二章ー3話
白雲の合間を駆けていた惺壽の目に、深い森に囲まれた自邸が見えてきた。
(……さて、あの男は今度はなにを企んでいるのやら)
乙葉という中乃国の娘が、どういう経緯で天乃原に迷いこんだかは定かではないが、十中八九、この件に天乃浮橋の番人である沼垂主が関わっていることは間違いない。
無用な混乱を避けるため、天乃原は中乃国との交流を控えている。
そこに人間の娘が現れたとなれば、その処遇を巡って天上は紛糾するだろう。
だからこそ梛雉はしばらく乙葉の存在を伏せ、真相を探るつもりのようだが――惺壽はさほど、この件に心を惹かれていなかった。
これ以上深入りはしない。乙葉を屋敷に置いていったのは梛雉だ。
ならば、最後まで面倒を見るのも梛雉だろう。
それにしても、か弱げな見かけを裏切る、胆の据わった娘だ。
この見知らぬ天上の世界で、天人を相手によくあれだけ物怖じせずにいられる。
脳裏に、頬を染めてこちらをまっすぐ睨みつけた乙葉の怒り顔がよみがえった。
助けてほしいという願いを手ひどく一蹴され、怒りをこらえた時の表情だ。
惺壽の唇の端が緩んだ。
自分が醒めた性根のせいか、あの直情さがひどく微笑ましい。
(可愛げはないが、根が正直なことに違いはない。……からかい甲斐はある娘だ。退屈しのぎくらいにはなるだろう)
一人に慣れた身には賑やかすぎる同居人だが、屋敷から追い出すほどでもない。
どうせ遠からず、梛雉がなんらかの手配をするだろうとも見当はついている。
あの娘が天乃原に迷い込んだのはたしかに不可解だ。
しかし欲深い沼垂主の陰謀に加担しているとも思えない。
あの男とて、それは承知しているはずなのだ。
その時、さっと周囲が翳った。
上空を仰いだ惺壽の瞳に、今まで周囲を照らしていた陽の姿は映らない。
突如として光源を失った風景が、にわかに闇に閉ざされていく。
さして珍しくもない事態だ。惺壽は無言で空を蹴り、屋敷への降下を再開した。
湖に面した部屋の欄干を跳び越える頃には、世界は完全に闇に没している。
一筋の明かりさえないが、麒麟は夜目が利く種族だ。とくに双角である自分に不便はない。
暗い室内を難なく見回した惺壽は、だが眉間を寄せた。
(……気配がない?)
風通しの良い室内にあるのは最低限の調度品だけで、あの娘の姿は見当たらない。
神経を研ぎ澄ましても、屋内に気配が感じ取れない。
(……外に出たのか)
ふと、足元の床に落ちているものに気づく。
柔らかそうな一筋の髪だった。そこそこ長さはあるが、惺壽のものでも、もちろん梛雉のものでもない。
惺壽は首を下ろし、その一筋の髪にそっと鼻先を寄せた。
瞬間、それは、白く光る蝶へ姿を変える。
「主はどこへ行った?」
そっと問いかけると、蝶は透き通る羽を震わせ、ひらひらと舞い上がった。
光の鱗粉を散らしながら飛んでいく先は、欄干を越え、湖の対岸に広がる森だ。
あの蝶は乙葉の一部。生身の本体を恋しがり、本能のままに後を追いかけている。
舌打ちは堪え、惺壽は、淡く光る白い蝶を追って、暗い湖上へ躍り出た。
∻ ∻ ∻ ∻ ∻ ∻ ∻
どれくらい経ったのだろう。
乙葉の意識は膜を張ったようにぼんやりしていた。
静かな足音がこちらに近づいてくる。
(誰……)
かすかな衣擦れが響き、ふわりと動いた風が頬を撫でる。
誰かがそばに膝をついたらしい。
「見張る必要はないと言われた覚えがあるが、どうやら記憶違いだったようだな」
低い声が聞こえた。
嫌味っぽい言い草だ。――覚えがある。
そう思っていたら、あたたかな手が、地面にうつ伏せた頬を掬って、顔を傾けられた。
「……神気が凝ったのか。息を吐け。すこしは楽になる」
細いものが唇に触れる。
指だ。この人は乙葉の口を開かせようしているらしい。
(嫌い……!)
