六章ー2話
「なかなか気に入っている住処ではあるが、誰が出入りしようと構いはしない。……が、それも居心地さえ損なわなければの話だな。少々留守にした隙に、こうも好き勝手に荒らされては面倒だ。後々の始末は誰の仕事だか」
惺壽は立ちあがりながら、薄暗い室内を見回した。
脇息は起こしたものの、敷物は未だ部屋の隅に転がったままだ。
壁際の几帳も倒れ、惨憺たる有様だった。
同じく散乱した室内を見回した梛雉は、悪びれない笑みを浮かべた。
「ずいぶん散らかっているみたいだね。誰かが、元気のいい追いかけっこでもしたのかな? ……おっと」
梛雉がわずかに首を傾げた。
その首筋を疾風が掠め飛ぶ。
刃に似た風は肌に傷をつけはせず、朱金色の髪を幾筋か切り取っただけだった。
はらりと薄闇に舞う髪を見つめ、同じ色の瞳が丸くなる。
「危ないな。もう少しで怪我をするところだったよ」
相変わらず、歌うような明るい口調だ。
惺壽は鋭く瞳を細めて梛雉を見返していた。次いで、飄々と肩を竦める。
「失敬。他人事のようで腹が立ってね。なんなく避けたように思えたが、次からは幾分加減するよう心がけよう。おまえの顔に傷でもつければ、天乃原中の女人から恨みを買うのは俺だ」
「あれれ。ひどいな、私の心配は二の次かい?」
「あいにく男に心を割くほど懐が深くないものでね。……それで、この惨状に心当たりはおありか。あの娘も姿を現さないが」
「乙葉嬢かい? 大丈夫。きっとどこかで無事にしているよ」
「そう願いたいものだ。……あれはどこにいる?」
低く尋ねた。声に抑揚はない。
それだけで十分にこちらの胸中を推し量ったようだ。
優し気な面差しに苦笑が浮かんだ。
「そんなに怒らないで。もう誤魔化さないから。……乙葉嬢は今、沼垂主どのの館にいるはずだよ。聞くまでもないことじゃないのかな」
そう。聞くまでもないことだった。
屋内に惺壽と梛雉以外の気配は感じ取れない。
加えて、この部屋の惨状。
誰かが屋敷に押し入り、乙葉を連れ去ったのだ。
あの負けん気の強い娘のことだ、可愛げを見せて儚く捕まりはしなかっただろう。散らかりようを見る限り、相当に抵抗したはずだ。
そして拐しの主は沼垂主と考えるのが適当だ。
やはり天虎を惺壽に押しつけた隙を狙い、押しかけて来たと見える。
結界が緩んだのは不運としか言いようがない。
「先ほどの問いかけの答えはまだだ。なぜ、おまえまでここにいる?」
「ちょっと沼垂主どののことが気になってね。追いかけてたきたんだよ。雲乃峰でお会いした時はひどく顔色が悪かったから。私はただ、月読乃宮に惺壽の花嫁のことをお話した、という世間話をしただけなんだけれどな」
惺壽はぴくりと片眉を上げた。
「……俺の花嫁?」
「そう。君が沼垂主どのにそうご紹介したんだろう? 妻に迎えようとしているお嬢さんがいるって。私は彼の御仁からその話を聞いたんだ」
沼垂主がなぜ事を急いたのか。
そのわけをようやく理解した。
(この男がけしかけたのか)
確かに惺壽にも覚えがある発言だ。
それは乙葉と沼垂主が初めて鉢合わせた時の話である。
女好きである沼垂主が、あの未成熟な小娘の素足にさえ助平心を出していたためだ。手っ取り早く煙に巻くため、いずれ妻に迎えるつもりだと乙葉を紹介した。
(その場しのぎの偽りに、ここで足元を掬われるとは)
梛雉の耳に入れたのは、当然、沼垂主本人だろう。
まさか、それが自分の首を絞めようとは夢にも思わなかったはずだ。
そして追い込まれたのは惺壽も同じこと。
月乃宮の耳に入った以上、惺壽の“花嫁”は必ず人々の耳目を集める。
乙葉の正体が明らかになるのは時間の問題だ。
「……不承不承ながら長い付き合いを経てきたと思っていたが、どうやらおまえを見誤っていたらしい。どんな相手であれ、女を苦しめるような真似だけはすまいと思っていたが」
乙葉が人間であることが周知されれば、地上に戻すことが難しくなる。
天上世界は積極的に中乃国と関りを持とうとはしないためだ。
それが分からない梛雉ではあるまい。
乙葉が元の世界に帰りたがっていることを知りながらの暴挙だ。
女と見れば誰にでも甘い顔をするこの男が、そんな手に出るとは思わなかった。
冷ややかな視線を投げた惺壽だったが、梛雉はこともなげに笑ってみせた。
「もちろん、そんな真似は決してしないよ。だからこそ、こうやって沼垂主どのに悪役になってもらっているんじゃないか」
意図するところが分からず、瞬きを返す。
こちらの表情を見てか、朱金色の髪の青年はくすりと口元を緩ませた。
「訳も分からず天上に招かれた乙葉嬢が、君の庇護の下にあると知られれば、疑われるのは君だ。そうして同じく乙葉嬢にも疑いがかかる。二人は情を通じ合わせた仲なのではないか、とね。それこそ罰の対象になりえないかい? 君たちは沼垂主どのが罪を犯したことを知りながら、愛欲のためにそれを隠匿し続けたことになる」
「愛欲ね。あれ相手では縁遠い話だが……おまえも同様の罪に問われることになるぞ」
梛雉と惺壽の交流は誰もが知るところだ。
当然梛雉にも疑惑の目は向くだろう。
