四章ー16.5話
屋敷に入った後、惺壽と別れ、乙葉は一人、寝起きしている部屋に入った。
(帰れるかもしれない……)
木戸を閉め、のろのろと部屋の隅に向かう。
そこで壁に背を向けて腰を下ろし、ぎゅっと両膝を抱え込んだ。
狭い室内には藍色の闇が漂い、桟から差し込んだ幾筋かの月光がわずかに明るい。
天乃原に来た経緯が分かった。
まだ推測にしか過ぎないが、惺壽の読みでまず間違いはないのだろう。
そしてすでに元の世界に戻るための交渉材料も揃っている。
帰れるのだ。元の世界に。
それなのに――どうしてだろう。思ったよりも心が浮き立たないのは。
(
惺壽はいつまでわたしに黙ってるつもりだったのかしら……)
沼垂主が今回のような乱暴な行動を起こさなければ、彼はずっと事実を伏せたままだったかもしれない。
そうして蚊帳の外に置かれたまま、乙葉はある日突然、中乃国に帰ることになるのだ。
その時にはきっと、「なんで黙ってたのよっ!」なんて憎まれ口を叩いて、けれど、そこそこ楽しい天上旅行の思い出を胸に元の世界に戻ったに違いない。
ひとえに、天乃原に来てからずっと惺壽に振り回されたせいだ。
異世界に来たという絶望的な状況なのに、喧嘩ばかりで、落ち込んだり不安がったりする暇がなかった。
それももうお終い。
沼垂主との交渉が成立するかは分からないが、あちらにとっても悪い話ではないはずだ。「うん」と言わせさえすれば、乙葉は元の世界に戻ることができる。
そうすれば、もう――惺壽と会うことは二度とないだろう。
「…………名前呼んだの、聞きたかった……」
抱えた両膝に顎を埋めるようにして、ぽつりと呟いた。
先ほど森から出てきた自分を認め、かすかに動いた唇。
遠すぎて声は聞こえなかったが、出会って五日目、ようやく惺壽が乙葉の名前を呼んだ。
いつも偉そうに「おまえ」呼ばわりだ。
まともに名を呼ばれたのは、あれが初めて。
その声は――絶対聞いてみたかったのに。
いつもお読みいただいてありがとうございます。
次話より五章です。
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