六章ー0.5話
「こ、これでやっと月読乃宮にもご満足いただけるわい」
雲乃峰。その高楼。車宿りを出た沼垂主は、松明を掲げた少数の供に囲まれつつ、梅林をせかせかと突っ切っていた。
周囲には闇の帳が降りている。
天照陽乃宮は未だ天乃岩戸にお籠りであり、陽が昇らないからだ。
しかし、この長い夜も直に終わるだろう。
なにしろ、苦心の末に、献上する騎獣をやっと捕獲したのだから。
「取り逃がした天虎よりは格段に見劣りするが、なあに。陽乃宮とて本当に騎獣を探しておられるわけではない。目先の変わった慰み相手を欲しておられるだけだ」
陽乃宮は幼気で、気まぐれな方だ。
心から騎獣を欲しているわけではなく、少々毛色の変わった遊び相手を欲しがっているに過ぎない。要は幼子に玩具を与えるようなものなのだ。
そういうわけで沼垂主は今、報告のため、月読乃宮との謁見を申し入れにいく最中なのだった。
すでに大役を終えた気分だ。
これで月読乃宮に『無能者』と罵られることもない。
あとの心残りはといえば、自分の不始末にどう片をつけるか。その一つ。
「ううむ……あの娘の存在をどうやって隠し通したものか……」
この天乃原に人間の小娘を野放しにするわけにいかないのだ。
とにかく手元に奪い返さなければなるまい。
その後は?
いっそ、とある男の勧めに従って中乃国に帰してしまうか。
いや、しかし、それでは同時に、別の男の言いなりになることを意味している。
憎き双角の麒麟。
天虎を連れ帰る代わりに小娘を地上に送り返せなどと言っていた。
優男はともかく、あの麒麟の指図には死んでも従ってはならないのだ。
「消す……しかないだろうが……」
一度はそう固く決めたこともある。
だが、いざとなると、どうにも踏み切れずにいるのも事実で。
「――ああ、これは。御機嫌よう、沼垂主どの」
不意に、梅林を進む沼垂主の前方から、優雅な声が飛んできた。
足を止めた沼垂主の周りで、誰何のために従者たちが松明をさらに高く掲げる。
仄明るい紅梅の中、ぼんやりと炎に照らし出されたのは、豪奢な装束を纏った優し気な青年だ。長い朱金色の髪が宵闇にもさらりと光を放っている。
「月読乃宮の御許へご機嫌伺いですか? 私はちょうど御前を退散してきたところです」
「はん。ご苦労なことだ。お主ごときにご機嫌を取れるような御方ではないというのにの」
岩戸に籠った陽乃宮だけでなく、このところは月読乃宮も少々機嫌が悪かったが、それは目当ての騎獣が見つからなかったからだ。
いかに優男の口がうまいとはいえ、彼の方を満足させられるのは自分しかいないのだ。
誇示するように胸を張って見せた沼垂主に、優男は親し気な笑みで近づいてきたのだった。
「それが、今日は珍しくもご機嫌麗しく私の話に耳を貸してくださったのですよ。……といっても、沼垂主どのからお聞きした話をそのままお伝えしただけなのだけれど」
「儂から聞いた話?」
「ええ。ほら、以前に仰っていたでしょう? 惺壽が奥方を迎えようとしている……と」
「…………なぬ?」
音を立てて全身から血の気が引いた。
「月乃宮もたいへん関心を示されておいででした。早速、惺壽ともども、その女人を召し出そうと仰ったくらいです。そういうわけで、これから私は惺壽を呼びに……」
「なななななななな、なぜそのようなことをっ?」
滔々と続く口上を上ずった声で遮ると、優男はにこやかな笑みのまま首を傾げる。
「あの惺壽が妻と定めた女人ならば、岩戸の陽乃宮も興味を持たれて、姿を現されるというお考えなのでは?」
「違うっ、聞いとるのは陽乃宮のことでも月読乃宮のことでもないわ!! なぜお主は、宮にあの小娘のことを言って聞かせたのだ!? こうなることは目に見えていたであろうに!」
あの女泣かせの麒麟が妻に迎えようとする女など、誰もが興味を持ち、一目見ようとして当然だろう。早晩雲乃峰に呼び出されるのは必定である。
この優男だってそのことは承知していたに違いない。
それなのに、なぜ、よりにもよって、あの小娘の話を月読乃宮に持ち出したのだ。
「な、なぜ、儂を裏切るような真似を……!?」
あの娘が人間であることをそっと耳打ちしてきたのは、今、目の前にいるこの優男だ。
人に知られる前に中乃国に送り返すべきだと幾度も勧めておきながら、今頃になって、こちらの首を絞めるような暴挙に出た。
その事実が信じられなかった。
沼垂主は、真っ青な顔で優男を見上げる。
松明に照らされた秀麗な白い面は、意外そうに目を丸くしたのだ。
「裏切る……とは、意外なお言葉ですね。私は誰の敵にもなった覚えはありませんが……まあ、強いて言えば、惺壽の友人――かな?」
その言葉に足元がガラガラと音を立てて崩れ去る気分を味わった。
「なん……と……」
味方の振りをしながら、この優男は味方でもなんでもなかったのだ。
騙された。この人のよさそうな笑顔と、甘い言葉に、ほいほいと。
「おっと、そろそろ惺壽を呼びにいかなくては。それでは御機嫌よう、沼垂主どの」
人懐こい笑みを一つ残し、優男は沼垂主とすれ違って歩き去っていく。
振り返りもしない背中は、松明の明かりの輪を外れ、静かに夜陰に紛れていく。
従者に囲まれた沼垂主は、しばらくその場に立ち竦んでいた。
「月読乃宮が、麒麟と、小娘を召し出す……?」
月読乃宮は、最も高貴にして高い神力を有する天人だ。
小娘が目前に引き出されれば、人間であることなど一目で見破るだろう。
それが意味するものはなんだ。沼垂主の失態の露見に他ならない。
「そ、そうだ。天虎を……! あの麒麟に、赤目の天虎をけしかけろ! どんな手を使ってでもかまわん!」
閃きの直後に絶叫した。
突然の命令に松明を持つ従者たちが明らかに戸惑いを見せる。
「ええい、物わかりの悪い奴らめ、麒麟が天虎にかかずらわっている隙に娘を拐せと言っているのだ! なんとしてでもあの娘が月乃宮の御前に召されることを防げ! あの優男にも先を越されてはならん!! ――急げーぃ!!」
それが出来なければ自分は破滅するだけだ。
あたかも坂道を転がり落ちる小石のように、易々と。
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