五章ー7話
「聞きたいのは梛雉どののお話?」
梛雉の過去話に意識が遠くなりかけていた乙葉は、そんな声に顔を上げた。
ふわりと目の前を白い湯気が横切る。
黎珪が瑠璃の盆の上から白磁の湯呑を取り上げ、乙葉の前に置いたところだった。
琥珀色のお茶からは湯気とともに爽やかな香気が立っている。
「……え」
「先ほどから、なにかを知りたがっているようなお顔をしていらっしゃるわ」
間の抜けた声を漏らした乙葉の反応に、鈿女君はわずかに首を傾げて答える。拍子に、ゆるく括った豊かな黒髪がはらりと肩から胸元へ流れ落ちた。
(なんで分かったのかしら)
彼女に聞きたいことがあるのだと。そんなに分かりやすい顔をしていたとか?
お茶を配っていた黎珪は、女主人からの一瞬の目配せを受け、鈿女君の前に湯呑を置くと、静かに退室していった。
木戸が閉まると室内には二人きりだ。
人払いをしてくれたらしい。
(ええと……なんて切り出せば……)
いきなり面と向かって「惺壽とはどういう関係ですか」なんて聞いたら、さすがに気を悪くするかもしれない。
もっと自然な流れで惺壽と彼女との関係を聞き出せないだろうか。
「愛らしい方。失礼だけれど、あなたに駆け引きは向いていないのではないかしら」
「う……」
会話の糸口を必死に探していた乙葉は、あっさりした指摘に撃沈のうめき声を漏らした。
「言い添えておけば、妾は、尋ねられて困るようなことなど一つもなくてよ」
鈿女君は泰然と微笑んでいる。
よけいな気を回す必要はないのだろうか。
(だったら……)
こちらも遠慮は無用だ。
乙葉は決然と顔を上げた。
「じゃあ、質問します。鈿女さんと惺壽は恋人同士なんですか?」
言った瞬間、ぴりっと痺れのような緊張が走った。
答えを待ち、固い顔で鈿女君を見つめる。
すると、紅を差していない唇が弓なりに笑みを描いた。
「心配しなくても彼はあなたに夢中よ。妾が割り込む隙なんてありはしないわ」
「そ、そんな心配してません!」
「では、なぜ、そんなことをお聞きになるの?」
質問したのはこちらだ。
だが、なぜか、分が悪いのもこちらな気になってしまう。
「……ある人が惺壽に嫉妬してるみたいで……わたし、それで困ってるんです……」
結局白状してしまった。
「ある人」とはもちろん沼垂主だ。
鈿女君に横恋慕した天乃浮橋の番人が惺壽を目の敵にしている以上、乙葉は中乃国には戻れない。
美しい藤色の瞳が考え込むように伏せられた。だがそれも一瞬のことだ。
「まあ、そう。どなたのことかしら。心当たりが多すぎて見当もつかないわ」
「………………」
だったら梛雉の恋愛遍歴を言えた義理だろうか。
「あなたはどうなの?」
「え?」
遠い目をしかけた乙葉は、そんな質問に意識を引きずり戻された。
瞬いて見返すと、鈿女君はなにか面白がるような顔をしている。
「惺壽どののことで、妾に嫉妬しているみたいに見える」
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
ついで方卓に手をついてがたっと立ちあがる。
「し、してません! なんでわたしが嫉妬なんか! それじゃあ、わたしが惺壽のことを好きみたいになっちゃう……!」
口走った瞬間、かあっと顔が赤くなるのを感じた。耳まで熱い。
(なに言ってるの、わたし……!)
ムキになったらますます誤解されるだけだ。
過剰に反応するようなことでもないのに。
「……わ、わたしは嫉妬なんてしてませんから。ただ事実を知りたいだけです」
動揺を誤魔化したいからか、口調が不愛想になった。
ぶすっとした顔で椅子に座ると、鈿女君は背もたれに寄りかかってくすくす笑っている。
「本当にそうかしら」
「本当です」
「どうして?」
「ど、どうしてって……! 惺壽は、わたしのタイプ――ええと、理想の男性像じゃないからです! 鈿女さんにも昨日話したでしょう、初恋の人のこと!?」
みょうに動揺しながら尋ねると、微笑の鈿女君はゆるやかに頷いた。
「とても楽しく拝聴したわ。けれど、それがなんだというのかしら」
「え。ええ?」
「初恋の君は初恋の君。惺壽どのは惺壽どのよ。それぞれに違った魅力の殿方に惹かれたとしても、なにも不思議はないでしょう。むしろ、似通った男性を追い求め続けるほうが不気味」
「…………そ、それはそうかもしれないけど……」
「けれど?」
鈿女君は楽しげだ。
これが大人の女性の余裕ある微笑だろう。みょうに癇に障る。
乙葉はぷいっと彼女から視線を背けた。
「でも、すくなくとも惺壽は好きじゃありません。だってわたし、惺壽の前で猫を被ろうなんて思ったこと、一度もありませんから」
初恋相手の森野の前では、乙葉はいつも大人しかった。
温厚な彼に素の自分を晒して嫌われたくなかったからでもあるし、単に緊張していたからでもある。
乙葉のこういう傾向については、昨日のうちに鈿女君にも話してある。
(これで納得してくれるかしら。わたしが惺壽を好きじゃないって)
ちらりと向かいに視線を投げた時、返ってきたのはまたもや意外な言葉だった。
「恋をしたからといって、いつも同じ胸のときめきを感じるとは限らないでしょう」
「…………」
真顔で鈿女君を見る。
彼女は口元に紫紺の上襦の袖を当て、艶やかに笑んだ唇を隠した。
「愛らしい方。あなたはまだ、恋のなんたるかをよくご存じでないのね」




