二章ー2話
そう気づいた瞬間、乙葉はがんっと拳を欄干に叩き付けた。
「ああああんの糖分撒き散らし男! 信用していいとか言ったくせに最初からわたしを閉じ込めるつもりだったんじゃない! 詐欺師! 今度会ったらあの羽根全部毟ってやるから!」
ここが安全な避難先だと言いながら、本当は監禁のためにここに連れてこられたのだ。
乙葉は自力でこの雲上から逃げることはできず、しかも惺壽という見張り付きだ。
囚われた。助け出してくれるような知り合いはいない。
(そんな。これじゃあ家に帰るどころの話じゃないわ……!)
焦りと悔しさに唇を噛み締めた時だ。背後で、物憂げな溜息が落ちた。
「……なかなかに興味深い趣向だが、もうすこしお静かに願いたいね、居候どの。俺もこの屋敷も、淑やかさの欠片もない騒々しいだけの客人には馴染がない」
嫌味な言い方に、乙葉はぴくりと眉を上げた。
「騒々しくて悪かったわね。いきなり濡れ衣着せられて、しかもこんなところに問答無用で監禁されて、大人しく黙ってられなかったのよ」
振り返って言うと、戸口近くの壁に凭れた惺壽がは肩を竦める。
「これは失敬。我が家がこんなところなのは、家主たる俺の不徳だ」
「そ、そういう意味で言ったんじゃ……!」
変なふうに解釈されてしまったようだ。この屋敷自体に文句をつけたいわけではない。
あたふたと取り成そうとしたが、不意に惺壽がくすりと唇の端を上げ、乙葉は瞬いた。
(……からかわれた?)
分かっていてわざとあんな言い方をしたのだ。なんて意地が悪いんだろう。
「これから、わたしをどうするつもりなの」
乙葉はくるりと体の向きを変え、尋ねた。
惺壽は凭れていた壁から背を離し、部屋で唯一の敷物に腰を下ろす。
「さて。どういった扱いならばご満足いただけるのかな」
「満足もなにも、わたしはさっさと家に帰りたいの。いくら疑ったってなんにも知らないし、沼垂主って人とは本当に無関係よ」
「だろうな」
脇息に頬杖をついた惺壽が投げやりに肩を竦める。
乙葉は目を丸くした。
「だろうなって……無実だって信じてくれるの?」
「どうにも謀略を巡らせるほどの知恵があるようには見えなくてね」
「どういう意味よ」
きりきりと眦を吊り上げると、惺壽の口角が再びくすりと上がる。
なにが面白いのだ。こっちはこれからの人生がかかっていて、至極真剣なのに。
(……でも、この人、完全にわたしを悪者だって決めつけてない……?)
梛雉は聞く耳を持たなかったが――惺壽なら、すこしは話を聞いてくれるだろうか。
「……た、助けてくれない?」
惺壽がほんのすこし眉を上げた。
乙葉は早口に続ける。
「わたしが元の世界に帰るためには、無実だって証明できればいいんでしょ? でもわたし一人じゃ無理だわ、この世界のことをなにも知らないから。……だから、助けてほしいの」
現状を打開するには協力者が必要だ。天乃原のことに詳しい協力者が。
梛雉にはすでに一度騙されている。
だからといって惺壽なら安心だという確証もないが、他に打つ手もない。
「お願いします、助けてください……!」
深く深く頭を下げると、ちょうど頬に覆いかぶさってきた長い髪が、今にも泣き出しそうな表情を隠してくれた。
なぜこんな人に頭を下げているのだろう。今まで散々失礼な振る舞いをされたのは乙葉のほうなのに。
それでも、この見知らぬ世界で自分の味方になってくれる人がほしい。
「……あいにくだが、この件に手出しするつもりはなくてね」
ため息交じりの返答に、脳天を殴られたような気分だった。
乙葉は目を見開き、頭を上げる。こちらを見つめる惺壽は冷淡なほど無表情だ。
「同情はしよう。……だが、人間の小娘にも、野心にまみれた番人にも、毛ほどの興味も引かれていない」
「……どうしたら、興味を持ってくれるの」
震える声で低く尋ねた。
惺壽の唇の端に凄艶な微笑が閃く。
「さて――どうかな。今までにこの心を焦がしてきたのは、艶やかな美女ばかりだったが」
「ふざけないでよ!」
乙葉は怒声を張り上げた。身体の脇で握った拳が小刻みに震えている。
「色仕掛けでもしろって言ってんの? あんた、雲の上の神さまなんでしょう? すごい力を持ってるんでしょう!? だったら、すこしくらい力を貸そうって気は……!」
「おかしなことを言う。天人であることが、なぜおまえに手を差し伸べる理由になる?」
淡々という惺壽が、真っ赤に染まった視界の中に掻き消えた。
耳元に梛雉の声がよみがえる。
――ここを神の国だと思うかどうか、それは乙葉嬢次第だ。私たちはあくまで天人でしかないからね。
(こんな奴、神さまなんかじゃない……!)
