四章ー14話
(えっと、沼垂主が小物なのはひとまず置いといて……つまり、どうしてわたしが天乃原に来たのかっていうと……)
中乃国から天乃原への道を作るためには、強い願いを発する必要がある。
地上でそれを果たしたのは紛れもなく乙葉だ。
しかも参拝場所は天人に所縁のある鏡野神社。
ただでさえ天乃原へと道が繋がりやすい社だった。
それだけで天上と地上が交わるはずがない。二つの世界を繋ぐ関所が開かれなければ、人間が天上世界に足を踏みいれることはあり得ない。
だが偶然にも、天上と地上を隔てる空間が撓む事態が起こった。
沼垂主がなんらかの理由で、関所を開くために必要な八雲乃櫂の力を振るったのだ。
正しく作用しなかった八雲乃櫂の力は、地上から届いた乙葉の願いとぶつかって、中乃国と天乃原を隔てる関所を歪んだ形で開かせてしまった。
その隙間のような空間に飛び込んだのが、騎獣という飼い殺しの身から必死に逃れようとする、天虎だ。八雲乃櫂を振るった時に沼垂主のそばにいたのだろう。惺壽の言う通り、沼垂主に報復をしようとしたのかもしれない。
そこまで考えた乙葉は、ふと閃いた。
「あ……境内の池で溺れてた、あの猫……!」
池で溺れていた猫を助けようとして、天乃原にたどり着いたのだ。
大きく見開いた瞳に、惺壽の頷きが映る。
「件の天虎だろう。鏡乃社の池はすなわち水鏡だ。中乃国の風景を映しながら、その実、水面下に、天乃原へ通ずる道を押し隠している。鏡乃社を守護するのは一対の神鏡だ」
「ご神体は、あのぼろい鏡だけじゃなかったんだ……」
鏡野神社の社には、小さな古ぼけた神鏡が安置されていた。
その他に、神社の神体はもう一つあったのだ。
熊笹に囲まれた小さな池だ。
そしてあの池こそ、天上と地上を結ぶ隠し扉だったという。
(……あれ?)
引っ掛かりを覚えた。
池で溺れた動物の話をしたのはいつだっただろう。
(たしか一昨日よね。あの時からもう、惺壽はわたしと天虎の入れ替わりに気づいてた?)
乙葉と惺壽はその直後、同調して記憶を共有した。
あの時から、彼は薄々この予測を立ていたのかもしれない。
それくらい流暢な説明だ。
(どうしてずっと黙ってたの……)
問い質したかったが、なんとなく今は気が引けてしまい、結局別のことを尋ねる。
「もし、わたしが天虎を助けようとしなかったら……どうなってたと思う?」
「こちらに迷い込むことはなかっただろう。おまえは自ら、天上と地上の隙間に足を踏み入れたというわけだ。――心優しさが仇になったな」
惺壽は目を伏せて肩を竦めた。
飄々とした仕草と言い草は、嫌味なのか事実を言っているだけなのか分からないところだが、どちらにしろ腹が立つのは間違いがない。
むっと眉を寄せた乙葉だが、そこで恐ろしいことに気づいた。
「ちょっと待って……わたしの代わりに、天虎が中乃国に行ってるってことは……あんな危険な妖獣が、あっちの世界に紛れこんでるってこと……?」
なぜ今まで思い当たらなかったのだろう。
あの平和な世界で、人々が見たこともない猛獣が、野放しになったことに。
怪我人? いや死人が出てもおかしくない。
さっと顔を青ざめさせた乙葉だが、静かな声がそれを遮った。
「その心配は無用だ。天虎はおそらく、未だ水鏡に捕らわれたままだろう」
「え……」
掠れた声を漏らし、瞬きをする。心臓がどくどくと不吉な脈を刻んでいた。
不安げに見上げれば、惺壽の表情は揺るぎなく静謐だ。
「天虎は偶然にも天上を逃れただけだ。八雲乃櫂の加護がない以上、中乃国に足を踏み入れることはできない」
「でも、わたしは無事に天乃原に来たけど……」
「おまえが受けた加護は八雲乃櫂から与えられたものではなく、鏡乃社から授かったものだ。……社に拝する前に、神鏡に姿を映しただろう」
「……う、うん」
ぎこちなく頷いた。
たしかに境内で賽銭箱に小銭を放り込む前に、乙葉は社の中を覗き込んで、古ぼけたご神体の鏡に自分を映した。
できれば鏡面に映ったものは思い出したくないが、惺壽の追及がそれを許さない。
「なにが映った?」
答えたくない、とは言えない。
仕方なくぼそぼそと小さく呟く。
「……わたしの顔と、その後ろに、境内の風景がちょこっと映ってたわ……」
そう。社に安置された神鏡には、乙葉と、その肩越しに境内の風景が映り込んでいた。
凹凸の多い鏡面に映った自分の顔は、今でもはっきりと目に焼き付いている。
張りつめて、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
今から失恋すべく森野に会いにいく直前だったからだ。
(そういえばあの時の顔、惺壽に見られてるのよね……)
同調した時、彼にも同じものが見えたはずだ。
どう思っただろう。
いつも勝気な乙葉のあんな顔を。しかも恋愛絡みだからよけい居たたまれない。
急に恥ずかしくなって顔を伏せると、頭上から予想外の言葉が降ってきた。
「水鏡が映ったはずだ」
「え、そっち? ……ああ、たしかに映ってたわね……」
「神鏡と神鏡との合わせ鏡。――そこには、わずかながら神力が生まれる」
「…………」
一瞬、言葉を失った。その間にも淡々とした説明が続く。
「その神力に守られ、おまえは空間の歪を超えて、天乃原にたどり着くことができた」
「……じゃあ、もしあの時、鏡を覗き込んでなかったら……」
「神力の守護はない。天虎と同様、永遠に水鏡に捕らわれていただろうよ」
すべて偶然の産物だったのだ。
なにか一つでも条件が欠けていたら、乙葉は今頃、地上からも天上からも姿を消していたかもしれない。自分でもわけが分からないまま、永遠に。




