。


 うまくすれば、乙葉は、理不尽にも沼垂主の失態の煽りを受けただけの哀れな人間に仕立て上げられるだろう。

 突然の人間の出現に雲乃峰をはじめ天乃原中が紛糾しても、不運な娘を天上に留め置くのはあまりに酷だと、誰もが心を痛めるはずだ。

 中乃国に戻される可能性は高い。


 無関係な天人たちの柵に翻弄されただけの幼気な少女なのだ、乙葉は。

 今でさえ、血迷った沼垂主にどのような仕打ちを受けているのか、皆目見当もつかない。



 もしも、迎えが間に合わなければ。


 命を失うことはなくとも、なにがかしたの取り返しのつかない事態が乙葉を襲っているとしたら。

 そうでなくとも、梛雉の思惑に踊らされたことに胸を痛めないとも限らない。


 それならば、あるいは――


(記憶を封じる……か) 


 天乃原の存在を、心を抉った爪痕を、過ごした日々の記憶ごと奪ってしまう。

 事実が消えることはない。

 しかし少なくとも、その事実が乙葉を苦しめることもない。


 たとえ、色づきはじめた惺壽の名が胸から消え去ったとしても。

 それすら忘れ果てれば、乙葉に再び訪れるのは日常の安寧だ。


 引きかえに惺壽が得るものはなんだろう。耐えがたい喪失感だろうか。


(あれもつくづく最後の詰めが甘い)

 梛雉は見かけによらず計算高い。

 しかし反対に、見かけ通りの生来の楽観主義でもある。

 乙葉の記憶を封じると簡単に口にしたが、それが惺壽にもたらすものに、ついぞ気づいていなかった。

 当然だろう。惺壽が乙葉に惹かれるなど、梛雉にも読み切れなかったはずだ。



(……頼まれるまでもない。あの娘は必ず救いだす)

 情け深い仁獣の性ではなく、一人の男として。


 この醒めた胸の奥深くに、初めての熱をもたらした人間の娘。

 全身全霊を傾け、守り抜くべき唯一の存在。



 そう――何にもかえがたいのだ。

 はにかむような笑み。

 拗ねた横顔。

 まっすぐに見つめてくる瞳。

 その直向きな心。


(あれを傷つけるものは、なにものであれ許しはしない)


 それがたとえ惺壽自身だとしても、情け容赦など一切無用だ。


(もとより手放すつもりの娘だ。……中乃国に戻れば二度と見えることはない)


 執着は醜態を生む。

 あの娘に無様な真似を晒すなどあってはならない。


 たとえ決別が惺壽に痛みをもたらしたとしても、それも一時のものだ。


 初めての喪失。それに伴う胸の疼き。

 甘美と受け止めるのもまた一興だろう。


 そしてそれこそが、あの初心な娘に示せる、男としてのささやかな矜持だった。


いつまありがとうございます。

次回より乙葉のターンです。

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