二章ー1話
二章
「雲上の都?」
風にふわふわと広がる長い髪を押さえつつ尋ねると、前方から返事が流れてきた。
「そう。天乃原は、君たち人間が暮らす中乃国から遥かに隔てられた雲の上の都だよ」
「ふーん……都……」
乙葉は身を乗りだして遠くに目を凝らしてみた。
だが広がるのは青い空と白い雲の波だけ。都と呼べるような建物や集落は見当たらない。
そう。乙葉を乗せた極彩色の鳳凰は、現在、雲海の上を飛翔している最中だった。
ここは雲の上の世界。天乃原と呼ばれる場所。
ちなみに乙葉が暮らしていた世界は、中乃国という呼び名らしい。
「ここは天乃原でも外れのほうだからね。中央には、もっと賑やかな街や、深い森、雄大な山河が広がる場所もある。そしてこの世界に暮らす命はさまざまだ。数多の天人、獣人、もちろん虫や草花もいるし、もっと辺境に行けば危険な妖獣なんかも」
「危険な妖獣って……ま、まさか、あなたのことなんじゃ……」
「私たちは霊獣と呼ばれていてね、妖獣とはすこし異なるよ。妖獣というのは、神力や妖力を持っていても、他種族と意思を通わせることができない生き物たちを指すんだ。彼らが人型を取ることもほとんどない。……さあ、安心したかい?」
「ま、まあね……。さっきの泉があった雲が消えていってたのは、どうして?」
「よくあることだよ。天乃原では、雲上を巡る神気がぶつかり合った場所で土地が出現し、逆に神気が移ろえば消えてしまう。強い神気が流れ込む場所ならばもっと大規模な土地が出現するし、そういう土地はそうそう消えはしないけれどね」
変った世界だ。そんな世界に、なぜ乙葉が迷いこむ羽目になったのだろう。
学校に戻る途中、神社で参拝しただけだ。他に特別変わったことはしていない。
ここに来るまでの記憶を思い返していた乙葉だが、ふとあることを思いついた。
「ねえ、鏡野神社って知ってる? あっちに……中乃国にある神社なんだけど」
「かがみの……なんとなく聞き覚えはあるような……」
「本当っ? じゃあ、やっぱりここは神さまの世界なの? それっぽく雲の上にあるし!」
声を弾ませた乙葉だが、急に梛雉が楽しげな笑い声を立てたので恥ずかしくなった。
「な、なんで笑うの……」
「ごめんね、可愛い人。君の純粋さと清らかさに胸が弾んでしまって、つい。……ここを神の国だと思うかどうか、それは乙葉嬢次第だ。私たちはあくまで天人でしかないからね」
「えっと……あなたは神さまじゃないってこと?」
「それも君次第だよ。我々天人が、君たち人間より遥かに強い力を持っているのはたしかだ。誰にとっても“神”とは、そういう己には計り知れない存在を指すものだろう?」
予想外に小難しい話になってしまった。神社に参拝したら雲上の世界に迷い込んだので、もしかしたら鏡野神社の神に呼び寄せられたのかと発想しただけだが、どうやら違うらしい。
(まあ、元の世界でも八百万の神とか言って、なんでも一括りに神さま扱いするしね……)
人、物、自然。なにかを畏れ、敬った時、人はそれを神と呼んで信仰するのだろう。
だから、天乃原をどう捉えるかは乙葉次第。――だが、そうなのだとしたら。
「なんでわたしはここに来たのかしら……」
鏡野神社の主が招いたのではない。ならば乙葉が天乃原に迷いこんだ要因はなんだ。
「その話は、落ち着ける場所に着いてからゆっくりとしよう」
そう言った梛雉に小さく「うん」と返し、下方に視線を落とす。
白い雲の波には翼を広げた鳳凰の影が映り、その向こうに地上を見透かすことはできない。
(来た理由はともかく、せめて帰る方法は分かればいいけど……)
このまま天乃原で、家族や友人に会えないまま一生を過ごすことにならないだろうか。
(もしそうなったら――って、だめだめだめ! 弱気じゃだめよ、絶対に家に帰る!)
乙葉はぶんぶんと頭を横に振って、不安をどこかに押しやった。
(どうやったら帰れるのか、まずは方法を探さなくちゃ。……でもどうやって?)
