五章ー3話
「乙女の怒りは手に負えないが……せいぜい、その不機嫌顔で威圧してやることだ」
呆れたようなため息をともに衣擦れが立った。
見れば惺壽は立ち上がっている。
「沼垂主がどこにいるのか、分かるの?」
威圧しろという相手は沼垂主だろう。
先ほどさりげなく梛雉から居所を聞き出たしたものの、東といっても範囲は広い。
「おそらく沼垂主は代替の騎獣を探しているはずだ。東ならば、幾つか妖獣のねぐらの心当たりがある。それらを虱潰しに当たるしかないな」
返答はこともなげだが、それだけに心強い。乙葉は頷きを返した。
麒麟の姿をとった惺壽の背に乗り、屋敷を後にして、天空遥かに駆け上がる。
夜の中を疾走するのは初めてだ。
頬を切る風はすこし冷たい。
皓々と輝く満月と銀砂のような燦然たる星々が、藍色の夜道を彩っている。
(昼より静かね……)
昼間なら賑やかということでもないが、今は、ぴんと張りつめた静けさが漂っていた。
そのせいか、むやみに声を上げるのも憚られた。
星空にふわふわと髪を靡かせつつ、黙って前方だけを見据えている。
「……想定内でしか動けない男だな」
惺壽が呟く。
それに被せるように、遠くから緊張のみなぎる唸り声が複数響いた。
「……犬? いっぱいいるみたい」
「この界隈を根城にしている、三岐という牙狼だ。三の頭を持つ」
返事の合間にも、再び唸り声が複数上がった。先ほどより声が大きい。
前景は紺色に染まった霞雲に遮られているが、三岐という狼に近づきつつあるようだ。
不意に視界が開けた。
霞雲が切れたのだ。
その空間には、平らにならされた巨大な浮き雲だけがあった。
月光をほの白く照り返す雲上には、三つの頭を持つ斑模様の巨大な狼がいた。
あれが三岐だろう。
四肢を踏ん張り、警戒するように低く唸る狼を、幾人かの男たちが遠巻きに取り巻いている。彼らは二人一組で長く丈夫な縄を手にしていた。
ふと服装に既視感を覚えた。
男たちは揃って、生成り色の着物に黒い帯を締めた姿だ。
「ええと……あ、昨日来た奴らと同じ格好……! 沼垂主の家来ね。でも肝心の沼垂主はいない……?」
「御方は荒事がお嫌いだ。事が済むまで、どこぞで安全に身を隠していらっしゃるはずさ。拐し好きの主に仕える従者もさぞ苦労が多いだろう」
惺壽の口調は淡々としたものだが、いつになく痛烈な嫌味に聞こえる。
沼垂主は、次は三岐を献上と騎獣と定めたらしい。
狩りは従者に命じ、自分はどこかで高みの見物でもしているのだろう。
前方で、斑模様の狼は、三つの頭をそれぞれに振りながら、沼垂主の家来たちを威嚇している。
息の詰まるような睨み合いだ。
狩人たちの包囲の輪がじりじりと縮まる。
唐突に惺壽が進路を変えて上昇しだした。
やがて降り立ったのはごく小さな雲の上だ。大人が十人ほど乗れるだろうか。
「降りてくれ。狩人たちに主の居所を尋ねばなるまい」
促され、乙葉は躊躇ったが、大人しく従った。
眼下には対峙する三岐達の姿がある。
(どうするつもりかしら)
彼はさっさと踵を返している。その後ろ姿に慌てて声をかけた。
「怪我、しないで」
なにをどうするつもりでもいい。とにかく無事でいれば。
麒麟は優美な首を巡らせてこちらを振り返った。
月明かりに、全身を覆った鱗がしなやかな光を弾く。
怜悧な薄青の双眸がわずかに細められた時。
雲下に咆哮が上がった。
静寂を劈く(つんざく)それに、男たちの怒号が重なる。
惺壽は跳ねるように落下していった。
乙葉は彼を追いかけるように走り、雲の端ぎりぎりで、ぺたんと座りこむ。
眼下を覗けば三岐が暴れ狂っているのが見えた。
その身体は、ぴんと張った二本の縄に押さえつけられるところだ。
すかさず三本目が巻き付けられ、狼は抗うように巨躯をよじった。
巻きつく縄のすべてが弾き飛ばされる。
反動で、それぞれの縄を持っていた男たちも放りだされた。
宙を舞いながら落下する一人を目指し、三岐が走る。
咆哮に牙がのぞいた。
凄惨な光景を予想して乙葉が小さく悲鳴を上げた時、ついに惺壽が戦場にたどり着いた。
麒麟の優美な肢体は、ひっくり返ったまま立てずにいる男の一人の前にふわりと降り立つ。
薄青の瞳が月光に一閃。彼はぶんと頭を振る。
空気が波を打った。
惺壽から放たれたのは、金属音に似た不思議な音色だ。
彼の目前に迫っていた三岐の全身にばちばちっと火花が飛び、ぎゃんっと悲鳴を上げた狼はもんどりうって倒れ込む。
すぐに三岐は立ちあがり、三つの口でそれぞれに唸り声をあげた。毛並みがすこし焦げている。
惺壽は静かに狼を見返している。そこから一歩も動こうとしない。
やがて目を逸らしたのは三岐のほうだった。
憎々し気な唸り声を残しながらも、跳躍して別の雲に乗り移る。
そしてまた別の雲へと跳び、その姿は夜陰に紛れて見えなくなった。