「そうだね。それも困る。だからこそ、乙葉嬢は沼垂主どのに捕らわれていなければまずいんだ。それを君が助け出す。勇気ある行動だよ。君は称賛を浴び、不運な乙葉嬢には同情の余地がある」
「人間であるという周知の結果は変わらない。天上に留め置かれる可能性は残るが?」
「天乃原で過ごしていた間の記憶を封じてはどうかな」
意外な打開策に、惺壽はわずかに目を見開いた。
「……記憶を封じる?」
「そう。天乃原の存在が中乃国に混乱をもたらすのなら、その記憶を封じてしまえばいい。月乃宮や陽乃宮ならばそれくらいは簡単だろうし、私もそう進言するつもりだった。なにしろ乙葉嬢は、“同情されるべき乙女”だからね」
だからこそ、乙葉は捕らわれの乙女でなければならないというわけだ。
なにもなかったというのが事実だが、惺壽との仲を疑われればそれも難しくなる。
(記憶を封じる……)
たしかにそれならば、人間と知られても乙葉を地上に戻すことができる。
その暁には、あの娘の中から、惺壽の存在は抹消されるのだ。
永遠に。
「乙葉嬢には悪いことをしたと反省しているよ? けれど、こちらにいた時のことを忘れたほうが彼女のためにもなるんじゃないかと思ったんだ。乙葉嬢を攫ったところで、あの心優しい沼垂主どのにむごたらしい真似ができるはずもないしね」
梛雉はすこし言い訳がましい口調で言った。
沈黙を怒りと受け取ったらしい。
一瞬の動揺を胸中深くに沈めるように、惺壽はあくまで飄々とした口調を崩さなかった。
「……心優しい、ね。相変わらず鳳凰どのは囀りが巧みでいらっしゃる。あの愛すべき番人どのは、単なる狭量な臆病者だと思っていたが」
梛雉の言い分に理があるのはたしかだ。
沼垂主は強きにへつらい、弱きを虐げることで、雲乃峰での栄光を掴んだ。
保身ばかりを気にする男は、いつも己の悪行が暴かれやしないかと怯え続けている。そんな小心者にできる謀略などたかが知れたものだ。
(たとえ小娘一人でも殺める度胸はあるまい)
乙葉の命の危機についてはそれほど案じていない。
しかし、万が一ということもある。
そしてそれ以上に、沼垂主が乙葉に示した興味のほうを危惧していた。
手元に置いたことに調子づいて、よからぬ欲を出さなければいいが。
惺壽は静かに梛雉に背を向けた。
「乙葉嬢を迎えに行くのかい。やはり君は情け深い仁の人だね、惺壽」
呼び止められ、惺壽は肩越しに振り返った。
薄闇の中、にこやかに微笑む瞳と目が合う。
「乙葉嬢を無理やりにでも預ければ、きっと君は彼女のために動くと思っていたよ。途方に暮れている彼女を見捨てておけるはずがないからね」
「端からこんな回りくどい筋書きを書いていたと?」
「いいや。君から、沼垂主どのが天虎に襲われたと聞いた時に思いついたんだ。私はその直前、御方が騎獣探しを命じられたことを、御令嬢からお聞きしていたから、天虎と乙葉嬢になにか関りがあるに違いないって、すぐに気づいた」
「……なるほど。どこの端女を誑かして聞き出した噂かと思えば、あの愛娘どのをね。御方の耳に入ればさぞお怒りを買うことだろう」
冷ややかに言ってやる。
梛雉の笑顔が少々引き攣った。
「ははは、まあね。……追い込めば追い込むほど、君は必死に乙葉嬢を守ろうとするだろうと思った。仁の獣が窮地に追い込まれる彼女を見放すはずがない。逆に言えば、庇護を与えなくとも彼女が安泰だと分かった途端、へそ曲がりな君が乙葉嬢を見放すこともこわかった」
「…………おまえの望みはなんだ?」
梛雉の狙いは、惺壽に乙葉を守らせることだ。
それはすべて、麒麟としての仁の性を根拠にしている。
そう。梛雉は知らないのだ。惺壽の本心を。
仁の性。憐れみ。庇護欲。
それを凌駕するはるかに強い想いで、あの娘を迎えにいこうとしていることなど。
(この男がそれを意図したとも思えない)
梛雉は惺壽の嗜好や趣味をよく理解している。女人の好みもまた然りだ。
だからこそ、あんな色香や情趣の欠片もない小娘に惹かれているなどとは、考えもつかないだろう。
なにしろ惺壽自身でさえ理解に苦しむ恋情だ。他人に推し量れるはずもない。
だとしたら、梛雉の狙いはなんだ。
あくまで惺壽をこの件に巻き込みたがった理由とは。
「関わってほしかったんだよ、君に」
短い言葉に、沈黙を返して次を待つ。
「今の境遇に追いやられて以来、君はまるで世捨て人みたいだったからね。誰にも顧みられず、誰もを顧みようとしない。時々、羨ましいくらいの美女と浮名を流すだけだ」
「それがなにか? あいにく、この悠々とした生活はたいそう気に入っている。取り立てて今の雲乃峰が俺を必要としているとも思えないが」
沼垂主の策略に嵌められ、『無能者』の烙印を押されて以来、惺壽を顧みる者は少なくなった。ただでさえ熾烈な思惑渦巻く雲乃峰だ。
敵が減ったと喜ぶ者も多いだろう。
それでどうということもない。
『無能』であろうとなかろうと、己の真価は己がよく知っている。
なにを果たすことができ、いかなる事態にその力を発揮すべきか。
「必要とされる時になれば、呼ばれるまでもなく、何処へも馳せ参じるさ。しかし今までにそんな大事は起こらなかった。だからこそ今に至る。それだけだ」
それが惺壽もまた、誰をも顧みなかった理由だ。至極適った理屈である。