ここが雲の上の世界である以上、空を飛べない乙葉の行動は、かなり制限される。
誰かの庇護が必要だ。妖獣なんて物騒な生き物がいる異世界で、一人たくましくサバイバルしていく自信も、さすがにないのだし。
(この人、どこまで信用できるのかしら……)
梛雉は出会ったばかりの他人だ。やむを得ずついてきたとはいえ、心から信頼したわけではない。だが、彼以外に他に頼れるあてもないのが現状だ。
(いや――顔見知りならもう一人いるけど……)
淡い金髪と薄青い瞳の、惺壽という男性。
本当に顔を知っているだけだ。なにしろ彼は、乙葉を梛雉に押し付けてさっさと逃げた。
頼ることはできないだろう。
(ていうか、見るからに手の早そうな人と一緒じゃ身が持たないし……)
よみがえる泉での一件。急に抱き寄せられ、唇が触れ合いそうなくらいの大接近。
(……ん? もしかしてあれ、もうちょっとでキスするところだった?)
「乙葉嬢」
「はいいいいいいいっっっ?」
急に名前を呼ばれて、声がひっくり返った。
「目的地が見えてきたけれど……どうかしたかい?」
「なななななんでもない。本当になんでもないっ!」
訝しげな鳳凰に答え、乙葉はどくどくと騒いでいる胸を制服の上から押さえた。
(わ、忘れよう。うん、あんな黒い記憶は! なかったことにするのが一番だわ!)
無理やり記憶と狼狽に蓋をした。大丈夫、ファーストキスは無事なのだから。
前方に目を凝らすと、左右には相変わらず白い雲海が広がるばかりだが、その合間にちらりと深い緑色が見えた。どうやら森の広がる雲があるようだ。
「あの雲はさっきみたいに突然崩れたりしない?」
「心配ないよ、あそこは」
答えた梛雉が、森を目指して高度を下げる。
生い茂る枝葉を掠めることもなく、木立の合間を器用にすり抜けていくと、やがて深い森の奥には大きな建物が現れた。
まるで平安時代の貴族の屋敷のような造りで、周囲に溶け込むような木造の建物だ。
やがて鳳凰は速度を緩め、屋外に面した回廊の欄干にふわりと両足で止まった。
ぽかんとしていた乙葉は、促され、慌てて革靴を脱いで回廊の床へと飛び降りる。
背後の赤い光に振り向けば、梛雉は鳳凰から朱金色の髪の美青年へと姿を変えていた。
「さて、屋主はどこかな、と……」
すたすたと回廊を歩きだした彼を追い、乙葉も革靴を持ったまま歩きはじめた。
「ここ、あなたの家じゃないの?」
「そうだよ。私の屋敷は人が多くて賑やかだけれど、その分落ち着けないから」
じゃあ一体誰の家なのだろうと思いつつ、乙葉は静まりかえった屋敷の中を落ち着きなく見回す。
木戸や障子が並ぶ回廊の天井は高く、美しい花模様や精緻な彫刻の灯篭がある。
やがて梛雉がぴたりと足を止めた。
乙葉もその背後で立ち止まり、彼の背中越しに向こうを覗き込む。
たどり着いたのはがらんと広い部屋だ。
室内の三方を囲むのは壁ではなく、欄干で、その向こうに澄んだ湖が広がっている。
どうやら湖面に張りだした部屋らしい。壁のない室内を爽風が吹き抜けている。
室内の真ん中には敷物と脇息が置いてあるものの、そこに家主とやらの姿はない。
「さて――一体どういう了見か、ぜひ伺わせてもらいたいね」
突然、背後からゆったり響いた低い声に、抱えていた革靴がぼとぼとっと足元に落ちた。
「やあ惺壽、お帰り。お邪魔しているよ」
振り返った梛雉が乙葉の頭越しに、にこにこと言っている。
乙葉もおそるおそるそちらを見れば、悠然と立ちはだかるのは、一人の長身の男性だ。
(げ……)
かちんと硬直した。
そこに立っていたのは、先ほど忘れると決めたばかりの、惺壽だったのだ。
(なんでこの人がここに……!?)
