四章ー12話
鬱蒼と落ちる葉陰の中、獣道とも呼べない道なき道をひたすらに進む。
そろそろ息が上がっている。走り続けるのも限界だ。
徐々に速度を緩めた乙葉は、やがて足を止めた。
この辺りは灌木の茂みに覆われて視界が悪い。
振り返っても追手の姿は見えなかった。
(まだ見つかってないわよね……)
呼吸を整えながら、ようやくほっとしかけたが。
「いないようだな……」
「あちらはどうだ」
木々を挟んで一本向こうの小道から声が聞こえ、心臓が止まりそうになった。
別の道を通ってきた追手と、偶然ここで行き会わせたらしい。
今ここで走り出せば足音に気づかれるかもしれない。
乙葉はその場にしゃがんだ。ちょうど灌木が自分を隠してくれるはずだ。
追手の足音が大股に去っていく。どうやら明後日の方向に行ってくれたらしい。
だが、まだ油断はできない。下手に動けば今度こそ鉢合わせるかもしれない。
「早く諦めて帰って……」
乙葉は地面に片膝をついて低く構えたまま、祈るように小さく呟いた。
(惺壽……)
なぜこんな時に彼はいないのだろう。惺壽がいてくれれば、たとえ沼垂主が自身が舌なめずりしながら現れたとしても、こわくなんかないのに。
――ふっと、閉じた瞼の裏が暗く翳った。
恐怖に目を見開く。
だが、周囲には誰の姿も見えない。というより、なにもかもが見えにくい。
まるで昼から一転、真夜中になったような暗さだ。
(また……?)
しゃがんだまま空を仰いだ乙葉は、心中でそう呟いた。
空に光源は見当たらない。
丈高い木々の影法師がようやく目視できる程度だ。
どうやら、また太陽が急に姿を消したらしい。
(天照陽乃宮って本当に気まぐれね。……おかげで見つかりにくくはなったけど……)
追手たちが早々に捜索を諦めて引き揚げてくれればいいのだが。
とにかく安心できるまでは、灌木の陰で気配を殺しているしかない。
――それから、どれくらい経っただろう。
追手の声や足音は二度と聞こえてこなかった。
(そろそろ屋敷に戻っても平気……?)
乙葉は躊躇いながらそっと立ちあがる。
いつの間にか月が出たらしく、木立の中にまで、ぼんやりと白い光が差し込んでいた。
物言わぬ木々が月光に葉陰を落とす中、手探りに木の幹につかまりながら、一歩一歩確かめるように歩き出した。ずっとしゃがんでいたからか、足がしびれて歩きにくい。
もう追手に出くわすことはなかった。
夜の森は息が詰まるほど静まり返っている。
時折、夜風が梢をざわめかせ、ついでに乙葉の髪もふわふわと揺らすくらいだ。
めちゃくちゃに走ったので、屋敷に戻るまでに散々迷う羽目になった。
それでもようやく、道の先で木立が途切れているのを確認できる。
(よかった、帰り着いた……)
ほっとしながら森から出た乙葉は、不意に足を止めた。
葉陰に遮られなくなった月光に、立ち止まった自分の影法師が足元から細長く伸びる。
その先にはあるのは見慣れた屋敷だ。
軒下に、回廊に佇む男性の姿がある。
(惺壽……)
質素な白い装束が夜目にぼんやりと浮かび上がっている。
淡い金髪は銀月光に燐光を放ち、怜悧な薄青の双眸はすこし見開かれたようだ。
惺壽の形のいい唇がわずかに動いた。――乙葉、と。
ぱちり、と乙葉は瞬いた。
その間に惺壽は身軽く廊下から降り、こちらに歩いてくる。
ざっざっと砂を踏みしめながら近づいてくる長身に、思わず一歩後ずさってしまった。
なぜだろう。気圧されてしまう。惺壽の表情が初めて見るほど険しいせいだ。
「……怪我は」
「な、ない……」
やがて目の前で立ち止まった彼に、乙葉はぎこちなく頭を振ったのだった。
こわい。なぜか委縮してしまうほどの鋭さだ。
惺壽の厳しい顔つきがほんのすこし緩む。広い肩は安堵小さく上下した。
それを見てはっと気づく。
(もしかして、わたしを心配してた、の……?)
惺壽はちょうど廊下を行き過ぎるところだったようだ。
乙葉を探していたのかもしれない。
そう思うと、なんだか――うまく言えない気持ちになった。
肝心な時に留守なんだからとかなんとか、いつもならそういう憎まれ口が飛び出すはずなのに、とてもそんな気分になれない。
ただそわそわ落ち着かず、顔を俯ける。
「疲れちゃった……」
「だろうな」
小さく呟けば、あっさりした返事があった。いつもの飄々とした口調だ。
不意に、乙葉の口元がくすりと緩んだ。
惺壽はすべて把握済みようだ。
彼が留守にしている間、この屋敷でなにが起こったのかを。
そして何気ない一言で彼の胸中を推し量れるようになった自分が、おかしかったのだ。
(初めて会った時は、何考えてるか分からない、ただの冷血嫌味男だったのに)
いつの間にかずいぶん馴れ合っていたみたいだ。
喧嘩しかしていない気がするのに。




