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六章―1話

 行く手に巨大な雲が見える。

 繭のような形のそれは、夜空に浮かぶ満月の光を白々と照り返していた。


 星々の合間を駆ける惺壽は、ますます速度を上げた。

 もう間もなく繭雲の結界を抜け、雲乃峰にたどり着く。

 ――かと思ったが。

「ぎいいいええええぇぇぇぇぇぇ!!」

 静寂の中に間抜けなほどに響き渡った絶叫に、歩みを止めた。

 がらがらがらと回るけたたましい轍の音が近づいてくる。


 右方からだ。

 振り返った惺壽の目に映ったのは、こちらに疾走してくる一台の黒塗りの車だった。妖獣に牽かせたその周りを取り囲むのは、斑模様の妖獣に跨った男たちだ。

 その佇まいに見覚えがある。沼垂主の従者たちだ。

 皆、血相を変え、涙声の悲鳴はひっきりなしに車中から響いていた。


 そのやや後方には、同じくこちらに向かってくる漆黒の獣の姿が見えた。

 艶やかな毛並みに、一対の翼。暗闇にも皓々と燃え上がる深紅の瞳。

 赤目の天虎だ。


 惺壽は方向を変えて走り出した。

 真っ向から、黒塗りの車と天虎を迎え撃つ。

 駆けてくる惺壽に気づき、車を囲む供の一人が何事か車中に声をかけた。

 車の主を――沼垂主を励ましでもしているのかもしれない。

(どこまでも難儀な男だ)

 憐れみなど一かけらも沸かないが、あいにく今は沼垂主に死なれては困る。

 天虎を追い払った後はせいぜい恩を着せてやればいい。

 取引で優位に立つ材料にしてくれる。


 黒塗りの車との距離が縮まる。

 惺壽はわずかに軌道を逸らし、その脇を走り抜けた。

 疾走に合わせ、びゅうっと風が巻き起こる。

 煽られて車前方の御簾が揺らぎ、内部の人物の姿が垣間見えた。

 案の定沼垂主だ。車の速度に振り回され、椅子から尻を浮かせている。


 涙目だ。すれ違う瞬間、そのぎょろついた目がたしかにこちらを捉える。

 刹那。

 その引きつった口元が、歪んだ。まるで笑みにしくじったように。


 すべて一瞬の出来事。

 虚空で惺壽と沼垂主一行が行き違う。

 

 直後、後方に軋んだ音が立った。

 振り返るより早く、視界の端に、向きを反転させた黒塗りの車が明後日の方向に走り去っていくのが見える。どうやら雲乃峰に逃げ込むことはしないらしい。

(――まさか)

 惺壽が閃いた直後、目前に迫った天虎が吠え、視線をそちらに向けることを余儀なくされた。

 赤目が憎々し気にこちらを睨みつけている。

 どうやらたいそう恨みを買ったらしい。


 舌打ちし、惺壽はぶんっと頭を振り上げた。

 空気が波を打つ。高まった神力を天虎目がけて放ったのだ。

 漆黒の毛並みに火花が飛び、妖獣は身体ごと虚空に投げ出される。

 そのまま落下するかと思いきや、しかし空中でもがいた天虎はすぐさま態勢を整えた。四肢を踏ん張らせて虚空に踏みとどまり、喉の奥で低い唸り声を響かせる。

(さぞ手間をかけてくれそうだな)

 他人事のように心中で呟いた。裏腹に、惺壽の双眸は鋭い光を湛えている。


 なにしろ今の一撃で致命傷を負わせるつもりだったのだ。

 逃げた沼垂主たちを追いかけるには、この執念深い妖獣はどうしても足止めする必要がある。

 しかし、天虎はわずかにかすり傷を負っただけだ。

 

 あちらが強さを増したのではない。

 こちらの神力が弱まっている。


 屋敷に一人残す乙葉を守るため、結界に力の大半を割いている。

 天虎が狙う乙葉を同行させなければ、道中で彼奴に行き会わせることはあるまいと高を括った結果だ。沼垂主の後を追おうにも、果たせない状況だった。


(さて。……御方の狙いはなにやら)

 すれ違う一瞬に見せた、沼垂主の笑み。

 それがどうにも胸をざわめかせる。

 天虎の面倒を自分に押し付け、不在の隙に、これ幸いとあの娘を攫いに行きでもしたら。

(あの色香の欠片もない小娘にご執心の挙句、骨折り損とはご苦労なことだ)

 屋敷には結界がある。

 出向いたところで沼垂主ごときに破れるはずはないが――


 ふと一抹の不安が胸をよぎり、――劈くような咆哮で我に返った。


 はっと正面を見据えれば、目前に、天虎の牙と赤い舌が迫っている。

 

