四章ー15話
「…………どうした」
「え? ……あ」
茫然と立ちすくんでいた乙葉はそんな声にはっと顔を上げ、そして瞬いた。
惺壽が乙葉の片手を取ったからだ。
彼の手の平の上で、自分の手はあまりに小さい。
「震えている」
月明かりの中、薄青い瞳が動いて、静かにこちらを見た。声も同様に静かだ。
「……ちょっと冷えてきたから……」
なぜか目を合わせていられず、乙葉は睫毛を伏せて答えた。
自分の手を包む惺壽の体温が、ひどく心地よく肌に沁み込んでいる。
いつの間にか、それほど自分の手は冷たくなっていたらしい。陽が沈んで急激に気温が下がったからかもしれない。きっと震えているのもそのせいだ。
(……大丈夫。落ち着いて。わたしはとっくに無事に天乃原に来てるんだから)
危機は脱しているのだ。今さら怖がる理由なんてなにもない。
「天虎がわたしの世界に迷い込んでなくてよかったわ。……でも、その子も可哀そう」
惺壽に手を取られたままの乙葉は、おずおずと上目を上げた。
一方的な理由で捕らわれそうになり、逃亡の挙句、檻のような空間に閉じ込められた天虎は、いわば沼垂主の出世の犠牲になったようなものだ。
「己より獣の心配とはね。それほどのお人よしとは存じ上げなかった」
「だって可哀そうじゃない。その天虎はなんにも悪くないだから。助けてあげられたらいいなって思ったのよ」
むくれたように睨んだ先で、息を落とすように広い肩が上下する。
「手がないわけではないが、……親愛なる番人どのの力添えが不可欠だな」
意外な答えだ。
乙葉はまっすぐに顔を上げた。
「どのみち、それは避けて通れないんじゃないの? わたしが中乃国に戻るには、やっぱり天乃浮橋を通るしかないわけでしょ」
乙葉がこちらに来た経緯が偶然の賜物ならば、地上に戻るにはやはり正しく天乃浮橋を渡るしかないのではないだろうか。
そのためには番人である沼垂主の協力が必要になる。
どうせ協力させるなら得る利益は多いほうがいい。
だが飄々とした惺壽の言葉に撃沈する羽目になった。
「あの番人どのが、天乃浮橋を開くことを快く承諾してくれるとでもお思いかい」
「う……いいえ……」
結局、今回の引き金を引いたのは沼垂主だ。
八雲乃櫂を迂闊に使いさえしなければ、天上と地上が繋がることはなかったのだから。
(あのエロ蛙のことだわ。自分の失敗を認めて責任を取るなんてこと、絶対にしないに決まってる)
加えて沼垂主は、月読乃宮の命令である“騎獣探し”をまだ達成していない。
一度は目星をつけた天虎を、自分の手で永遠に逃がしてしまったことになる。
そんなヘマを認めることも、きっとしないだろう。
「あ。でも沼垂主だって、天虎を捕まえたいはずよね。それを条件に取引すれば……」
「騎獣ならば他の妖獣を捕えれば済む話だ」
提案をすぐに却下される。
たしかにそうだ。騎獣候補はいくらでも天上にいるだろう。
「捕まえる……そういえば、沼垂主はどうしてわたしを捕まえようとしたのかしら」
惺壽の留守を狙ったように、沼垂主の手下が乙葉を攫おうとした理由が判明していない。
唐突に沈黙が落ちた。乙葉は怪訝そうに顔を上げる。
「……惺壽?」
月光の中に、惺壽の静かな瞳と目が合った。薄い唇は言葉を紡ごうとしない。
その表情を見ているうちに、――ふと、思い当たった。
(沼垂主はわたしが人間だってことに気づいたから、攫いにきた……?)
人間である乙葉の存在はすなわち、沼垂主の二重の不手際を意味するのだ。
八雲乃櫂を不用意に振るったこと、そして月読乃宮の命に手間取っていること。
仮に他の騎獣候補を捕まえて騎獣探しを挽回したとしても、一度天虎を逃がした事実は消えないのだ。乙葉が天乃原にいる限り、ずっと。
(沼垂主にとってわたしは目障りでしかない……でも、攫ってどうするの? こっそり中乃国に帰してくれる? それとも一生牢屋にでも放り込むか、もしくは……)
存在を抹殺するか、だ。
気づいた瞬間、取られたままの手を緩く引かれた。
身体が前に傾ぐ。だがすぐに、温かいものに全身を受け止められた。
頬に当たる、衣越しの逞しい体躯。
「…………」
抱き合ったというよりは、ちょっとぶつかっただけのような、中途半端な態勢だ。