ここは行きずりに迷いこんだだけの、風変わりな雲上の都。
泣いても、縋っても、慈悲深い神さまが助けてくれるわけじゃない。
『御機嫌よう。いくらお誘いしてもつれなくていらっしゃるから、こちらから出向いてしまいましたわ』
不意に、やや低い女性の声が響いたのはそんな時だった。
室内には二人しかいないのに。
慌てて周囲を見回せば、いつの間にか、欄干に真っ白な三本足の小鳥がとまっていた。
『妾との一夜など仮初としてお忘れかしら。噂に違わぬ薄情な方。お恨み申し上げてよ』
小鳥はそう囀った。直後、その姿がぱっと消えてしまう。
「……なに今の。痴話喧嘩? まさか、あんな小さな鳥まで毒牙にかけたの?」
あんぐりと尋ねた乙葉に、惺壽は頬杖のまま、一つ小さく息をついた。
「どうやら、その口に慎みというものは望むべくもないらしい。……あれは単なる伝書鳥だ。言伝の主は別にいる」
「じゃあその伝言主を弄んだの……って、ちょっと、どこ行く気?」
惺壽はゆったりと立ち上がっている。
乙葉はふんと鼻を鳴らして腰に両手を添えた。
「……聞くまでもないか。恋人に泣きつきにいくんでしょ。こっぴどくフラれるといいんだわ、あんたみたいな冷血男」
「その口と態度の悪さは救いようがない。……が、愚鈍でないことだけは救いだな」
罵倒をものともせず惺壽が微笑む。
面白がっている顔つきだ。
ここに来てもまだ、真剣に取り合うつもりがないらしい。
「……態度が悪いのはお互いさまよ。大事な話の途中だったけど、どうぞごゆっくり。わたしの見張りなら気にしなくていいわよ。どうせ、どこにも逃げられないんだから」
そっぽを向き、乙葉は吐き捨てた。
視線を足元に落とし、強く唇を噛みしめた時。
ふと横顔に影が落ちた。
何気なく正面を向いて、ぎょっとする。
いつの間にか、すぐ目の前に惺壽が立ちはだかっていたのだ。
「え、ちょ……!」
長身がこちらに屈みこんできた。惺壽は乙葉を両腕の中に囲い込むように欄干に手を置いたので、近距離で彼と向かい合う羽目になってしまう。
「そう拗ねるな。さる高貴な方からのお誘いだ。知らぬふりをするわけにもいくまい」
「す、拗ねるわけないじゃない! わたしのことなんてどうでもいいんでしょ!? こっちだってもうあんたを頼ろうなんて思ってないから、安心して……ひゃっ」
長い指の背が頬を掠め、思わず乙葉は目を閉じた。
耳元にからかうような囁きが落ちる。
「つれないね。せめて一度でも、その愛らしい声に、他の女には目もくれるなと命じられたいものだ」
瞼の裏が閃光に焼き尽くされた。
蹄の音が走り去る。
はっと目を開けば、一頭の優美な生き物が欄干を跳び越え、淡い金色の尾を靡かせながら、凪いだ湖上を駆けていった。
乙葉は欄干に寄りかかったまま、真っ赤な顔で、麒麟姿の惺壽を見送る。
「……なんであんたにそんなこと命令しないといけないのよ……!」
速くなる鼓動を押さえつけて言い、床に転がったままだった革靴に飛びついた。
「まったくどいつもこいつも! 顔はよくても中身は腐りきった奴ばっかりだわ!」
乙葉は鬱蒼とした森の中を走りながら叫んだ。
惺壽の屋敷を飛び出してきたのだ。
(そんなところに一秒だっていられるもんか……!)