 遅れを取った。

 そう気づいたと同時、額に戴く二角からかっと閃光が放たれる。


 夜闇に細く帯状に現れた光は、一拍後、爆ぜたように広がり、辺り一帯を白い光に包み込んだ。

 

 浮かび上がる景色は残像だ。

 やがて明滅しながら世界が色と静けさを取り戻す頃、対峙していたはずの天虎の姿が消え失せている。


「……失敬。一人の女にかまけて戦意を喪失するなど初めてでね。咄嗟のことで手加減ができなかったようだ」

 ぽつりと呟いた惺壽は、下方に目をやった。

 漆黒の毛並みが、そば近くの小さな浮雲に横たわっている。引き締まった腹が小さく上下を繰り返していた。

 死んではいない。天虎は失神しているだけだ。

 それを確認し、惺壽は踵を返して走り出した。


(沼垂主のことを言えた義理ではないな。小娘一人に執心なのはどちらだか)

 乙葉の身を案じ、攻撃に転じた天虎に遅れを取ったのだ。

 不覚とも呼べない失態だ。

 闘志をむき出しにしている敵の前で気を抜くなど、常の自分ならばありえない。 それほど意識が余所を向いていたということだ。

 そして敵に喉元にまで迫られた挙句、焦ってあれほどの力を解放したなどと、もはや出来の悪い笑い話にもならなかった。なにしろ。

(結界が緩んだ)


 あの一撃に気をとられ、屋敷と乙葉を守る結界への意識が疎かになった。

 時間にすればたったの一瞬間。

 撓んだものはすぐにあるべき姿に戻るはずだ。

 しかし、その手応えを感じない。

 ただの気のせいならば越したことはないが――焦燥は次第に大きくなっていく。

 

 もしも、神力が弱まった一瞬、結界になんらかの圧力が加わり、崩壊したのだとしたら、あの屋敷は誰の訪れも拒むことはない。

 そして、行く手には紺色に染まった雲が漂うだけだ。

 とうに走り去った沼垂主たちの姿を捉えることはできない。

 

 天虎さえ現れなければ回避できたはずの事態だ。

 しかし、惺壽があの妖獣に抱くのは、かすかな憐憫でしかなかった。

(あれも不憫な身の上だ。同胞を奪われ、執拗に怒りを持て余すことしかできないとは)

 赤目の天虎は、沼垂主によって理不尽に同胞を奪われた。

 同情を覚えるのは、麒麟としての仁獣の性だろう。

 しかしこれほどの心の共鳴は、それだけでは説明がつかない。


(失うことの恐怖……か)

 喪失感の悲しみ。苦しみ。そういう感情があることは理解していたが、今まではそれだけでしかなった。肌身に沁みたことなど一度もない。

 なにしろ、我ながら何事にも執着しない性質なのだ。

 喪失を惜しむことなど永遠にないと思っていた。

 しかし今、自分はなにかに突き動かされるように天空を駆けている。



 とうとう行く先に馴染み深い森が見えた。

 一気に走り抜けて縄張りの上空に差し掛かった惺壽は、一度足を止めると、わずかに細めた目で我が家を見下ろす。

 夜の闇に包まれた自邸はいつもながら静まり返っている。


 降下を始めた。その歩調は今までと打って変わり、ひどく緩やかだ。

 さざ波を立てる夜の湖面を渡り、いつもの部屋に降り立つ。

 

 壁のない室内を風が吹き抜けていた。

 物音一つ聞えない。

 獣姿から人の姿を取った惺壽は、静かに室内の中央に歩き進んだ。


 差し込む月光の中、磨き抜かれた床板が冴え冴えと光っている。

 その床に膝をつき、横倒しになっているものに手を伸ばした。

 愛用の脇息だ。元の通りにそれを起こす。そばに置かれていたはずの敷物は、あらぬ位置まで移動し、そこに置き去りになっていた。


 室内には争った形跡がある。

 常ならば心地よいはずの静寂は、今はひどく寒々しい。

 

 ふと、回廊のほうから足音が近づいてくる。

「ああ、帰ったんだね。御機嫌よう、惺壽。行き違いにならなくてよかった」

 響き渡ったのは、場違いなほど明るい声だった。

 片膝をついた態勢のままの惺壽は、ゆっくりと脇息から視線を上げる。

「奇遇だな。俺も同じ心持ちだ。……まずは、家主に無断で屋敷に上がり込む、その了見を窺わせてもらおうか」

 薄闇の中に冷ややかな問いかけを投げれば、戸口に佇んだ人影は、長い朱金色の髪をさらりと揺らして微笑む。

「いやだな。今さらかい? なにも言われなかったから、てっきり好きなように出入りしていいものだと思っていたよ」

 無邪気な言葉に、人好きのする笑み。

 答えた梛雉はいつもどおりの朗らかさだ。


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