五章ー20話
いつもありがとうございます。
この20話は昨夜更新の19.5話を加筆大幅修正したものです。
二度手間をおかけするようですが、修正前よりもぐっと雰囲気がよくなりましたので、ぜひご覧ください。
お手数おかけします。
水際にしゃがみこんでいた乙葉が立ちあがり、引き返していくのが見える。
どうやら室内にいる惺壽には気づかなかったようだ。
「…………」
欄干そばに歩み寄った惺壽は、乙葉が今までいた場所を覗き込んだ。
宵闇の中、浅瀬にある石の囲いに目が留まる。
その中で、清らかな水面に揺蕩うのは李の枝だ。真白の蕾に見覚えがある。
――今しがた見せた、満足げに笑う横顔。
どうやら早合点ではないらしい。昨夜の乙葉の捨て台詞の意味は。
『いつもいつも惺壽のことばっか考えて、一人でぐるぐるぐるぐる悩むの、もうたくさん……!』
あの娘の頭の中は、いつも惺壽のことで占められているらしい。
その意味を、口走った当の乙葉自身でさえ気づいていないようだった。
(さて。……どうしたものかね)
惺壽は欄干に浅く腰かけた。
乙葉の中に芽生えかけている感情を、このまま見過ごしていいものだろうか。
なにしろ。
(情を通じることになろうと、こちらに留めおくことはできまい)
乙葉が惺壽に抱くのは淡い恋心だ。
だが、あの娘は必ず中乃国に戻る。あちらには家族や友人もあるだろう。
たとえ恋愛感情に気づき、想いが通じ合ったところで、それらすべてを簡単に投げ出す娘だとも思えない。
選択には深い苦悩が伴うだろう。
そうなる前に、惺壽の手で、乙葉の想いを静かに閉ざしてしまうことは可能だった。
なにしろ初心なあの娘と違い、こちらにはそれなりの“実践”経験がある。
乙葉より先に乙葉の気持ちに気づいたのも、その経験の差だ。
駆け引きの行方はこちらが握っている。
「………………」
教え、導くこともできるのだ。
恋に溺れさせ、この天上に自ら留まるよう仕向けることも、自分ならば難なく果たせる。
元いた世界を捨てること迫られ、そのことで乙葉が悲しむことがあったとしても、それを補って余りあるほどのものを注いでやればいい。
そして、その自信は充分にある。
しかし――果たしてそれでいいのか。
あの娘からなにかを奪う真似をしていいのかと、頭の隅で呟く声がある。
(……我ながらの溺愛ぶりだな)
ふっと唇が自嘲のように歪んだ。
なにも失わせたくない。他人にそんな思いを抱いたのは初めてだ。
それも当然か。
なにしろ自分は、そんな悩みなど無用な女ばかりを恋の相手に選んできたのだ。 恋は一時の刺激と悦楽に過ぎず、それ以上に自分を煩わせるものではなかった。
(これが恋――ね)
甘いばかりではない。苦しみや痛みや疼きを伴うもの。
それを真に恋と呼ぶのだと、乙葉に出会って初めて知った。
『……恋を恋と気づけぬほど愚かではなくとも、深淵を知るにはまだ遠いのかしら』
そう言ったのは鈿女君だ。
なにもかもお見通しだったのだろう。
経験ゆえに、この感情を恋だと気づかぬほど愚かではなくとも、それがどれほど奥深く厄介なものなのか、惺壽も未だ気づいていないのだと。
――厄介。
そう呼ぶにふさわしい感情だ。
いくら冷静な判断をしようと、理屈抜きに容易くなぎ倒してしまう凶暴さを秘めている。
そんな煩雑さに辟易しながらも、それを上回る幸福をもたらすのも、また確かなのだ。
惺壽は欄干に腰かけたまま、湖の浅瀬に揺蕩う李の一枝に目をやった。
鈿女君の屋敷で手折り、乙葉に贈ったものだ。
後生大事に世話をしていたらしい。
そうして、それを見つめながら零した笑みを思い返せば、胸の深いところになんとも形容しがたい甘い疼きが起きる。――この感覚は悪くない。
(俺がどうこう思い悩んだところで、あの娘は中乃国に戻すのが相応しい)
それがいいだろう。
乙葉の中に芽生えかけた感情は、当人が気づく前にそっと閉ざしてやるべきだ。
そうすれば乙葉が失うものはなにもない。
失うのは惺壽一人だけだ。
そうして、失ったからといって、それで世界が終わるわけでもないのだ。
戯れであろうと本気であろうと、恋は恋。
一つが終われば、また新しい一つに巡り合う。
経験から自分はそれを知っている。
今は躊躇いを覚えても、この恋も、手放せば、いつか想い出の中に紛れる。
(……そうと決まれば、早々に片をつけるべきか。これ以上長引けば、自分でも何をしでかすか予測がつかない)
乙葉を手元に置き続ければ、さらに未練が募るだろう。
惨めたらしく泣いて縋る自分はあまりいただけない。
さっさと中乃国に戻すべきだ。そうすれば自分自身も思い切ることができる。
惺壽は、静かに欄干から立ちあがった。
さらりと前髪を揺らす水風の中に目を閉じる。
やがて、じわじわと額が熱を帯び始めた。
ここには麒麟の神力の源が埋まっている。
人の姿では見えないものの、獣の姿を取った折に角があるのはそのためだ。
かっと瞼の裏が閃光に白く焼けた。
それが収まる頃、惺壽はゆったりと目を開いた。
いつの間にか風は止み、群青色に凪いだ湖面には、銀色の月の姿が鏡のように映りこんでいる。
己の中の神気を放ち、この雲上を結界のように包み込んだのだ。
今、この雲上に出入りできるのは、惺壽自身か、それよりも高い神力を有する天人だけになっている。
沼垂主はもちろんのこと、梛雉でさえ結界を破るのには手こずるだろう。
今から屋敷を留守にするための苦肉の策だった。
ひどく力を消耗するため、そうそうは用いたくない手なのだ。
しかし、あまり頻繁に鈿女君の許に乙葉を預けるわけにもいかない。
(せいぜい赤目の天虎に遭遇しないことを祈るばかりだな)
この結界に神気を割かれたままで戦闘になれば、圧倒的に不利の一言に尽きる。
他人事のように思いながら、人型から獣の姿を取った。
欄干を飛び越え夜空高くに駆け上る。
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