唇を割ろうとしていたその指に、カリッと歯を立てた。
噛みつかれたほうはさすがに驚いたらしい。
ややあって、小さな溜息が降ってくる。
「女人の噛み痕ならば冥利にも尽きるが、できればもう少々色っぽくお願いしたいものだね、お嬢さん。そう力まれては、手負いの獣に止めを刺している気にしかならん」
なにを言われているのか、朦朧とした頭では半分も理解できなかったが、乙葉は一生懸命噛みつく力を強めた。
とにかくこの人に気安く扱われるのはごめんだ。
「……手負いにしたのは、俺か」
再び、そんな細い溜息が聞こえた。ふわりと頭を撫でられる。
「力を抜け。その反骨のたくましさには恐れ入るが、毛を逆立て、牙を剥くばかりが、身を守る術ではないだろう」
どこか冷ややかな口調と裏腹に、優しい手つきだった。
驚いて噛む力を緩める。その隙に、咥えた指が歯の間からするりと逃げた。
「それでいい。……四肢を伸ばせ」
今度は、指先が、毛並みを乱すようにふわふわと乙葉の髪を梳いた。
気持ちがいい。思わず、わずかに開いた唇から小さな息が零れる。
「そう――いい子だ」
耳元で低い呟きがあり、気づいた時には弛緩した身体が宙に浮いていた。
強張っていた全身からは力が抜け、薄く開いた唇は楽に呼吸を繰り返している。
投げ出した手足がぶらぶら揺れた。どうやら抱えられて運ばれているらしいと分かったが、全身を包むぬくもりにとても安心して、抵抗する気も起きない。
なんとか霞む目を薄く開いてみる。見えたのは、さらさらとまっすぐな糸のように流れる淡い金色の光の帯だけだった。
(きれい……)
見つめているうちにとろとろと瞼が落ちてくる。
睡魔に負け、乙葉は再び目を瞑った。
――次に目を開くと、暗い天井が見えた。
「御機嫌よう、乙葉嬢」
目をぱちくりさせていた乙葉は、すぐ側で響いた朗らかな声に、そちらを向いた。
薄闇が漂う中、美青年が行儀よく床に座っている。
にこやかにこちらを見下ろすのは梛雉だ。
背後には簡素な木戸があり、その桟から白々と差し込んだ月光が、彼の朱金色の長い髪を鈍く輝かせていた。
「……月?」
「そうだよ。また陽乃宮お籠りになられたから、代わりに月乃宮が上っていらっしゃる――っと、もう起き上がってもいいのかな?」
狭い部屋の中、畳に似た寝具に寝かされていた乙葉は、のそのそと起き上がった。
(え、と……なにがあったんだっけ……)
記憶を手繰り寄せる。
次の瞬間、梛雉のきらびやかな衣装の胸倉を両手で掴み上げた。
「ど、どうしたんだい乙葉嬢。起きたばかりなのにそんなに急に動いてはいけないよ」
「平気よ、ちょっとその羽だか髪だかを毟ってあんたを焼き鳥にするだけだから。ていうか人を監禁しといて、よくもそんなに能天気ににこにこしてられるわねぇええ?」
全部思いだした。
自分は学校の帰りに異世界に迷いこんで、この言葉と微笑だけは砂糖菓子のように甘ったるい貴公子風美青年詐欺師(鳥)に監禁されたのだった。
「じょ、情熱的なのも嫌いではないけれど、よければすこし手を離してくれないかな」
「だったらとっととわたしを元の世界に帰してよ。じゃないと本当に焼き鳥にするわよ」
殺気立った顔でねめつけた。
(悔しい、脱出にも失敗してる!)
