五章―11話
あれこれ考えを巡らせたところで、それを自分が実行するはずもない。
乙葉は中乃国に帰す。
一時の感情に目が眩んで行動を誤るなど浅はかだ。
そう冷静に自分を顧みる今でさえ、未練を振りほどけないとしても、必ず。
(……ああ)
ふと合点がいった。
理解したのだ。さきほどの鈿女君の言葉の数々を。
(他の女人とは比べようもない……ね)
これまでに数多の美女たちと描いてきた恋の中で、未だかつて、これほどまでに強い独占欲めいた感情を抱いたことはなかった。
遅かれ早かれ、いつかは醒める泡沫の恋だったからだ。
そこに執着する意味は欠片もない。
まして、彼女たちの目に移る自分以外の男に、興味など沸くはずもない。
嫉妬するなどなおさらだ。
比べたところで仕方がない。あの娘は、他と比べられない存在だ。
これを――これこそを恋と呼ぶのだろう。
仮初の情でも、泡沫の夢でもなく、爪を立てるように深く胸を抉る、この思いを。
(……だからといって、どうしようもあるまい?)
自嘲交じりに問いかけた。
いくら自分があの娘に対する想いの深さを自覚したところで、突如なにかが変わるわけでも、恋が実るわけでもないのだ。
乙葉の目に映るのは惺壽ではない。
未だ、あの娘の心を占めるのは別の男だ。
――口惜しいことに。
物思いに沈みながら歩き進んでいくと、竜の彫刻のある戸の前に着いた。
ここまで案内してきた侍女が戸を開く。
戸口に立ち、惺壽は室内を見回した。
天井と柱が翡翠色に塗られた部屋だ。窓の飾り格子越しに、闇の中に咲く園林の花の影が見える。
方卓には茶器が並び、乙葉は椅子の一つに座っていた。
そばに黎珪が佇んでいる。
惺壽の入室に顔を上げたのは、その黎珪だけだった。
乙葉は自分の膝元に視線を落としたままだ。横顔はどこか強張っている。
不可思議に思いながら黎珪に視線を映す。
目が合うと、彼女はなにか言いたげに薄く唇を開いた。
しかし言葉が発せられる前に、ようやく乙葉がこちらを見上げたのだった。
「……お帰り。もう屋敷に帰る?」
表情と同様、やや強張った声だ。
惺壽はそれに気づかぬふりで答える。
「そちらに障りがなければな」
いつも通り平坦に言いながら、内心は怪訝だった。
どんな可愛げのない憎まれ口が飛んでくるのかと思っていただけに、こうも大人しいと肩透かした。鈿女君となにかあったのだろうか。
見守る先で、小さく頷いた乙葉は、ぎこちない動きで椅子から立ちあがる。
「わたしも特に用事はない。……早く帰りたいわ」
なぜという問いかけは胸の内に仕舞い、惺壽は「では、お暇を」と短く告げた。
∻ ∻ ∻ ∻ ∻ ∻ ∻
屋敷に着くまで会話らしい会話はなかった。
惺壽は特段大切な話がなければ、他愛もない世間話をしてくるような性格ではないし、乙葉も乙葉で彼に振る話題もない。
相変わらず陽が昇らない藍空を駆け、惺壽の屋敷にたどり着くと、言葉少なに彼と別れて自室に向かった。
思い返すのは、先ほど、鈿女君の屋敷で見かけた一場面だ。
乙葉と話をしていた鈿女君に、海松姫が呼んでいるという黎珪の耳打ちがあった。さすがに鈿女君は躊躇う素振りを見せたが、乙葉が勧めると、海琉姫に宛がっているという部屋に向かったのだ。部屋には、気を遣った黎珪が残ってくれた。
彼女は暇つぶしに、同年代の少女たちを呼ぼうかと提案してくれた。
以前、この屋敷を訪れた時に乙葉の面倒を見てくれた子たちのことだ。
わざわざ呼びつけるのも気が引ける。そこで黎珪に、彼女たちが詰めているという部屋に案内してもらうことにしたのだ。
その途中で目にしてしまった。
惺壽と鈿女君が話しこんでいる姿を。
二人は、回廊の角に立った乙葉には気づかなかったらしい。
