五章ー8話
言葉が出なかった。
鈿女君は、おかしなくらい簡単で、当然のことを言っているのに。
(たしかにわたしがこの先好きになるのは、森野君みたいな人って決まってるわけじゃない)
そして、その人の前で乙葉がどんな振る舞いをするのかも決まっていない。
そんな当たり前なことに、指摘されるまで気づくことができなかった。
そのことに衝撃を受けている。
でも衝撃を受けている理由はそれだけだろうか。
茫然と視線をさ迷わせていた乙葉は、かちゃっというかすかな音に我に返った。
正面に視線をやれば、鈿女君が湯呑に口をつけている。
(しっかりして。今話したいのは、こんなことじゃないでしょう)
聞きたい話は、惺壽との関係についてだ。
大人の恋愛指南を受けにきたわけじゃない。
(だいたい、なんでこんなにわたしと惺壽をくっつけたがるの? ……鈿女さんは惺壽の恋人じゃないの?)
もし二人が恋仲ならば、乙葉と惺壽の間を盛り上げようとはしないはずだ。
それとも恋敵だと警戒し、尻尾を出すように揺さぶりをかけているとか?
ちらっと眼を上げて正面を盗み見る。
鈿女君は相変わらず悠々とした仕草で、湯呑を方卓に戻したところだった。優雅な表情からはなにを考えているのか読み取れない。
「……まだ、質問に答えてもらってません」
上目に鈿女君を見据えたまま、小さく言った。一人であれこれ考えても答えは見つからないと思ったのだ。
藤色の瞳がちらりとこちらに動き、ぽってりと厚い唇は笑みを佩く。
「尋ねられて困ることはないけれど、だからといって、どんな質問にも答えるとは言っていないはずよ」
蠱惑を含んだ声はどこか意地悪だ。
乙葉の眉根がわずかに寄る。
「あら、ご機嫌を損ねたかしら。ごめんなさい。すこし悪ふざけが過ぎたわね。……それに、あなたには借りがあることでもあるし」
すこし申し訳なさそうな表情になった鈿女君に、今度は目を瞬かせた。
「借り?」
「妾と惺壽どののことで嫉妬なさっているのがどなたかは存じあげないけれど、そのことがあなたを煩わせているのなら、少なからず妾にも責任があるわ」
責めるつもりで言ったわけではなかった。ただ現状を説明したかっただけだ。
困惑の表情になった乙葉に、鈿女君は艶やかに微笑みかけてくる。
「妾と惺壽どのがそういう仲にはなったことは一度もなくてよ」
「…………」
「彼の方に敬意を感じても、それ以上の感情を妾が抱くことはないの。決してね」
柔らかく、だがきっぱりと言い切る声だった。
(惺壽と鈿女さんは恋人同士じゃない……?)
本当だろうか。
欺かれているのではないだろうか。乙葉が恋愛経験の少ない子供だから気遣ったのかもしれないし、あるいは侮ったのかもしれない。
だが、その言葉を信じたいと思った。
鈿女君が惺壽との仲を否定した。
そのことで、自分はどこかほっとしている。
どうしてこんな気持ちになるのだろう。
これじゃあ、まるで、本当に――
「愛らしい方。これで安心なさった?」
尋ねられ、はっと顔を上げる。
何度目だろう。
鈿女君の言葉にいちいち動揺して、その度に乙葉のほうから会話を中断してしまうのは。
(……なんか、悔しい)
経験も豊富な絶世の天上の美女に、たかだかちょっと可愛いだけの自分が対抗心を持つなんて身の程知らずとは分かっていても、それでも、そう思ってしまうのを止められない。
「はい。安心しました。これで嫉妬してる人の誤解を解くことができますから」
惺壽と鈿女君が恋人でないから安心したとは、決して言わない。
方卓の陰で、きゅっとスカートを握りながら不愛想に頷くと、鈿女君はやはり嫣然と微笑む。
「そう。すこしでもお力になれたのならよかったわ。他にはもうご質問はないわね?」
「質問はありません……でも、一つだけ」
そこで一旦言葉を切る。顔を上げてまっすぐに、目の前の天女を見据えた。
「たしかにわたしは、恋がどんなものか知らないかもしれなけど、恋を知らないわけじゃありません」
自分でも何を言いたのかよく分からなかった。
それでも、どうしても口に出したかったのだ。
もしかしたら年上の相手に無礼かもしれない。
(怒らせたってかまわないわ)
瞳を強く光らせる。
こちらを見返す深い色の双眸は静かだ。
やがて、目を伏せたのは相手のほうだった。
すこし俯いた鈿女君の口元には、つい零したというような笑みが浮かんでいる。
「そうね。恋を知らないのはあなたじゃない。別の方だわ」
「…………え?」
謎かけみたいな言葉に目を丸くする。
だが鈿女君は笑みを深めてこう言っただけだ。
「気にしないで。あなたは自分の思うままに振舞えばいいのよ、愛らしい方」
「…………」
なんと返していいか分からず、乙葉はただ瞬きを繰り返した。
いつもお読みいただいてありがとうございます。
活動報告も更新していますので、併せてご覧ください(2015年11月14日分)。