一人でも元の世界に帰るのだ。――帰る手段は分かっているのだから。
(沼垂主って人がわたしを呼んだのなら、その人に会えばまた地上に戻れるはず)
天乃原と中乃国を結ぶ唯一の橋が天乃浮橋であり、その番人が沼垂主だというのなら、帰る方法は一つだ。番人である沼垂主に会って橋を渡らせてもらえばいい。
取引をするのだ。もし沼垂主が乙葉を必要としているのなら、協力してもいい。
その代わりに中乃国に帰してもらう。
たとえそれがどんなに悪どい企み事であろうと、そのせいで天乃原に混乱が起きようと、それは自分の知ったことではない。
しょせん沼垂主も梛雉も惺壽も、乙葉の気持ちを無視して、都合のいいように転がそうとしているだけだ。
そんな人たちに、そんな人たちの世界に、乙葉が義理を返す必要はない。
なにを利用しても、誰も唆しても、自分の日常があった元の世界に戻ってみせる。
そのためにも、ひとまずこの雲の上から脱出する手掛かりを探している最中だ。
しかし、行けども行けども広がるのは深い森だった。
金銀の葉をつけた木、はらはらと光の花びらを振らせる木、奇妙な形の実をつける木。
そんな風変わりな木々が、ひっそりと佇んでいる。葉擦れさえ聞こえず、静かだ。
(何の生き物もいないのかしら……)
曲がりくねった道の前方に、柳に似た枝が垂れ下がっていた。
ぶつかるようにそれを払いのける。
瞬間、悲鳴を上げて踏鞴を踏んだ。
「……っとに、もう、どうなってるのよ、この世界は!!」
唐突に途切れた地面を見つめ、乙葉は叫んだ。
断崖の先に広がるのは青い虚空だ。足元からの風にスカートがひらりとそよぐ。
この先へはもちろん行けない。ぺたんとその場に座り込む。
なんでこんな目に合わなくちゃいけないの……」
大切な用の途中だったのに、なぜ、こんな世界のこんな場所で座り込んでいるのだろう。
視界がじわりと滲んできた。慌てて制服の袖口で乱暴に目元を拭う。
弱気になったら自分に負けるだけだ。脱出できないなら、帰るために他の作戦を立てなければならない。そう自分を励まし、立ち上がろうとしたのだが。
がんっと世界が揺れた気がし、乙葉は小さく悲鳴を上げて、再び尻餅をついた。
にわかに周囲の景色が薄闇の中に沈んでいく。
空を仰ぐと、今まで照っていたはずの陽の姿がなかった。
まるで一瞬で昼が夜になったみたいだ。
慌てて振り返ると、森の獣道さえ、もう闇の帳に閉ざされて見えなくなっている。
不意に、何の前触れもなく身体から力が抜けた。
気がつけば、冷たい地面にうつ伏せに横たわっている。
(……息が、できない……!?)
呼吸が苦しい。
急速に視界が霞み始める。
手足が痺れ、全身に力が入らなかった。
勝手に落ちてくる瞼の向こうに、暗闇の中をうっすらと流れる光の靄が見える。
誰か助けて。
そう声にする前に、じわりと闇が意識に侵食した。