惺壽の屋敷を飛びだしたはずだが、どうやら森で失神した間に連れ戻されたようだ。
状況は「監禁」の振出しに戻った。
その原因を作った張本人が目の前にいるのだ。
締め上げないほうがどうかしている。
「もちろんそのつもりだよ。だからすこし落ち着いて私の話を聞いて、ね?」
探るように彼を見上げた隙に、さりげなく指を解かれてしまった。
梛雉は乱れた襟元を、ごく優雅な仕草で正している。
「乙葉嬢のことは、必ず中乃国戻れるように取り計らうつもりだよ」
「……どういうこと。わたしが潔白だって証明されたの?」
「可憐なお嬢さんを本気で疑うわけがないじゃないか。最初からそのつもりだったよ」
梛雉はぬけぬけと言った。胡乱な目つきで睨んでも知らん顔だ。
「中乃国の人間が天乃原に迷いこむなんて、紛れもない椿事ではある。なぜそうなったのか経緯は不明だけれど、向こうに帰る方法は一つ。天乃浮橋を渡ることだ」
「それは分かってるわよ。でも、こっちに来た原因が橋の番人にあるなら、簡単には帰れないんじゃないの。だからわたしを監禁したんでしょ。あくどい取引でもされたら困るから」
乙葉は寝具の上に座ったまま、両腕を組んだ。
向かい合う梛雉はにっこりと笑む。
「慧眼だね。たしかに中乃国に戻ることを見返りとして、沼垂主どのに手を貸されでもしたら困る。けれど、この屋敷に君を連れてきたのは、本当にここが乙葉嬢を匿うのにふさわしい場所だからでもあるんだよ。ただ閉じ込めて監視したかったわけじゃない」
信じられない。
だが一応、耳を傾ける。
「沼垂主どのの真意が分からない以上、君の存在を公にするのは危険だ。もし雲乃峰に知られれば、一生中乃国に戻れなくなる可能性だって出てくる」
一生帰れない。
「……雲乃峰って?」
「天上を統べる三柱乃神々が住まわれる宮城のこと。言ってみれば、天乃原の治世を担う中心地だね。多くの貴人たちが集い、定め、この世界の秩序と安定を守っている」
「わたしが知られちゃいけない理由は?」
「それは、雲乃峰にさまざまな思惑が渦巻いているからだよ。……簡単に言えば、権勢を得るための策略が横行している。誰かを陥れたり、利用したり、そんなことは日常茶飯事だ」
一気に生臭い話になり、言葉に詰まる。
安心させるように梛雉が笑みを深めた。
「こわがらせてしまったかな。ただ、沼垂主どのが、その中でも特に野心の強い方だということだけは、覚えておいて。おそらく君を天乃原に呼び寄せたのも、出世の足掛かりにするためだったんだろう。けれど、もちろんそんなことで人間を勝手に招いてはいけない」
なにをするつもりだったのかは定かではないが、すべて秘密の計画だったのだ。
人間の乙葉を勝手に天上に招いたと知れたら、沼垂主自身だって危うくなるのだから。
「……もしわたしの存在が皆にバレたら、沼垂主はどうすると思う?」
「君一人にすべての罪を被せて、自分だけ責任逃れしようとするだろうね。本当に野心の強い方だから。あのひたむきなほどの向上心は、私も常々尊敬しているんだよ」
梛雉は胸に手を当て、やけに目をきらきらさせた。
心底そう思っているみたいだ。悪意がない分なおさら痛烈な皮肉になっているが、それには気づいていないらしい。
「わたしがこっちに来たのは、ただの事故だって可能性はないの? そうだったら沼垂主は無関係なんだし、あっさり中乃国に帰らせてくれるかもしれないわ」
「まずはそれを確かめなければね。詳細がはっきりすれば、君が中乃国に戻れるよう手筈も整えられるはずだ。だからどうか、少しの間だけ待っていて。ね?」
「……だったら、無理やり監禁なんかしないで、最初からそう言ってくれればいいのに……」
「ごめんね。乙葉嬢もまだ混乱しているようだったし、すこし冷静になってから話をした方がいいと思ったんだ」
梛雉は眉を下げて笑う。なんだか、困らせているこちらが悪者になった気分だ。
(……抵抗の余地はなさそうね……)
どう言おうと、ここに強制的に置かれる以上、自分が監禁されることに変わりはない。
