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五章ー1話

五章


 翌日目が覚めると、室内にはまだ月光が差していた。

 床から出た乙葉は、木戸を開いてみる。

 藍色の夜空には星が散らばり、銀色の満月が上っていた。

(まだ天照陽乃宮の機嫌が悪いのかしら)

 睡眠時間が短かったわけではない。陽が昇らずに月が居座っているだけだ。

 

 木戸を閉めながらそっと廊下に出る。靴下越しに床板の冷たさが伝わった。

 革靴を履いて湖の畔で洗顔を済ませ、今度は靴を脱いで、湖に面した部屋に上がった。

 案の定、惺壽の姿はそこにあった。

 敷物に腰を下ろして、脇息に肘をついている。

 

 見晴らしのいいこの部屋からは、細波の中に月を映した暗い湖がよく見えた。

 朝だが「おはよう」とも言えず、脇息を挟んで彼の隣に立った乙葉は、後ろ手に組む。

「暗いわね」

「貴人方がこぞって右往左往しておられるだろう」

「惺壽は行かなくていいの?」

 陽が昇らずに困っている人は多いだろうし、雲乃峰でも今頃、天乃岩戸に閉じこもった陽乃宮を引っ張り出そうと大勢の天人が気を揉んでいるだろう。

「御心を痛めておいでなのは、天乃原で最も高貴な女人だ。卑賎の我が身が駆けつけたところで、できることなどなにもあるまい」

「面倒くさいって言ってるように聞こえる」

「心外だ。こうして遠くから雲乃峰を見守ることしかできず、真実胸を痛めているさ」

 惺壽はくすりと口角を上げた。

 絶対に嘘だ。

 乙葉は小さく息を落とす。

(ちょっとは出世しようって気がないのかしら)

 

 これは好機のはずだ。

 もし天照陽乃宮の機嫌を直せば大手柄になるし、だからこそ雲乃峰の貴人も“こぞって”右往左往するのだろう。

 

 だというのに、惺壽には参戦の意思がまるでない。

 そしてどこうこう言ったところで気を変える人でもない。

 手柄など、彼にとっては本当にどうでもいいことなのだ。


 だが――そうもいかない人物もいるはずだ。

「……沼垂主も雲乃峰に行ってるのかしら」

 ぽつりと呟いた。

 これが出世の機会なら、あの蛙男がせっせと雲乃峰に足を運んでいる可能性は高い。

 

 沼垂主とは大事な取引が控えている。

 雲乃峰に行けば会える可能性は高いが――

「雲乃峰には神力の高い天人が幾らもいる。親愛なる番人どのの鼻は誤魔化せたとしても、方々を欺くことは難しい」

 人間がのこのこと足を踏み入れるには、危険すぎる場所らしい。

 

 その時だった。

 

 静寂の中に、重たい羽音が近づいてくる。

 湖の上空に目を凝らせば、満月を背に、こちらに飛んでくる一羽の大鳥の影が見えた。

「ああ、いたんだね、惺壽。乙葉嬢も御機嫌よう」

 欄干を超え、人型で室内に降り立ったのは、豪奢な衣装に身を包んだ青年だ。

 朱金色の髪の梛雉だった。

 柔和な彼にしてはめずらしく慌ただしい雰囲気だ。

「惺壽、月読乃宮のお召しだよ。すぐに陽乃宮の許に参上するようにと」

「彼の御方は今、固い岩戸の向こうだろう。御許に参上などできるはずもない」

「屁理屈を言っていないで。その陽乃宮が岩戸からお出でくださるよう、君にご機嫌伺いをするようにとのお達しに決まっているじゃないか。分かっているくせに」

「……なんで惺壽に指名が?」

 乙葉は目を瞬かせる。

 

 朱金色の瞳が柔らかく笑んで、こちらを見た。

「彼は陽乃宮のお気に入りだからね。雲乃峰に参内していた頃は、よく御前にも窺っていたんだ。……まあ、例の件で月読乃宮のご不興を買ってからは、ぱったりだけれど」

 含みのある言い方に、乙葉もちょっと言葉に迷った。

 

 例の件とは、沼垂主の策略に嵌められて惺壽が失脚した事件のことだろう。


(たしか、陽乃宮が出かけるのを邪魔した妖獣を討伐させられたんだっけ?)

 その手柄を沼垂主に横取りされた挙句、彼は的外れにも、月読乃宮の怒りを被ったというわけか。

 月読乃宮は、姉である天照陽乃宮の一挙手一投足に細心の注意を払っているという。


「……なぜ今更、月読乃宮がお声がけを? とうに俺のことなどお忘れかと思っていたが」

 惺壽は脇息に頬杖をつきながら、低く尋ねた。

 どこか気怠げなのは、まさか面倒くさいのだろうか。

 対する梛雉は笑顔だ。

「それは昨日、君が久しぶりに雲乃峰に顔を出したことをご報告したからだよ。それに月読乃宮は君のことを忘れていたわけじゃない、ずっと気に留めていらっしゃったんだ。なにしろお話した時に『あの双角の気まぐれぶりには呆れかえる』って仰っていたからね」

 辛辣な嫌味としか思えないが、梛雉はまるで自分のことのように、にこにこと嬉しそうだ。

(天然って最強だわ……)

 どこまでも強い心臓を持つ美青年に哀愁にも似たものを感じつつ、乙葉はそっと、かたわらを見下ろした。

 惺壽の精悍な横顔に表情はない。薄青い瞳がじっと梛雉を見ている。


 どう答えるのだろう。

 息をつめて見守っていると、やがて広い肩がひょいと竦められる。

「あいにくと多忙だ。月読乃宮のご用命とあれば喜び勇む者は他にもおろう」

「そんな。君にという御指名なのに」

「沼垂主あたりにでも振ってはどうだ?」

 食い下がっても投げやりな返事だ。


 梛雉は不服そうに眉根を寄せた。

「沼垂主どのはまた別のご用を承ったみたいだよ。私が参内した時、東の方にお出かけになるといって、入れ違いになったから」

「東ね。不明確な行先だな。探し出すのにさぞ骨を折るだろう」

 完全に他人事だ。

 言外に、おまえが沼垂主を探しに行けと言っているのだ。

 

 乙葉は視線を梛雉にやった。

 柔和な美貌の青年はもの言いたげに惺壽を見ていたが、やがて深いため息をつく。

「まったく君は……まあ、簡単に動かせる人だとも思っていないけれど」

「おや。俺のことをご理解いただいているとは、痛み入るね」

「どういたしまして。長い付き合いだからね、その偏屈さは重々身に染みているよ。……じゃあ、私はこれでお暇するけれど、気が変わったらすぐにでも月読乃宮のお召しに応じるんだよ。いいね?」

 返事も待たず、鳳凰の姿に変じた梛雉は、雅やかな尾を長く引きながら、夜空高くに舞い上がっていった。 


「落ち着きのない男だ」

「これでいいの?」

 素っ気ない感想を漏らす惺壽に、おずおずと尋ねる。


いつもお読みいただいてありがとうございます。

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