姿を見せるきっかけもなく、ただ見守っていると、不意に鈿女君が惺壽に近づき、その頬を撫でた。
彼女の紅を差さずとも色づいた唇が、なにか言葉を紡いでいる。
内容はもちろん聞こえない。
ただ、ゆっくりと惺壽の頬から離れていった長い爪の紅色が、残像のように瞼の裏に焼き付いている。
(鈿女さん、惺壽とはなんでもないって言ってたのに……)
それならば、あんな親密な触れ方をするだろうか。
悶々と考えながら、白い月光が冴え冴えと照らす廊下を渡っていると。
「……ああ、御機嫌よう。乙葉嬢。どこかに出かけていたのかな」
不意に前方からかかった声に、乙葉は弾かれたように顔を上げた。
「梛雉……」
自室の戸の前に、豪奢な装束を纏った美青年が立っている。長い朱金色の髪は月明かりに鈍く輝き、細身の影法師がくっきりと木戸に映し出されていた。
(なんでこんなところに……)
この屋敷を訪れる際、彼はいつも湖に面した部屋から入ってくる。それなのに、なぜこんな屋敷の奥にいるのだろうか。
「どうしたの。暗い顔をしているね。私でよければ、悩みごとを打ち明けてほしいな」
相変わらず胡散臭いほど気障な台詞をぺらぺらと喋る。
彼とは少しの距離を保ったまま、乙葉は沈黙した。
とりあえず彼がなぜ自分の部屋の前にいるのかは置いておいてだ。
「悩みっていうか……聞きたいことがあるの」
「ん? なんだい?」
「惺壽と鈿女さんって、本当はどういう関係なの?」
思い切ったように尋ねる。
瞳を揺らしながら見つめた先で、梛雉はすこし呆気に取られているようだ。
「それは……どうして、そんなことを聞くんだい?」
「沼垂主が鈿女さんのことで惺壽に嫉妬してるのよ。鈿女さんも惺壽も誤魔化すけど、あの蛙があんなに意地張るってことは、やっぱり二人は付き合ってたとしか思えない。……一晩だけでも恋人同士だったんでしょう。夜に会ってるのを見た人がいるって聞いたもの。沼垂主が惺壽を嵌めたのだって、そのことが原因だったんじゃないの?」
堰を切ったように言葉があふれ出てくる。
なぜだか一緒に涙まで出そうだ。
「沼垂主が誰かに焼餅やくのは勝手だけど、このままじゃわたし、一生元の世界に帰れないわ。それなのに惺壽も鈿女さんも本当のこと教えてくれないし……」
ぽろり、と一粒涙がこぼれた。
感情が高ぶりすぎたらしい。
(結局わたしは、自分の力じゃなんにもできない……)
いつも蚊帳の外にいて、惺壽や鈿女君や沼垂主や梛雉を見ているだけ。
真実に触れることすらできない。
どんなに距離が近づいた気がしていても、彼らの中で乙葉は異物だ。
そのことが悔しくて、腹立たしくて、ひどく悲しかった。
「……可愛い人。そっちに行ってもいい?」
離れた場所から穏やかな声がかかり、握った拳を震わせていた乙葉は、はっと我に返った。
慌ててセーラー服の袖口でぐいっと目元を拭いながら答える。
「い、いちいち聞かなくてもいいわよ」
「ありがとう」
にっこり笑った梛雉は、月影の中をゆったりと歩いてきた。
やがて目の前で立ち止まった彼を、おずおずと見上げる。
(今の、見られてない……わよね?)
距離もあったし、乙葉が立つのは柱の影だ。たぶん大丈夫。
「君の質問だけれどね、正直に言えば、私にも分からないんだ。惺壽と鈿女君の間にある真実を知るのは、彼ら二人だけだから。……けれど、君の誤解を一つ解くことはできる」
「……誤解?」
繰り返した乙葉に、梛雉は優しい笑顔で頷いてみせる。
「沼垂主どのの例の仕打ちは、あの二人の噂が立つ以前のことだだよ。だから沼垂主どのは、惺壽に報復をしたわけではないんだ」
「…………え」
乙葉は目を真ん丸にした。
それが本当なら、まるで――報復したのは惺壽のほうみたいだ。