だが、そこに梛雉の悪意があるかは不明だ。
乙葉と沼垂主の共謀を防ぐための手段かもしれないし、真実、乙葉を沼垂主の魔の手から守ろうとしての、先走った行動かもしれない。
また、実はなにからなにまで嘘の作り話で、もっと他の思惑があるのかもしれない。
もしそうならお手上げだ。乙葉にそれを確かめる術はない。
(でも……この人、ただヌケてるだけで、悪気なんか全然持ってないのかも……)
沼垂主の野心と欲深さを向上心と言い、尊敬しているとさえ口にする。それも本気で。
天然だ。あの砂糖の塊みたいな台詞を次々口にするのも天然の賜物だろうか。
「……分かったわ。しばらくは、ここで大人しくしてる」
乙葉は頷いた。
どうせ無力な囚われの身の上だ。梛雉の提案を受け入れるしかない。
「でも、自分のことなのに、全部人任せにして待ってるのってなんか気持ち悪いのよね。なにかわたしに手伝えることはないの?」
せめてもの抵抗のつもりで尋ねた。
まったく蚊帳の外に置かれるよりは自分の身を守りやすいと思ったのだ。
だが、梛雉は相変わらずの屈託ない笑顔で首を横に振ったのだった。
「気持ちだけ受け取っておくよ……っと、そうだ。それじゃあ惺壽に協力をお願いしてみてくれないかい? 可愛いお嬢さんの頼み事なら、彼も断らないかもしれないから」
「……あの人に?」
乙葉は眉を上げた。
惺壽は最初からこの件に無関心だと梛雉も分かっているはずだが。
「惺壽は麒麟の中でもとくに優秀な双角だからね。彼が協力してくれれば心強い」
「はあ。双角……角が二本ってこと?」
「そう。麒麟は本来一角だけれど、時々惺壽のような双角も生まれるんだ。数は少なくても珍しいわけじゃない。そして彼ら双角は、一角より――いいや、天乃原の誰よりも勇猛だ」
梛雉は誇らしげに続けた。
「麒麟は仁の生き物。平和と秩序を愛し、慈悲深く、温厚で、賢い。けれどその分、臆病なほどに諍いを嫌いがちでね。高い神力を有しているのに、たとえ自分が脅かす相手でさえ傷つけることを恐れる。――けれど、双角は違う。いざという時には邪悪な相手と臆することなく対峙し、力で排すること厭わない。ことに他者を守るためなら尚更本領を発揮する」
「……あの冷血嫌味男が慈悲深い? なんかの間違いじゃないの」
「ははは。どうしたの、こわい顔だね。惺壽はたしかに麒麟だよ。すこし扱いにくい人ではあるけれど、憐みと懐の深い人だ。乙葉嬢のことも、ちゃんと森まで迎えにいっただろう?」
目を丸くした乙葉は、所在なく視線を膝元に落とした。
「……あれ、やっぱりあの人だったんだ……」
森で倒れていた自分を、誰かが迎えに来てくれたことは、ぼんやりとだが覚えている。
低い声、嫌みっぽい言い草。
そして、優しく髪を撫でてきた手。
なぜ惺壽が迎えにきたのだろう。
さすがに自宅周辺で野垂れ死にされたら困るとか?
(……でも、それなら、あんな扱いをする必要はないはず)
「惺壽が紛れもなく双角の麒麟なんだと信じてくれた?」
自分の思考に没頭していた乙葉は、急に話しかけられてはっと我に返った。
「あ……ええと……それはよく分からないけど、ただ……どんなに頼んだって、あの人は手を貸してくれないと思う」
腿の上でスカートをきゅっと握りながら、どうにかそう言う。
梛雉は一つ息を落とした。
「簡単にはいかないだろうね。なんといっても双角は、勇猛、深慮、へそ曲がりだから」
「……そうなの?」
「うん。麒麟は本来輪を尊ぶ温厚な性質なのだけれど、なぜか双角だけは偏屈な曲者ぞろいでね。その気難しさが、本来は欠くべき勇猛さを備えた代償だとも言われているよ。おかげで、雲乃峰のお偉方も彼らの手綱を取るのにたいそう苦労している」
こき下ろしながら梛雉はくすくすと笑っている。
だが不意に、その笑顔が曇った。
「まあ、でも……それを抜きにしても、今回の件で彼に協力を乞うのは難しいとは思っているんだ。なにしろ惺壽は、沼垂主どのとは浅からぬ因縁があるから……」
「……え?」
乙葉は瞬いて顔を上げる。目が合うと、梛雉は躊躇うように苦笑いをした。