五章ー6話
その後、惺壽に相談してみると、彼はしばらく考え、乙葉の依頼を受け入れてくれた。
屋敷には戻らず、その足で鈿女君の屋敷へ向かう。
相変わらず夜のままだ。天照陽乃宮はまだ岩戸から姿を現さないらしい。
そこまで考え、はたと気づく。
「鈿女さん、陽乃宮のところに呼び出されてないかしら」
天照陽乃宮を宥めるために、お気に入りである鈿女君は雲乃峰に足を運んでいるかもしれない。だとしたら、こうして訪ねても空振りになるだけだ。
「よしんば鈿女君が不在だとしても、おまえを預けることに不足はない」
簡潔な惺壽の返事に、乙葉は目を丸くする。
「……預けるって、またどこか行くの?」
「少々野暮用でね。……家主が屋敷を空けている合間、再び屋敷を訪れる客があったとしても、居候どのに応対させるわけにもいかない」
天虎を連れ戻してやるという取引を断った以上、沼垂主は別の騎獣候補を探すつもりなのだ。
結局、天乃浮橋の番人にとって、人間である乙葉の存在は目障りでしかない。
惺壽が屋敷を空けた隙を狙って、また乙葉を攫いにくる可能性は高い。
「鈿女君の屋敷ならば安全だ。……たとえ誰であっても、そうそう悪さは働けまい」
惺壽の声は飄々と揺るぎない。
乙葉はぽつりと言う。
「ずいぶん信頼してるのね」
「事実を言っているまでだ」
「……そう。野暮用ってなに?」
「野暮だから野暮用だと言っているのだよ、お嬢さん?」
人の姿だったら肩でも竦めていただろう。仕草が目に浮かぶようだ。
やがて星空の彼方に、巨大な浮雲の上に建つ竜宮城のような屋敷が現れる。
しんと静かな中、ぎいと軋む音が響いた。
朱色の巨大な門扉が片方、内側から小さく開かれている。
惺壽は迷いない足取りで門をくぐった。
たちまち目の前がぽうっと淡い明るさに包まれる。
「月下美人……?」
花園を埋め尽くすように咲いているのは、月下美人によく似た花だ。
純白の花弁は柔らかな光を放ち、辺りに立ち込める紺青の夜陰をどこかに追いやっている。
昨日までは、桃や金木犀など四季様々な花が咲いていた花園だが、今やすっかり様変わりしていた。ため息が出るほど幻想的な光景だ。
「惺壽さま、乙葉さま。ようこそお越しくださいました」
長裙の裾を鮮やかに捌いて屋敷から出てきたのは、涼し気な目元の美女、黎珪だ。
乙葉を背から下ろした惺壽が彼女に視線を向ける。
「不躾とは存じますが、一時、この娘をお預かりいただきたい。鈿女君はご在宅か」
「はい。お待ちください、すぐに主を呼んでまいりますので……」
「いえ、けっこう。ご挨拶には後程伺いましょう」
黎珪は「かしこまりました」と慎ましく叩頭した。
頷いた惺壽が踵を巡らせる。
すれ違いざまに乙葉と目が合った。
「惺壽……」
ほの白い花明かりの中、薄青の瞳に映る自分の顔はなぜか不安げだ。
なにがおかしいのか惺壽がくすりと笑う。
「早々に戻る。艶事ならばともかく、野暮用を長引かせるほど無粋ではないのでね」
言い残し、惺壽は虚空を駆けながら門扉の合間をすり抜けていった。上空から出入りせず、わざわざ門を通るのは一応の礼儀なのだろう。
「乙葉さま。夜は冷えます。どうぞ中へ。主もすぐに呼んでまいりますわ」
黎珪に促され、ひとりでに閉まった朱色の門扉を見つめていた乙葉は、慌てて彼女に従い、屋内に入った。
案内されたのは、翡翠の柱が美しい、白壁の広間だ。
天井も鮮やかな翡翠色に塗られ、飾り格子の嵌まった窓の外には、闇を背景に白く浮かび上がる大輪の花影が垣間見えた。
部屋の中央には飴色に光る方卓が設えられているが、無人だ。
黎珪に勧められるままに椅子に腰を下ろすと、ほどなくして、精緻な龍が彫られた扉が開いた。
入室してきたのは鈿女君だ。
艶やかな黒髪は結い上げずにゆるく括り、大胆に開いた紫紺の襦裙の胸元に流している。額に花鈿はなく、白粉や唇の色もいつもより淡い。
「お待たせしてしまったわね。すこし海琉に手こずっていたものだから」
「海琉さん……って、たしか鈿女さんのお気に入りの歌姫だっていう……」
乙葉がすこし首を傾げると、向かいに座った鈿女君はゆるやかに頷いた。
「ええ、そう。妾の一番のお気に入り。あの子の歌でないとうまく舞えないのよ。……けれど、どこぞの殿方のせいで、近頃はまったく歌えなくなってしまってね。本当は雲乃峰の屋敷があの子の住まいなのだけれど、すこしの間、こちらの屋敷に置いておくことにしたの。泣いてばかりで歌えない歌姫なんて、陽乃宮のご機嫌を損ねては大変でしょう」
鈿女君は物憂げにため息を漏らした。時折、藤色の瞳をよぎる光は剣呑だ。
部屋の隅の卓子で茶を淹れている黎珪を横目に、どこぞの殿方に心当たりのある乙葉は口元を引きつらせる。
「ほ、本当に梛雉、海琉さんを弄んで捨てたんですか?」
「さあ。実のところはよく分からないけれど、あの子が梛雉どのを慕っているのは事実だから。それに、あの方はどんな女性にも優しいでしょう」
「そう、ですね。親切だとは思います……」
天乃原に来た時、最初に乙葉に手を差し伸べたのは梛雉だ。
その後、結局惺壽に押し付けられたわけだが、あのまま彼にも捨て置かれていたら、今頃はどうなっていたか分からない。
あれはひとえに彼の女性崇拝主義のおかげだろう。
天性の容姿とも相まって、それはもう女性にもてはやされるに違いない。
天乃原の女性人気を惺壽と二分するというのも頷ける。
「ええ。たしかに親切で、お優しい方ね。どんな女性から向けられた想いであっても、決して無下にはなさらないもの。……いつだったか、どこぞの花の女神とその娘に一度に慕われた時も、それぞれにお相手なさっていたわ。母娘にはそうとは悟らせずにね」
(想像以上に腐ってた)
これから先、あのきらきらの極上の笑顔をどういう気持ちで見つめればいいのだろう。あまりの衝撃に乙葉は言葉もない。
「ご本人に決して悪気はないのよ。『どちらの想いも真剣だったから、自分も真剣にお返ししただけですよ』と天真爛漫に笑っていらっしゃったくらいだもの。本当に、底抜けに底の抜けた方」
そう締めくくった鈿女君の声音には、もはやお手上げだと諦めた色がある。
(底抜けに底の抜けた……うん。要は、頭のネジが何本か、ぶっ飛んでるってことよね……)
梛雉は、陽気でとっつきやすく、物腰柔らかな美青年だ。
ただ天性の陽気さのため、傍から見たらとんでもないことでも、本人が良いと思えばなんでも実行してしまうのだろう。
そこに邪気や悪意は微塵もない。だからこそ憎めない。




