五章―15話
惺壽と初めて会話をしたのは幾つの時だっただろうか。
雲乃峰。
その楼閣の回廊を歩いていた梛雉は、ふとそんな疑問を覚えて立ち止まった。
しばらく考えても思い出せない。
お互いとうに少年時代から遠ざかっていたのはたしかだ。
一族や貴人方に請われ、雲乃峰に参内するようになった彼だが、その慇懃なほどの冷ややかな物言いのためか、女人を除けば宮城では一切周囲を寄せ付けなかった。
重鎮方のお言いつけや、月読乃宮の勅命でさえ平気で無視することもしばしばだ。
寵愛と名誉を得たい貴人たちの中で、彼の行動は明らかに異質だ。
暴挙とさえ言える。
だが注意して見ていれば分かる。
惺壽が動くのは“彼でなければならない”時だけだと。
已むに已まれぬ厄介事に行き会わせた時、あるいは、か弱き者たちが脅威に晒された時。
彼の行動は速やかだ。
他の人々がようやく大事に気づいて騒ぎ出す頃には、もう一人で事を収めていることも少なくない。
そして殊更にその功績を言い立てることはしないのだ。
これだけならば謙虚と言える。しかし単に彼はへそ曲がりなだけだった。
なにしろ、雲乃峰中の貴人方が右往左往するような大事件の真っ最中に、人気のない園林の隅で悠々と昼寝しているのを見かけたことがあるくらいだ。
おそらく彼の中では“大事”とは判断されない出来事だったのだろう。
そんな彼を、多くの人は気まぐれ者と呼んだ。
しかし梛雉は彼に好感を覚えた。
信頼と友情に足る、高潔の麒麟。
近づいたのは純粋な好意と敬意からだ。
『あいにく男に口説かれて喜ぶ趣味はないんだが』
『そうなのかい? ああ、けれど、私も男性を口説いたり、逆に口説かれたりしても、あまり嬉しくはないかなあ。どうやら気が合いそうだ、私たち』
ある日、冷ややかな惺壽にそう返してみた。
的外れな返事をしたのはわざとだ。
惺壽は難なく梛雉の真意を見抜いた。
その上で、ますます冷ややかな目を向けてきた。
おそらく心底鬱陶しかったのだろう。
それからの彼の嫌味と皮肉は熾烈を極めた。
それでも梛雉は挫けなかったし、まったく傷つかなかった。
どう振舞るまおうとも、彼が憐れみ深く、繊細な心根の持ち主であることを知っていたからだ。口先の嘯きは上辺に過ぎない。
惺壽の本質が変わらない以上、彼を見損なうことはない。
そのうちに惺壽は嫌味さえ言わなくなった。
飽きたのか疲れたのかは分からないものの、梛雉の粘り勝ちだ。
それが事実だ。
かといって、あまりしつこく付きまとえば、真実、彼に見限られるのは目に見えている。
そのせいというわけでもないが、梛雉が彼に干渉することは一度もなかった。
諫言も賛辞も彼は欲していないし、はたから見てもその必要がない。
なにを考え、どう振舞うにしろ、それはすべて惺壽の信念に基づいている。
そこに間違いなどない。だからこそ尊敬の余地がある。
それは、長い付き合いを経た今でも変わらない。
(けれどね、惺壽……)
一つだけ、惺壽について残念に思うことがあるのだ。
我ながらただのお節介に過ぎない。
彼がそんなものを好まないことも重々承知している。
だが、敢えて今回、梛雉は“惺壽でなければならない”状況を作り上げた。
始まりは、泉の畔で人間の少女を見つけた時。
惺壽は彼女を梛雉に託そうとした。
これがどういう椿事にしろ、その場に梛雉がいる以上、自分が手出しする必要はないと判断したのだろう。
それは事実だ。その気になれば梛雉一人で片を付けることも可能だった。
梛雉は惺壽を追いかけ、彼に少女を預け直した。
彼女にすれば盥回しにあった気分だろう。
そんな幼気な乙女を不憫に思い、あの心優しい麒麟どのは必ず重い腰を上げる。
“彼でなければならない”からだ。
それは優しさであり――義務感と言える。
それについて物知り顔に説教するつもりは毛頭ない。
惺壽になにかを押し付けたいわけではない。
ただ、きっかけを作っただけ。
(君の心を揺らすのものはなんだろう。……ひょっとしてあの可愛いお嬢さんかな)
そう思った直後、それは難しいかなと思う。
惺壽の好むのは艶やかで賢い大人の女性だ。
いくらあの少女が可愛らしくても、艶めいたあれこれになることはあるまい。
乙葉が惺壽を突き動かす理由は、ただの保護欲だ。恋情にはなりえない。
それでかまわない。
べつに彼に恋をさせたいわけではないのだから。
惺壽が“動く”。そのこと自体に意義がある。
そこから何を学ぶのかは彼次第で、たとえなにも感じなくともかまいはしない。
「おっと、これ以上、お待たせしたら私が怒られてしまうかな……」
はたと我に返った梛雉は、再び、高楼の回廊を歩き始めた。
これから、さる貴人に謁見する予定だ。
ささやかだけれど、親愛なる悪友どのに、友情を示すために。




