四章ー16話
「な、なに……?」
乙葉はうわずった声を上げた。片手はまだ惺壽に引かれたままだ。
「震えるほど凍えたなら、あたためてやろうと思ったまでだ」
頭上からそんな返事が降ってくる。くっついた態勢では彼の顔は見えない。
抑揚のない声だけでは、本気なのか、いつものセクハラまがいのからかいなのか、よく分からなかった。とりあえず、がっつり抱きしめられた態勢ではない。
乙葉が惺壽に軽く寄りかかっているようなものだ。
そして彼の言葉通り、たしかにここはあたたかい。
「……が、我慢してあげるわ……」
広い胸に頬をつけたまま言うと、くすりと笑みが降ってきた。
「恐れ入るね」
飄々とした声を聞きながら、乙葉はわずかに瞳を伏せる。
地面に細長く映った、二人の影絵が見えた。
月夜は静かだ。葉擦れしか聞こえない。
(だから惺壽はずっと黙ってたんだ……)
天乃原に来た理由が分かれば、沼垂主が乙葉の命を狙う可能性に気づく。
彼はそれを避けたかったのだろう。
だからこそ、乙葉がその可能性に気づいた瞬間、こんなふうに抱き寄せたのだ。まるで震えを止めるように。
そのせいだろうか。
仄暗い陰謀に巻き込まれていたのだと知っても、落ち着いていられた。
(沼垂主が本当にわたしを消そうとしているのかも、まだ分からないし……)
すべては推測の段階。
不確実な事柄だ。
それでも状況が最悪であることに変わりはない。
結局、無事に元の世界に戻るには、天乃浮橋の番人の協力が必要だからだ。
だが、その番人は乙葉を疎ましく思っている。
場合によっては命を奪われるかもしれない。
そうだとしてもだ。
「惺壽……わたし、このまま沼垂主から一生逃げ隠れするつもり、ないから」
乙葉はぽつりと呟いた。
返事があるより先に、顔を上げる。
「絶対に元の世界に戻るの。そのためなら蛙の一匹や二匹、丸焼きにしたって言うこと聞かせるわ」
強い覚悟を込めて、薄青い瞳をまっすぐに見据える。
惺壽の唇に笑みが閃いた。
「上等だ」
手首を握っていた彼の手が、乙葉の頬にかかった髪を掬うように梳いて、離れていく。
くすぐったさにちょっと首を竦め、乙葉は彼から身体を離した。
途端、身体を包んでいたぬくもりが急速に失われていく。
いっそう夜風を冷たく感じたが、もう一回くっつくわけにもいかない。
「沼垂主に協力させるにはどうしたらいいかしら。脅す? 賺す? 剥ぐ?」
寒さを気取られないように尋ねると、惺壽のほうはいつも通りの口調で答える。
「ひとまずは向こうの出方を窺う」
「出方って……このまま、あっちがなにかしてくるのを待つってこと?」
「いや。時間を与えて、その隙に悪知恵を働かされても事だ。せいぜい揺さぶりをかけてやるさ。……おまえが言ったように、取引を持ちかける」
「取引って……逃げた天虎をこっちに連れ戻すってこと? でも、騎獣なら他を探せばいいんでしょう」
騎獣が、消えた天虎である必要はないはずだ。
首を傾げた乙葉に、惺壽は平然と答える。
「沼垂主には別の当てもあるだろう。だが、消えた獣に執着しているものは他にいる」
「他に? …………あ、襲ってきた天虎……!」
消えた天虎の気配を嗅ぎつけ、乙葉を執拗に狙っている、もう一頭の天虎だ。
「そう、あの赤目の天虎だ。天虎の瞳は平常、黄褐色をしているが、激情に駆られた際には深紅に変わる」
乙葉に牙を剥いた天虎の瞳は、深紅に染まっていた。
「群れ意識が強い種だ。同胞を奪われ、激しているのだろう。たとえ沼垂主が、自らの手で消した天虎の存在を忘れたとしても、あの赤目の天虎は奴への恨みを忘れまい」
惺壽は敢えて口にしなかったが、天虎の恨みの矛先には乙葉も向いている。
あまりに理不尽だ。乙葉はただ巻き込まれただけなのに。しかもそれは、消えた天虎を助けようとしてのことだ。
「あの蛙、いっそぱっくり食べられたほうがいいんじゃないの?」
全部沼垂主のせいだ。赤目の天虎だってそれで気が収まるかもしれない。
「賛同したいところだが、沼垂主が消えれば、天乃浮橋の番人の役目は他の者に移るだろう。そうなれば、おまえがひそかに天乃原に迷い込んでいたことは公の知るところとなる」
「……もしかして事情聴取とかされて、ますます帰るのが遅くなる?」
「場合によっては一生天上に据え置かれることもありうるな。天乃原の存在は、中乃国には不要の知識だ。みだりに天上と地上の均衡を乱されてはかなわない」
つまり、なんとしても沼垂主に協力させなくてはいけないのだ。
「沼垂主とて赤目の天虎に戦々恐々としているだろう。あれを追い払ってやる代わりに、おまえを中乃国に戻すよう持ち掛ける。消えた天虎を連れ帰れば、あの赤目も満足するはずだ」
惺壽の言うように事が進めば、すべてが丸く収まるのだ。
(こんなこと、いつから考えてたの……?)
乙葉に嫌味とセクハラ攻撃を浴びせる、その裏で、彼は一人、ずっと最善策を練っていたのだ。
「……ありがと」
おずおずと言った。
まただ。心からの気持ちが素直に口をついてこない。
居心地悪く視線を下げると、くすりと笑う気配がし、不意に、あたたかな手に両頬をつねられた。そのまま顔を仰向かされてしまう。
「ふぇっ! ひょ、ひょっと、なにふんのよっ!」
目を白黒させて見上げれば、月夜に薄青の瞳がきらりと光った。
「常日頃からそれくらい殊勝でいてほしいものだと思ってね。……沼垂主を訪れる際はおまえも同行してもらう。せいぜい脅して賺して皮を剥いでやれ。その心中を曝け出すようにな」
頬をつねっていた手が離れていく。
解放された乙葉は、自分の頬を両手でさすった。不愛想に言う。
「そういうの嫌いじゃないわ」
「だろうとも」
返ってきたのは低く不敵な笑みだった。