答えは簡単。この屋敷の主は彼だから。
惺壽は興味のなさそうな一瞥をこちらに寄越しただけで、すぐに視線を梛雉へ滑らせる。
心得たように梛雉が笑顔で答えた。
「こちらは乙葉嬢。ひとまずは、君の屋敷に避難してもらおうと思って連れてきたんだ」
「おまえに譲ったはずだが?」
「もちろん承知しているよ。けれど私の屋敷で人間のお嬢さんを匿うには難しいだろう? その点、ここは君が一人で暮らしているし、雲乃峰や他の人の目も届かないし、何より安全だ。彼女にとってこれほど条件のいい場所はないよ。……乙葉嬢も、どうか分かってね」
惺壽は冷ややかに梛雉を見るだけで無言だ。
乙葉は息を飲み、小さく尋ねる。
「分かる分からないの前に……わたし、他の人に見つかっちゃいけないの?」
梛雉の言葉はそういうふうにしか受け取れない。案の定、彼は頷いた。
「無用な騒動を避けるため、天乃原が中乃国との積極的な関わりを断って久しい。時折こちらから地上に降りることはあっても、人間が理由もなく天上に姿を見せるなんてことはありえないんだ」
「ありえない……それなのに、なんでわたしは今、ここにいるの?」
先送りにされた話題だ。
両腕を軽く広げた乙葉に、今度こそ明確な答えが返ってくる。
「それは沼垂主どのになんらかの意図があったからではないかな」
「沼垂主? ……って誰?」
乙葉は首を傾げた。知らない名前だ。
「天上と地上を結ぶ唯一の橋である、天乃浮橋の番をしておられる方。……乙葉嬢、天乃原にやって来たのなら、君もあの橋を渡っているはずだよね?」
「そんな橋も知らないけど……」
自分は神社の池で溺れて、浮上したら、この世界にいただけだ。
「そう。――惺壽、どう思う?」
「どうとは?」
梛雉に話を振られた惺壽は、どうでもよさすに尋ね返す。
「乙葉嬢は、天乃浮橋も沼垂主どのも知らないみたいだ。けれど本当にそうなのかな。たとえば……彼女が沼垂主どのを庇っている可能性はないかい?」
乙葉は目を瞬かせた。沼垂主を庇う――それは一体どういう意味だ。
一方の惺壽は別段驚いた様子も見せず、淡々と口を開く。
「この娘が沼垂主と共謀し、謀でも巡らせているとでも?」
「そう。沼垂主どのはなにかを計画していた。それに乙葉嬢の協力が必要だった。だからひそかに乙葉嬢を天乃原に呼び寄せたけれど、沼垂主どのと落ち合う前に、我々が彼女を見つけた。不測の事態に見舞われた乙葉嬢は、共謀の内容を明るみに出すわけにもいかず、とっさに、沼垂主どののことも天乃浮橋のことも知らないと、嘘をついた」
「ちょっと待ってよ。嘘もなにもそんな人知らないわ。見ず知らずの他人を庇うと思う?」
乙葉はたまらず口を挟んだ。だが梛雉は困った笑顔で首を横に振る。
「その健気さはいじらしいけれど、さすがに無理があるよ。天乃原に来た以上、天乃浮橋も、橋の番人も知らないなんて言い逃れは通用しない。……それとも、口に出すことを憚るほどの謀略なのかい?」
「だから違うってば! わたしは本当になんにも知らない!」
乙葉は焦った声を上げた。
(な、なんか、とんでもない濡れ衣着せられてない……!?)
どうしてこんな方向に話が転がっていくのだ。自分は潔白の身だというのに。
「困ったね。どうやら簡単には話してくれないようだ。なにか対策を講じないと」
「対策って……まさか、拷問でもする気じゃ……」
「まさか。たとえ君が天乃原に反旗を翻す大罪人であったとしても、可憐な乙女相手にそんな無体な真似ができるわけないじゃないか」
「大罪人!? 話がどんどん大きくなってない!?」
目を剥いた乙葉の前で、梛雉の細身が赤い光を放つ。
「詳細が分かるまで雲乃峰への報告は控えておこう。なるべく事を荒立てたくない。……私は一旦お暇するけれど、乙葉嬢。どうかその閉ざされた小さな胸の内を打ち明けてくれるまで、待っているよ。なにか事情があるのだろう。けれど、私たちは決して君の敵じゃない」
「小さいは余計よ!! ていうか事情なんてない! ……待って、逃げる気!?」
乙葉は怒鳴ったが、鳳凰に姿を変えた梛雉は優雅に両翼を広げる。
「御機嫌よう、可愛い人。……惺壽も。彼女のことを頼んだよ」
歌うように告げ、梛雉はふわりと飛び上がった。
そのまま華麗な極彩色の尾を引きながら、部屋の欄干を飛び越し、凪いだ湖上へと宙をすべっていく。
乙葉も慌てて梛雉を追いかけて走り、欄干に飛びついて大きく外に身を乗りだした。
青空を仰ぐと、梛雉の姿はすでに天高くに舞い上がっている。
「うそでしょ、置き去り……?」
それはつまり――監禁されたということではないだろうか。