五章ー4話
「目を付けられた妖獣にすれば、これほどの迷惑もないでしょう。恨みを買うのも頷ける」
「う、恨みだと!? 儂がいつ恨みを買ったと……!」
「おや。では――執拗に御身をつけ回す獣には、心当たりがないと?」
「……わたしまで狙われて迷惑してるわ」
麒麟姿の惺壽の隣で、乙葉はぼそっと付け加えた。
喚いていた沼垂主の動きがぴたりと止まる。
ぎょろついた目玉がそよそよと明後日の方向に動いた。
「……さすがは月読乃宮だ。今宵の月もまことに美しいぞ。うむ」
「その月読乃宮の寵が早晩に失われぬようお祈り申し上げましょう。閣下はことのほか無能者を嫌っていらっしゃる。……よくご存じでしょう、勅命を果たせぬ者に用はない方だと」
冷ややかな声に、沼垂主の口元が引きつった。
かつて惺壽の手柄を横取りし、間接的に彼に無能者の烙印を押した自覚があるのだろう。多少なりとも罪悪感を抱いているのだろうか。
「そ、そうだったな。月読乃宮はたしかに無能者がお嫌いだ。そして、儂はお前とは違って無能ではない。この度は三岐を取り逃がしはしたが、次の妖獣に目星はついとるのだ。そいつを捕えれば、月読乃宮の儂へのお引き立てはますます……」
「卑怯者。逃がしたのは三岐だけじゃないくせに」
乙葉はぴしゃりと遮った。沼垂主の顔が青ざめる。
「こ、小娘め、なんの言いがかりを……っ!」
「言いがかり? だったらなんで“わたし”はここにいるの?」
軽く両腕を広げて尋ねると、相手はうぐっと言葉に詰まった。
顔色は青を通り越して土色だ。――反応が過剰。つまり。
(沼垂主は、わたしが人間だってことに気づいたんだわ)
それが自分の不手際のせいだということにも。
やはり沼垂主が取り逃がしたのは三岐だけではないのだろう。
天虎も同じくだ。
だが天虎は沼垂主の手を逃れ、替わりに乙葉が天上に迷い込んだ。
惺壽が立てた予測が事実へと変わりつつあり、ますます腹が立ってくる。
「さっきから黙って聞いてたら自分に都合のいいことばっかり。でも、いくら自分のヘマを隠そうとしたって無駄よ。わたしはちゃんと知ってるし、起こった事実は消えないわ。……だいたい、あんたが今そうやって月読乃宮に騎獣探しを任されてるのだって、もとはといえば惺壽の邪魔をしてのし上がったおかげじゃない。それなのに騎獣が見つからないとかなんとか、惺壽に八つ当たりしないでよ、バカ蛙!」
一息に叩きつけ、荒く息をしていると、不意に、すぐそばでくすりと笑い声が落ちた。
場違いなほど楽しげだ。首を巡らせて隣を見ると、優美な姿の麒麟と目が合う。
「威勢のいいことだ。なかなかに見物だった。……が、怒りの矛先を違えるな。おまえが糾弾すべきは、俺とあちらの御方との因縁か?」
乙葉は返事に困る。
薄青い瞳はどこか楽し気な光を湛えている。
「とうに過ぎた柵だ。いまさら蒸し返すつもりもないさ。……しかし、沼垂主どの。たしかにこの娘の言い分は道理でしょう。一度起こった事実を消すことはできません。――たとえ、この娘を消したところで、ね」
含みのある言い方に、沼垂主の全身がびくっと跳ねた。
「単刀直入に申し上げる。――天乃浮橋の番人に置かれましては、八雲乃櫂を振るって頂きたい」
沼垂主は口を真一文字に結んだ。
喉仏がごくりと上下する。
「……な、なぜだ」
まだとぼけるつもりのようだ。
惺壽は一つ息を落とした。
「おそれながら、天照陽乃宮へ献上するのに赫丑や三岐では見劣りがするでしょう」
(赫丑?)
妖獣の名前だ。
昨日、街中で暴れだしたとかで、追い払うために惺壽が呼び出されていた。
そうそう人前に姿を現す妖獣ではないらしいが――ここで彼がわざわざ名前を挙げたということは、赫丑の暴走も沼垂主と関係あるのだろう。
騎獣候補に挙げられていたのかもしれない。そして沼垂主一派に追い回され、やむなく街中に逃げ込んだ、とか。
(それを追い払うのに惺壽が呼び出された隙に、今度はわたしを攫おうとしたわけ!? ……こ、この腐れクソ蛙! もっと罵ってやればよかった!)
身体の脇で両拳をふるふる震わせる乙葉の隣で、麒麟姿の惺壽は淡々と言葉を紡ぐ。
「もしも漆黒の天虎をご所望ならば、八雲乃櫂の神力と引き換えにお連れしてもかまいませんが」
沼垂主は黙り込んだ。
だらだらと額から汗が伝っている。
これ以上、天虎と乙葉の入れ替わりを誤魔化しても無駄だと悟ったようだ。
返事までに長い間が空いた。やがて、ぽつりと短く。
「き……麒麟の手など、借りん」
ふて腐れたような声音だ。
薄青の瞳が一つ瞬く。
「理由をお聞かせ願いたい」
「ええい、理由などないわ! 儂は絶対におまえと手を組んだりせん! 鈿女、陽乃宮、その他の美女大勢! いくら女どもにはもてはやされても、儂はおまえに靡いたりはせんぞ!」
「なにそれ、だたのやっかみじゃない! そんなくだらないことで……!」
かっときて乙葉は叫んだが、惺壽の声がそれを遮った。
「左様ですか。……それでは致し方ありません」
「惺壽……」
驚いて彼を見る。
だが彼は、興味を失ったというように沼垂主から視線を逸らした。
「乗れ。屋敷に戻る」




