五章ー10話
問いの意味を図りかねた。
謎かけのような言葉だ。
「……どんな女人にも真心を返してきたつもりですが?」
惺壽の答えに、こちらを覗き込む藤色の瞳がわずかに丸くなり、細められた。
「……恋を恋と気づけぬほど愚かではなくとも、深淵を知るにはまだ遠いよう」
独り言のような含み笑いとともに、頬から白い指が離れていく。爪は鮮やかな紅色だ。
鈿女君は身体を離すように一歩下がった。嫣然とした笑みでこちらを見上げる。
「乙葉さんの所に戻ろうとしていたところだったけれど、妾はこれで失礼するわ。このままあなたとご一緒して、変な勘繰りをされては困るもの」
謎かけは終わりだろうか。
惺壽も常のように淡々と嘯く。
「貴女とならばいくら勘繰られようと惜しくはないが」
「光栄ね。妾もよ。……けれど、悪戯に純真な方の心を乱す真似はいけないわ」
「……?」
不意打ちのように謎かけは続いた。
瞬きを繰り返した惺壽に、美貌の天女は肩を揺らして「ふふ」と笑う。
「意外ね。あなたにもそんな可愛らしいところがあったなんて。……けれど、それにも限度があってよ。あなたのような殿方には許されない類だもの。興醒めにならないことを祈るわ」
謎は謎のまま輪郭を取らない。
これ以上駆け引きを続けたところで不毛なだけだ。
早々に白旗を掲げて退散するに限る。
「ご期待に添えるよう力を尽くしましょう。貴女に愛想を尽かされては生きる希望を失います。……ところで、天照陽乃宮の御許へは参られないのですか」
やや強引に話題を変えたが、天照陽乃宮が岩戸に籠っているというのに、この女人が雲乃峰を離れていることが、気がかりであるのもたしかだ。
問いかけに、鈿女君は「ああ……」と美しい眉を下げた。
「今、雲乃峰から海琉を連れて下がっているところなの。幸いにも月読乃宮からもまだお呼びがかからないし、しばらくはこの屋敷であの子のご機嫌取りをしているわ。……まったく、それもこれも陽気で無邪気なとある殿方のせいよ」
これの答えは容易に察しが付く。
鈿女君お気に入りの歌姫の心を曇らせているのは、朱金色の髪を持つ梛雉だ。
こちらまで火の粉を被るのは御免被りたい。
惺壽はあっさりと悪友を切り捨てた。
「無粋な男がいたものですね。あいにくそのような輩とは縁もゆかりもありませんが」
「ふふ、そうね。あなたは女人泣かせとは程遠い方。……それに、これは妾にも一端のあることだから、どこぞの鳳凰どのを責める筋合いはないのよ、本当は」
藤色の瞳がわずかに伏せられる。
「…美しい貴女に、なんの咎がありましょう」
「……ありがとう。妾ったら、あなたには甘えてばかりいるわね。――あの夜から」
鈿女君は目を上げ、くすりと唇に笑みを乗せた。
それは過ぎた夜のこと。
会い見え、ひそやかに紡がれた一つの秘め事。
とうに胸の底に埋もれた記憶だ。
だが、それを今も後生大事に抱えている男がいる。
(打ち明ければ、あるいは、あの愛すべき番人どのを頷かせることは容易かもしれない)
だが、そのつもりは端からない。
謎は解き明かされないからこそ意味を持つ。
そして、あのうじうじと根深い沼垂主相手だ。
打ち明けたところで翻意するとも思えない。
(宥め賺すしかあるまい)
自分の考えに見切りをつけた惺壽は、会話を断ち切るように飄然と呟いた。
「さて。あまりに待たせては、あとでなんと罵られるか分かりませんね」
乙葉は今頃、どこぞで惺壽の迎えを待ちわびていることだろう。
鈿女君が席を外したのはおそらく海琉姫絡みだ。なんとなれば乙葉が鈿女君と海琉姫に気を遣った可能性もある。
(次はどんな憎まれ口が飛び出すのかさぞ見ものだな)
惺壽の脳裏に、顔を合わせた途端、いつまで待たせるつもりだと眦を釣り上げる乙葉の姿が浮かんだ。
あの娘は心細い時、それを隠そうとしてことさら不愛想になるのだ。
その可愛げのなさを思うと、どうにもおかしくて仕方なかった。
今までに、夜毎惺壽の訪れを待っていた数多の女たちとは真逆の反応だ。
だからだろうか。
あの娘ならば、いつまで手元に置いておいても飽きないだろうと思う。
たとえば、このまま天乃浮橋の番人の説得がうまくいかなければ。
そうすれば、あの娘が自分の前から姿を消すことはない。
永遠に。
「――どうなさったの?」
不意に声を掛けられ、我に返った。深い紫の双眸がこちらを見上げている。
「……いえ」
惺壽は目を伏せて端的に答えた。
幸い、鈿女君はさりげなく視線を外したことには気づかなかったようだ。
「そう。……それではね。惺壽どの。乙葉さんにもよろしく伝えてちょうだい」
微笑み、美貌の天女は紫紺の襦裙の裾を翻して、元来た方へ引き返していった。
紅灯がぽつりぽつりと宵闇を払う中、華奢な背中が曲廊の向こうに消えていく。
見送った惺壽は、やり取りの間、離れたところで控えていた侍女に会釈する。
「失礼」
叩頭で応えた年若い侍女は、再び案内を始める。奥の間で待つ乙葉の許へ。
黙々と回廊を黙々と歩き進めれば、所々に飾られた、品のいい絵画や三彩の壺が目に入った。
だが、そのどれも惺壽の心を引き留めはしない。
胸中を占めるのは、ただ一つ――我ながら何を考えたのだろうという疑問。
いくら気に入ったとはいえ、乙葉を手元に置く方法を考えてどうするというのだ。今こうして駆けずり回っているのは、すべて、あの娘を中乃国に戻すためでしかないのに。本末転倒に過ぎる考えだ。
(あれは中乃国に戻りたがっている。……無理やりに留めれば、今度こそ、憎まれ口では済まないだろう)
願いを踏みにじられ、意思を無視されれば、乙葉は必ず惺壽を憎む。
出会った当初の刺々しさを取り戻してもおかしくない。あるいは、それ以上だ。
(……再び手懐けることは可能だろうか)
今ではすっかり馴れ合ったものだ。
この先、惺壽が一方的に関係を壊したとしても、一度そうであったように、時を費やしてあの娘の心を解くことは、あるいは――
(……埒もない)




