五章ー5話
このまま引き下がったら中乃国に戻れない。
だが、向けられた静かな眼差しに反論を封じられ、結局それを飲み込む。
「……分かった」
乙葉がしぶしぶ頷くと、惺壽が足を曲げてわずかに体高を下げた。
その背に跨る。
「お気が変われば、いつなりともお命じを」
静かに言い残した惺壽は、蹄で空を蹴った。
夜空に駆け上っていく視界の端で、沼垂主たちの姿がどんどん遠ざかっていく。
「どうしてあっさり帰っちゃうのよ? もっと言ってやりたいことがあったのに」
「ああも興奮していては、こちらの言い分が的を得ていても、耳を貸しはしないだろうさ。どうやら、たいそう俺に恨みを募らせていらっしゃるようでもある」
たしかにそうだ。ああいう感情的な理由を持ち出されると、打つ手がない。
沼垂主の頭が冷えるのを待つしかないのだろうか。
ちゃんと冷えてくれればいいけれど。
「……惺壽の爛れた恋愛遍歴に、元の世界に戻るのを邪魔されるとは思わなかったわ。ねえ、沼垂主になにかしたの?」
詰るように尋ねると、くすりと忍び笑いが聞こえた。
「さて。身に覚えはあるような、ないような」
「どっちなのよ」
「あるが、ない。……そうとしか答えようがなくてね」
意味不明なことを言う惺壽は、楽しげでさえある。
乙葉は眉根を寄せた。
(からかってるの?)
こんな時に。
沼垂主の鬱屈を取り除かなければ、乙葉は元の世界には戻れないのだ。
どうしたら解決するのだろう。
なにが沼垂主をあれほど意固地にさせているのだろうか。
脳裏にふっと、一人の艶やかな女性の姿がよみがえった。
大輪の牡丹のごとき美女。――鈿女君だ。
沼垂主は彼女に入れあげているという。
先ほどもはっきり名前を出したくらいだ。
それも天照陽乃宮を差し置いて、一番に。
(昔、沼垂主が惺壽を嵌めたのも、鈿女さん絡みだったみたい……なのよね)
初めて鈿女君の屋敷を訪ねた、その帰り道。
彼に直球でそのことを質問し、答えをはぐらかされた。
たぶん乙葉の読みが合っているからだろう。
惺壽と鈿女君は一夜限りの恋人だったという噂だ。
だが、本当に一夜限りだろうか。
ただの偶然なのか故意なのか、今も彼らは頻繁に顔を合わせているし、並んで立つとこれ以上お似合いの二人はいないと思うほどだ。
――胸の奥が鈍くうずいた気がし、乙葉は唇を噛んだ。
あの二人のことを考えると、いつもこんな説明のつかない感情が沸く。
どうしてだろう。
(理由なんてどうでもいいわ。……わたしのことと関係ある以上、ちゃんと突き詰めて考えなくちゃいけないことなんだから)
もし沼垂主の恨みが、惺壽と鈿女君の仲に関係あるのならば。
(……どうしようもないわよね。まさか二人に別れてくれなんて言えないし……)
あまりに自分勝手だ。
だからといって他にいい方法も考え付かない。
手詰まりだ。
乙葉はため息をついた。
ほんの小さいものなのに、敏くも惺壽は聞きつけたようだ。
「どうした」
「……べつに。沼垂主ってどこまで器が小さい奴かしらと思っただけ」
そう誤魔化した。
どうせ直截に聞いても、先日のようにはぐらかされるのがオチだ。
質問したいなら他を当たるしかないが、あいにくこちらの世界で気安く話せる相手は限られている。
梛雉と、当事者でもある鈿女君。そして彼女の侍女たちくらいか。
「ねえ惺壽。今度はいつ梛雉が来るか知ってる?」
何気なく尋ねると、少しだけ間が空いた。
「……なぜ」
「え? ええと……梛雉と話してると楽しいからよ」
なんだか責められているような気分になり、もごもごと返した。
まさか馬鹿正直に、惺壽と鈿女の仲について相談したいとは言えない。
それに梛雉との会話が楽しいのも事実だ。
彼はいつも朗らかだし、最初はうさんくさいと思っていた気障な台詞も極上スマイルも、天然の賜物と思えば受け入れられる。
惺壽の返事はない。
先ほどといい、変な間が空いている。さすがに乙葉は首を傾げた。
「どうかした?」
「……あまりあの男に近づくな」
「は?」
なにを言っているのだろう。
友人をこんなふうに言うなんて。
「なに、もしかして喧嘩でもしたの? だからさっきも追い返したとか……」
先ほど、月読乃宮の命令を携えてきた梛雉を、すげなくあしらっていたが、そのことと関係あるのだろうか。
思わず心配した乙葉に、今度は惺壽がため息を漏らした。
「……あれに気を許し、涙に暮れた女人を星の数ほども知っているのでね。出過ぎた老婆心だ」
「……人のこと言えないんじゃないの……」
そう憎まれ口を叩きつつ、本当にそれだけだろうかと内心思う。
もっと他の意図があったような気がするが……かといって、今さら尋ねようもない。
(梛雉はともかく……鈿女さんとも、もう一度話をしたほうがいいわよね)
なぜ沼垂主があれほどまでに惺壽を目の敵にするか、その鍵は鈿女君が握っているように思われる。
彼女と話せば、天乃浮橋の番人を説得する手がかりも見つかるかもしれない。
(もうすぐ中乃国に戻れる。……そのために、わたしにもできることがある)
天乃原に迷い込んだ日からずっと、自分はただ右往左往していただけだった。
でも、今は違う。
すくなくとも、なにをすればいいのか、自分で考えることができる。
中乃国に戻る方法は惺壽が見つけてくれた。
あとはそれを実行する方法を考えるのだ。
(あとで鈿女さんの所に連れていってくれるように頼まなきゃ。……惺壽が大人しくうんって言ってくれればいいけど)
彼が承諾したら、その時には、あの二人が並び立つさまを見せつけられることになるが。
一瞬よぎった考えを追いやるように、乙葉は、左右を流れ去る星々に目をやった。
活動報告も更新しています。
ぜひご覧ください。




